少女Αの幸福

「よう、飛鳥井」
「こ、こんにちは、食満先輩」

恋をしてから数日。私は非常に幸福な日々を送っていた。理由は今目の前にいる3年3組食満留三郎先輩にある。
食満先輩への恋心を自覚して以来、私は毎日のように言葉を交わせていた。先輩の教室は一つ上の階にあるのだけれど、昼休みや放課後に偶然出会えることが続いているのだ。姿が見えるだけでも幸運なのに声まで掛けてくれるものだから、そのうち大きな不幸に見舞われるのではないかというくらいに幸せだった。
今日だって、階段を降りてきた食満先輩とこうして出会えたし。目を細めて笑う先輩は今日も格好良かった。

「今から図書室か?」
「は、はいっ」
「図書委員は大変だな、昼も当番あるなんて」
「い、いえ、当番は殆ど全員で分担ですから、そんなに多くないんです」

食満先輩が歩き出すのに合わせ、その一歩後ろを歩いていく。先輩が何処に行くのかは分からないけれど、図書室への道から逸れるまでは一緒に歩かせてもらおう。
迷惑じゃないかなと食満先輩の様子を窺えば、振り返っていた先輩と目が合った。慌てて、でも逸らせなかったのは、視線が合った喜びと緊張で咄嗟に動けなかったから。
これは、どのタイミングで視線を外せばいいのだろうか。分からなくなって、ええいと一歩大きく踏み出した。隣に並べば視線を合わせなくても不自然じゃないだろう、そんなことを考えて。その行動自体が不自然だろうとは後で気付いたけれど、先輩も何も言わないし、反省は後でしよう。

「ええと、図書は、用具委員会みたいに、力仕事や細かい作業をすることもないですし」
「ああ、俺らも小平太達が壊さなかったら道具管理だけでもっと楽なんだけどなぁ」
「去年花壇が壊れたときも、用具委員会が修理してましたもんね」

小平太という名前には聞き覚えがある。中在家委員長の友人で、暴君と名高い三年生だった筈だ。日々様々な破壊活動を行っていると噂に聞いたが、私が知っているのは一年前のそれ一件だけ。中在家委員長が修補までの間、花を預かってきたから覚えていた。

「ああ、あのときは図書室に花を預かってもらってたんだったな」
「といっても、世話は殆ど中在家委員長がしていたんですけど……」
「預かるって言ったのは長次だからな、他の委員に押し付ける気はなかったんだろ」

なるほど、と私は頷く。中在家委員長は責任感のある人だから自分でやると決めたものを他人に任せることはしない。本来なら事務に預けるか用具委員会で預かる予定だったのを、中在家委員長が申し出たという話も聞いていた。
最初は驚いたけれど、中在家委員長は花が好きらしく、手入れも上手だった。花壇に戻す頃には以前より元気に咲いていた気もする。

「中在家委員長、花に詳しいですよね。あのときも色々教えてくれたんです。わざわざ図鑑まで用意してくれて」
「真面目な奴の質問には、自分の知らないことでも調べたりして出来る限り答えてやろうとする奴だからな。授業で分からないとことかもよく聞かれてるぜ」
「ああ……テスト前には図書委員の皆が質問してるのをよく見ますよ」
「……俺もよく世話になってる」

気まずそうにぽつりと呟いた食満先輩が少し可愛く見えて、思わずくすりと笑ってしまった。すぐに失礼だろうかと気が付いたけれど、ちらりと見た食満先輩の顔は眉尻を下げながらも笑っている。気にしていないようだと胸を撫で下ろし、もう一度、今度はその笑顔を見た喜びに任せて頬を緩ませた。

私の教室は中館の三階に、図書室は南館の二階にある。教室から渡り廊下を渡って、階段を降りて、廊下の突き当たりにある図書室へと歩き始めて、あれ、と疑問が浮かぶ。

「あの、そういえば、食満先輩はどちらに行かれるんですか?」

このまま階段を降りていれば食堂の近くに出るし、ジュースの自販機は食堂のすぐ外だ。それに対して、この先には図書室と、茶室や会計委員室など食満先輩には用がなさそうな部屋しかない。奥の階段を降りても美術室だし、先輩の芸術選択科目は知らないけれど、移動教室には早すぎると思う。
私の疑問に、食満先輩はぱちぱちと目を瞬かせてから、ふっと目を細めて優しく笑った。

「ああ、つい話に夢中になってしまったな」

どきん!
鼓動が大きく跳ねる。それは、それは私との会話がちょっとでも楽しいと思ってくれたと受け取っていいのだろうか。心臓が高鳴ってうるさい。静まれ、静まれっ。
動揺しか出そうになくて口を開けずにいると、食満先輩が更なる爆弾を落としてくれた。

「折角だし、飛鳥井を図書室まで送ってから自販機に行くかな」
「えっ!う、え、あ、えっと……ごめんなさい?」
「なんで謝るんだ?俺が話したいからしてるだけだし……あ、迷惑だったか?」
「そんな、う、嬉しい……です」

嬉しすぎて死んでしまいそうです。
おかげで図書室に着くまでの間、何を話していたかも覚えていなかった。
じゃあなと手を振る食満先輩に一礼して、図書室のドアを閉める。誰もいない静かな図書室に、私の溜め息が響いた。幸せすぎて心臓がパンクしそうで、少しくらい逃がさないと仕事も手につかなさそうだった。


 

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