かたち

僕は前世でも今世でも良くしていただいているけど、前世で喜八郎が香純先輩と関わっていたという記憶は、あまり無かった。名前くらいは知っていただろうし、何度か会話も交わしていたと思うけれど、特筆するほどの接点はなかった筈だ。
ただ、香純先輩が喜八郎の掘った穴へ落ちた善法寺先輩によく手を差し伸べていたことは憶えている。保健委員会の一員だったのにあまり不運な目に遭っていなかった先輩は、保健委員会の下級生にきらきらとした目で見られていた。

『あの人はどうして落ちないのだろう』

対して、喜八郎はよく首を傾げていた。当時の喜八郎の穴は六年生だった善法寺先輩でも(本当に気付かずか不運の所為かは分からないが)落ちていたものだ。保健委員であり五年生の香純先輩が落ちない理由は、確かに僕にも分からなかった。
喜八郎が香純先輩を落とそうと一時期躍起になって穴を掘っていたこともあった。用具委員長がカンカンに怒って、潮江先輩といつも以上の喧嘩をして、会計委員会がいつも以上にピリピリしたっけ。昔の短くない人生、忘れてしまったことは多いのに、何故こんなことは憶えているのか。



生徒会で、香純先輩がお茶を淹れているときだ。僕と香純先輩以外誰もいない空間で、先輩はふと思い出したように話し出した。

「昨日、綾部くんに会ったわ」
「喜八郎に?」
「体育館裏で穴を掘っていたの。今世も穴掘り小僧と呼ばれていることは知ってたけど、どこで掘ってるのか知らなかったから驚いた」

バスケ部から『外で変な音がする』と相談されなかったらきっと気付かないままだったと語る香純先輩に、僕も喜八郎がどこで掘っているのか知らなかったことを正直に打ち明ける。
喜八郎は昼休みや放課後にふらりと居なくなることがあり、その間に穴を掘っているのだろうとは土に汚れた制服から簡単に推測できた。けれど、喜八郎は目につくところにはいなかったし、滝夜叉丸も探して止めようとしなかった。昔ならば、喜八郎は場所や時間を気にせず穴を掘っていたし、そんな喜八郎が授業に遅れないよう探すのは滝夜叉丸の役目だったのに。

「そんなところで掘っていたのか……」

それが無くなったのは、今世では喜八郎が授業に遅れることは滅多にないからだ。自分で時間を確認してきちんと教室に戻ってくる。喜八郎がそうなら当然滝夜叉丸が探しに行くこともない。喜八郎に対する小言も、呆れた顔で「お前という奴はまた制服を汚して。ジャージに着替えることを覚えたらどうだ」この程度だった。
喜八郎の行動は今の学生として正しいこと、生徒会に属する身としても頻繁な遅刻なんて容認できない。昔との差異はそうやって気にしないようにした。気にしていたら、彼らの横でうまく笑えないと思った。

「綾部くん、掘った穴を自分で埋めてるんだって」
「え、」
「落とし穴は危険だから作らない、らしくて」

だから、更なる違いをすぐには受け止められなかった。
『あの頃』の喜八郎は、決して自ら埋めようとはしなかった。学園中を穴だらけにして、競合地域だからと容認されて、用具委員会に睨まれても怒鳴られても涼しい顔をしていたものだ。
それなのに、今では自らの手で埋めるのか。そりゃあこの世は平和だ。罠があるんじゃないかと注意する習慣なんていらないし、誰かに怪我をさせたら一大事というのも、分かる。人目につかない場所に掘るなら尚更だ。
だからって、理解が感情に追いつくわけじゃない。
香純先輩も寂しそうに眉を下げながら、「でもね」しかしふっと微笑んだ。

「せっかくだから埋め手に立候補してみたの」
「……え?」
「今世の綾部くんの穴掘りも大したものよ。せっかく掘ったのに、誰にも知られず埋められるなんて残念だもの。落ちる委員会も埋める委員会もないから仕方ないけれど」

それを考えたら、元保健委員で現『元用具委員』の恋人の私は結構適任じゃない?香純先輩はくすくすと笑い声を上げる。それに対して、僕は驚きを隠せなかった。
喜八郎がそれを許したこともだけど、香純先輩が喜八郎と関係を作ろうとしていることに。作り直そうと、していることに。

「早速明日埋めに行くって約束したの」

楽しみだ、と微笑む香純先輩は、いつか見たものよりほんの少し晴れやかだった。その笑顔に、ああそうか、気付かされる。
先輩は諦めたわけではないのだ。難しいと落ち込んでも、記憶のない後輩やあの人達と共に笑うことを今でも望んでいる。昔のように、というのが無理ならばと、新しい関係を築こうとしているのだろう。
きっとそう訊いたら、香純先輩は「そんなんじゃないよ」と首を振るのだろうけど。

「……香純先輩は、何故喜八郎の穴に落ちなかったのですか?」
「唐突ね。ええと、確か……私が落ちなかったんじゃなくて、先に他の人が落ちてしまうだけ。もしくは落ちそうになったら止めてもらってただけよ」

前世では、喜八郎と香純先輩は落とそうとする者と落ちない者の関係だった。今世では掘る者と埋める者として、別のかたちで交流を深めていこうとしているのだろう。昔よりも近く、より親しく。

「……きっと、喜八郎とならうまくやれますよ」
「だといいなぁ」

僕も、喜八郎に言ってみようか。お前の掘った穴を見せてほしいと。訝しげな顔をするだろうけど、今の喜八郎を認めればきっとこの違和感と居心地の悪さを少しでも消してくれる筈だ。そしていずれは、『あの頃』との違いなんて気にしないでいられるようになることだろう。
それを願って、僕は決心をする。


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