いたみ

「それじゃあ、失礼します」

図書室のドアに手をかけたとき、中から聞こえたその声は聞き覚えのあるもの。瞬時に彼女の顔が思い浮かんで、つい手を引っ込めてしまった。そうする必要なんてないのに身構えてしまうのは、きっと僕の友達のせいもある。
すっと音を立てずにドアが開く。そこにいたのは予想通りの彼女で、僕を見て申し訳なさそうに微笑んだ。

「ああ、ごめんね、不破くん。どうぞ」
「あ、ありがとう」

彼女が下がって道を開けてくれたから、僕はお礼を言って滑り込む。目を合わせば彼女はやっぱり笑顔を浮かべてから廊下へと出ていった。
ドアが閉まるのをつい見届けてしまう。彼女は、七音さんは僕のクラスメイトだ。友達と言えるほどの仲ではない。席が近くて、同じ班で、きっと他の誰より仲良くなりやすい距離なのに、彼女と交わした会話はきっとクラスの中でも少ない方。
理由はきっと三郎にある。三郎は彼女を嫌っていた。昔から人との間に壁を作りたがる性格だったけれど、彼女に対してはそれが顕著だった。自分どころか僕やハチにも極力接触させまいとする。以前その理由を訊いたけれど、三郎は『目が嫌だ』と言ったきり語ろうとしなかった。
七音さんは、僕の知る限りいつでも微笑んでいる。班での作業のときも給食のときも、いないように扱おうとする三郎の態度に気を悪くする様子もなく、それどころか三郎の気に障らないようにするみたいに言葉を少なくしてただ控えめに笑っていた。
大人しい性格だから、もしくは気が弱いから、で片付けられるわけじゃない。七音さんは彼女の友達とははしゃいだ声を上げるし、女の子を泣かせた男子に説教するところも見たことがある。三郎にだけあの態度を取るのだ。一線を引いて、それを越えないように。
どうして三郎は彼女を嫌うんだろう。どうして七音さんはそれを許容するんだろう。

「不破、どうした?」

先輩の声にはっとする。いけない、考え込んでしまった。一度考え事を始めると思考の淵に沈んでしまってなかなか出口を見つけられないのは僕の悪い癖だ。「いえ、何でも。返却をお願いします」慌ててカウンターに本を置けば、中在家先輩はそれ以上何も言わなかった。
今日は僕は当番じゃない。きっちりとした性格の中在家先輩は、後輩だからとか図書委員だからとかの理由で返却の作業を僕にさせることはない。それどころかカウンターの中にも入れさせようとしない。一歩でも踏み込もうとすれば厳格さを感じさせる静かな声が僕の名前を呼ぶだろう。僕は先輩が判子を押すのを、ただ待っていた。
図書室の中には誰もいない。それで気になったのは、図書室に入る前に聞いた声だ。職員室と違い、図書室には入出時に『失礼します』だとかの挨拶をする人はいない。自由に出入りするのが基本だし、いたとしても知り合い相手に『じゃあね』くらいだ。
だけれど七音さんはその言葉を言った。中在家先輩以外誰もいないのだから、当然中在家先輩に向けた言葉だ。けれど中在家先輩が図書室内での私語に厳しいことは校内でも有名で、先輩が当番のときには利用者も減って、返却に来た生徒も一切口を開かず足早に去っていくくらいなのに。また考え始めようとした僕に、珍しくすぐに浮かんだのはひとつの推測。

「中在家先輩は、七音さんとお知り合いだったんですか?」
「……図書室を、よく利用している」
「え」
「去年の始めから……知らないのか?」

思わず訊いてしまったそれに、中在家先輩は更なる疑問の種を与えてくれた。図書室をよく利用している?そう先輩は言うが、けれど僕は見たことがない。僕が当番のときに彼女が現れたことは、一度だってない筈だ。図書室で彼女を見たのは、今日がはじめてだった。
目についたのはカウンターの脇に寄せられた本。返却された本をひとまず纏めておくときに使う場所に置かれた本は、きっと七音さんが借りていたものだろう。手を伸ばし、背表紙の裏に取り付けられた貸出カードを見る。一番最後に書かれた名前は予想通りのもので、借りた日付はつい最近のものだった。読むペースも遅くない彼女は、図書室の常連でもおかしくないだろう。
けれど退出したときの七音さんは、本を持っていなかった。本を返却したら、別のものを借りるのでは。図書室をよく利用する人は大体そうするし、今日の僕だってそのつもりだった。

「……あ」

そういえば、明日は僕の当番の日だ。それを思い出して、そして気付く。僕が当番の日、カウンターの引き出しの中に、彼女の名前が書かれた貸出しカードが入っていることは一度としてなかったことに。暗雲に似たものが僕の心でぐるぐると渦を巻く。偶然か、それとも故意にか。偶然というには一年以上が過ぎていて。
つまり、それは。

――七音さんが線を引いているのは、三郎だけじゃなかった?


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