潮江文次郎に関する過去話

六年い組会計委員会委員長潮江文次郎は内村ちづるが嫌いである。
そのことは文次郎の態度に言動に表れており、下級生たちと一部の上級生は皆その通りだと信じていた。



「昔話をしてやろう」

楽しいことはないだろうかと学園を彷徨いていたらちづるを憎々しげに睨む文次郎を見つけ、そんな話があったなと真相を探るべく聞き込みを開始した鉢屋三郎に、第一の証人立花仙蔵は鼻で笑った。愉快そうに口端を釣り上げる様子を見て、聞き込みは早々に終了しそうだと三郎は密かに思う。

「一年の入学したての頃、文次郎には好いた女が居た。一目惚れでな、くのたまに大層可愛い娘がいると何度も聞かされたものだ。そのくせ声を掛ける勇気はなく、遠くから眺める毎日だった。まあ、馬鹿でも予想は付くだろうがその娘が内村でな」
「そこを引っ張らないとは。しかし、あの人も昔は人並みだったのですね」

今では想像もつかない。何せ学園一忍者してる潮江文次郎である。今では三禁三禁とギンギン五月蝿い彼の人が、可愛い顔のくのたまに現を抜かしていたなんて。いつかほんの少し脚色して学園中に広めたい話だ。三郎の胸中に気付いているのかいないのか、仙蔵は更に進める。

「それが変化したのは一年生恒例のくのたまの制裁の時期だ。くのたまの制裁を受け、穴に落ちた文次郎に内村は手を差し伸べた。にっこりと笑ってな。自分に手酷いことをした奴と同じくのたまであったとしても、惚れた女が自分に笑いかけて救いの手を伸ばしていたら、鉢屋、一年のお前ならどうしていた?」
「……手を取るでしょうね。この娘は他のくのたまとは違う、と思うかもしれません」
「そうだな。文次郎もそうだったんだろう。あいつも差し出された手を取った」

制裁を与えるくのたまは二年生というのもある。自分と同じ一年生ならばまだ完全に染まっていないのではと期待するのも考えられなくはない。
しかし、と三郎は雷蔵の面の下を僅かに歪ませる。相手はあの内村ちづる先輩なのだ、ただで済む筈がない。今では後輩を愛し守ろうとする優しい先輩ではあるが、当時の彼女はその片鱗すらなかったのだから。むしろあの人にあったのはくのたまの気質とトラパーの素質だった。

「ところでお前たちは内村から制裁を受けたのだったな」
「……おかげで三年ほどあの人に怯えて過ごしましたよ」
「だろうな。ああ、詳しい内容を思い出す必要はない。恐怖したことだけを思い出せ。……文次郎はそれとほぼ同じものを味わったのだ」

綺麗に笑ってみせる仙蔵に、三郎は嫌な汗が流れるのを感じた。奥底に封印した記憶が紐解かれんとするのは、必死になって気付かない振りをする。思い出してしまったら十日は顔を合わせられる自信がなかった。

「引き上げられる瞬間に手を離され再び落下、代わりに下ろした縄には漆が塗られ、忍たまの長屋へ戻るまでの道中には落とし穴と用心縄、更には逆さに吊り上げられ、それ以降は箝口令が敷かれている。後日おわびと称して渡された団子の中には……これも言わないでおこうか。とにかく、普通の一年生ならばトラウマ確定のものだ。私の代とお前たちの代は内村のせいで自主退学が多いという噂もあるな」

笑えない冗談だ。冗談を言っているようには見えないが、冗談と思わなければやってられない。団子の中身も聞かないでおこう。今では若干気まずいながらもそれなりに良い先輩後輩の関係を築いているのだから、その関係に罅を入れるような真似はけっしてするまい。
三郎はハハハと固い声で笑い流すと、ごほん、咳払いをひとつ。

「それで、潮江先輩は?まさか『普通の一年生』だったわけではないでしょう?」
「勿論だとも。大方、これは忍として成長するための試練だとでも思ったのだろう。果敢に会いに行っていた」
「さすがは潮江先輩。その頃からギンギンに忍者していたと。……好いた女に会いたかったというのは邪推でしょうかね」

三郎の問いに、けれど仙蔵は「さあな」さらりと流す。実際のところはほんの少し深まった笑みから押して知るべきだろう。三郎は肩を竦め、話の続きを催促した。
仙蔵はますます口角を上げていく。くつくつと、何も知らない者が聞けば聞き惚れてしまいそうな笑い声を零し、それが愉悦からくるものだと理解している三郎は聞く前から文次郎にちょっぴり同情を覚えた。

「そうした日々を暫く送り、毎度ぼろぼろになって帰っていく文次郎に、ある日内村は言ったのだ。
――『潮江って“被虐趣味”なの?』、とな」

盛大に吹き出しそうになったのを、三郎は慌てて抑え止めた。しかし湧き上がる笑いは隠しきれずに肩を震わせ、ひぃひぃと呼吸が難しくなる。
被虐趣味て。つまりドエム扱いである。好きな子からそんな風に思われるとは、幼い心は相当傷つけられただろう。いや、一年生ならまだ意味も知らなかったかもしれない。けれど知らないことは自分でしっかりと調べる筈だ。それから受ける衝撃は、計り知れないものだったに違いない。

「それからの文次郎は変わったな。何か忘れたいものがあるのだと言わんばかりに鍛練に励んだ。今の人格形成に一役買ったのかもしれないな」
「……でしょうね。それで、今でも恨んでるわけですか」
「恨む?馬鹿を言え」

その流れから読み取る展開は、呆気なく否定される。そういえば最初にも肯定はされなかった。短絡的だった自分に内心舌打ちすると共に、ではどういうことかと素直に問う。仙蔵の愉しげな表情は変わらず、よき証人であるとともに厄介な人だと三郎はひっそり息を吐いた。

「文次郎はあれで純情でな」
「あまり潮江先輩に当て嵌めたくない単語ですね」
「そう言ってやるな。あいつもあいつなりにそのときのことを無かったものにしようと思っているのだ。必要以上に敵視をして、惚れていた事実を抹消しようとして……けれど、他の男に想われているのは面白くない」

その言葉に思い浮かぶのは暴君の名を持つ体育委員会委員長。恋情を隠そうともしない、そして受け入れられつつあるその人を、同じく想いを寄せる者が見れば複雑な思いを抱くことだろう。
「分かるか?」仙蔵はすっと視線を移す。それを追えば、遠くに小平太に追われるちづるとそれを見る文次郎の姿があった。憎々しげだと判断したその表情は、事実を知れば随分と見え方が違うものだと三郎は妙に感心した。
そう、つまるところ。

「文次郎の初恋は、まだ終わっていないんだ」




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