捕まえたい女の子

「おかえりなさい七松先輩と体育委員会諸君!」

地獄のいけどんマラソンを終えて門をくぐった瞬間、聞き慣れた少女の声が我々を出迎えた。以前、意識の途切れる寸前だった金吾や四郎兵衛から天の使いと称されたその声は、くのたま四年律子のものだ。
律子の姿を見つけた七松先輩の目がきらりと光る。楽しみを待つ子どものように、期待を笑みに乗せて。対する律子も作り物でない笑顔を満面に張り付けていた。

「今日もやる気だな!」
「はいっ!宜しくお願いします!」
「よーし、じゃあ今日の委員会は終了だ!お前たちは解散していいぞ!」
「は、はいぃ」

溌剌とした律子とは反対に疲労困憊している下級生たちを、ふたりから距離を取らせて万が一にも巻き込まれないように背に庇う。今ばかりは三之助が勝手に移動しようとしないことが助かった。

「いっきますよー」
「いつでもいいぞ!」

屈伸運動をして、律子は姿勢を取る。深く息を吐いて三拍、「よーい、どん!」強く地を蹴って走り出した。
同時に七松先輩も姿を消す。突風、見る間に遠くなった影ふたつ。逃げるは七松先輩、追うは律子と、珍しかった筈の光景はこのひとつきほどでよくあるものとなっている。

「滝夜叉丸先輩……」
「律子に心配など必要ない。金吾、四郎兵衛、お前たちは長屋に戻っていいぞ。あと、富松作兵衛を見かけたら三之助を引き取りに来るよう伝えてくれ」
「は、はい」

私には後始末があるので、自分で歩ける程度には体力の残っている下級生たちは先に帰らせる。律子のことをよく知らない下級生は彼女のことが心配なのだろうが、それは取り越し苦労というものだ。
誘うのは律子で、行われているのはただの鬼事。両者同意の上の、あくまで遊びの延長なのだから。





少し前、律子に訊いたことがある。

「律子は何故いつも七松先輩と鬼事をするんだ?」

委員会でもないのにくのたまである律子が七松先輩と鬼事など、しかも自分から志願するなんて、その理由が私に思い当たる筈もない。
私の心からの問い掛けに、律子は訝しげに目をぱちぱちと瞬かせる。それも短く、「真面目な顔してそんなこと?」すぐにへらりと笑って答えた。

「そりゃあ、最初は気まぐれよね。あんたらがあんまりボロボロだったから、ちょっと助けて恩を売ってみようと思って」

皆死にそうな顔してたし、実際一、二年生はやばそうだったしねぇ。そう律子はくすくすと笑う。
笑いごとではないが、確かに助かったのは事実だ。律子が七松先輩に声を掛けたその日は普段よりも山ひとつ遠くへ走り、その後に塹壕掘りも控えていたのだから。
だが、それだけが理由ならば未だに続けることはないだろう。我々が若干の余力があるときにも律子は姿を見せ、七松先輩を鬼事に誘う。これではまるで――
私の言いたいことが分かったのか、律子は頷いた。

「そう。最近は、何だかんだ楽しいから」
「楽しい……あれがか」
「マラソンと違って、私の限界が来たら終わりだからね。あんまり無理はしてないし。学園内限定だから道によっては私でも距離を詰められて、楽しいよ。前回はね、綾部の掘った穴がなかったらいいとこまで行けたんじゃないかな」
「そ、そうか……」
「まぁ、まだ先輩は本気じゃなさそうだけど。先は長いなぁ」

私からすれば信じられる話ではないが、律子に嘘を吐いている様子も吐く理由もない。彼女は心から鬼事を楽しんでいた。爛々とした瞳がそれを物語る。
しかも彼女は捕まえる気なのだ、暴君と謳われる体育委員会委員長を。正気の沙汰とは思えないがそれを語る律子はあくまでも本気だった。

「七松先輩って基本追う側じゃない?だから追われるのもたまには楽しいらしくてね、楽しそうに顔をきらっきらさせて振り返るのよ。そんな顔見たら、もっと追いたくなるじゃない」
「……その思考は分からん」
「そう?まぁ、人それぞれよね」

それにと続けた律子の言い分は私には理解できないものであったが、それを語る彼女の顔を見ていると強く否定する気にはなれなかった。
更に言うならば指摘してやる気にもなれなかった。うっすらと染まった頬は、まるで恋慕する女子のようだなどと。





どれほど経っただろうか。三之助も引き取られ私ひとりとなった門の傍に、見慣れた深緑が降ってきた。桃色を背負うその人は言わずもがな七松先輩である。

「滝夜叉丸。なんだ、残ってたのか」
「え、ええ」
「じゃあ、こいつを頼む。私は走り足らんから裏裏裏山まで行ってくる!」
「……分かりました」

先輩が背負っていた律子を降ろすと、私はそれを受け取る。鬼事の後の彼女の回収はいつの間にか私の役目となっていた。
いつも通り土に汚れて気を失っているらしい律子を見て、『無理はしていない』とはやはり嘘だろうと確信する。毎度この状態になるまで追い掛けて、それが楽しいなどと信じがたい事実だ。
そして、一方がこの状態だというのにまだ息も切らさず体力が有り余る七松先輩は化け物だとも再確認。委員会活動の度に思っているのは気のせいではない。

「……楽しかったですか?」
「ああ!このくのたまはなかなか面白いしな。体育委員会に欲しいくらいだ」
「それは……」

喜ぶ、だろうか。鬼事だけならまだしも、マラソンや塹壕掘りでも笑っていられるものか。何とも言えず笑って誤魔化せば、気にした様子のない七松先輩は「おお、そうだ」と目を輝かす。

「今度は委員会みんなで鬼事をしよう。お前たち全員を捕まえてもいいし、お前たちが鬼でもいいぞ」
「そっ、……そうですね」

冗談じゃないと言いたいところだが、上手くすればマラソンよりも楽かもしれない。そうなることを願いながら、どちらにしろ否定できるわけもなく同意すれば七松先輩は喜色満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、行ってくる!」走り出す七松先輩を見送り、残された私は律子の頬を幾度か叩く。ぱちりと即座に目を開けた律子は既に目覚めていたのだろう。

「体育委員会に欲しいだと」
「聞いてた。嬉しいなぁ」
「嬉しいのか?」
「ちょっとは認めてもらえてるってことでしょ」

体育委員会に入りたくはないけどね。そう言い放つ律子は、疲れてさえなければやはりいつもの調子で笑ったことだろう。
律子を背負い、くのたまの敷地を目指す。入り口まで運べば後はくのたまがどうにかするのも常のことだ。というか、一歩でも踏み込めばどうなることか。想像したくもない。

「ね、滝夜叉丸。次の活動はいつ?」
「三日後だ」
「そっか。じゃあ、またお邪魔するわね」

背中の後ろで聞こえた楽しげな言葉に、私は悟られぬよう息を吐く。このふたりの鬼事はいつまで続くのか。体育委員会の一員としては、下級生たちが倒れない程度に延々と続けばいいと思う。



ネタ提供ありがとうございました!


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