少年Κの決意

修補を終えて長次に報告をした後、図書室を出る前にカウンターの奥へちらりと目を向ける。不破と話しながら作業に集中する彼女の横顔は、本を選んでいたときと同様に真剣なものだった。こっちを向かないかと少し期待したけれど、あの様子じゃ気付かないだろう。俺は早々に諦めてドアを開けた。

飛鳥井あや。今日はじめて話したばかりの後輩の名前を思い出す。ずっと知りたかった彼女の名。図書委員だとは知っていたけど長次に訊くのは憚られて、なかなか知ることができなかった。
彼女の存在は、随分と前から知っていた。はじめて見たのは去年の今頃、恋心を抱いたのはその数日後だった。

その日の俺は用具委員として中庭の花壇の修補をしていた。委員会の後輩を誘いバレーをしていた小平太が勢い余って壊したのである。バレーボールで煉瓦を砕くんじゃない、というか壊すのも初めてでないのだから中庭でやるな。そう並べた注意は聞き流され、何故俺がこんな奴の尻拭いをと怒りを覚えた、が、仕事は仕事だ。さっさと花壇を直して長次と交代しようと、此処に植えてあった花を鉢植えに移して預かっている同輩のことを思い浮かべ、作業に取り掛かった。

作業を終え、図書室に行く前に手を丹念に洗いジャージから制服に着替えると長次に報告に行く。汚れた格好で行くとうるさいのだ。
図書室に入ってすぐ見えたその背に、近付いて声を掛けようとして、その隣に誰かがいるのが見えた。見慣れないその女は後輩だろうか、ふたりは鉢植えの前で何かの本を覗き込んでいた。植物図鑑のようだ。
「長次、」邪魔をするのも悪いと思ったがすぐ済むことだしと名を呼べば、女の方も振り向いた。やっぱり見覚えはないその顔に抱いた感想は化粧っ気がないな、だった。別段美人なわけでもなく、どちらかと言えば可愛い部類かもしれないが、まぁ普通だな、といったくらいの顔だ。特に印象には残りそうになかった。

「花壇、直ったから。後は頼むな」

こくりと頷いたのを確認して、俺は図書室に背を向けた。長居はしていられない。そのときの俺は部活馬鹿で、委員会の仕事で遅れても少しでも部活に顔を出しておきたかったのだ。

その数日後の放課後、俺は体育館脇の倉庫に行くため中庭の傍を通りかかった。ついでに花壇の様子でも見ておくかと足を運べば、そこに誰かいるのが見える。見覚えがあるようなないような、それが誰か思い出せたのは俺にしては珍しいことだろう。先日、図書室で長次と植物図鑑を見ていた女だった。
思わず足を止めて彼女を観察する。手にじょうろを持っているところを見れば、水やりだろうとはすぐに分かった。俺が直した花壇の花に水をやっているらしい。何の問題もなく咲き誇る花は、心なしか小平太が花壇を壊す前より元気なように見えた。
だがそんなことはどうでもいい。俺は既に目が離せなくなっていた。水をやる彼女の、真剣な横顔から。
図鑑を見ているときは後ろ姿だった。正面を向いた顔は特に思うことはなかった。それなのにその横顔は、なんというか、綺麗だった。
これが一目惚れか、いやはじめてじゃないから二目惚れ?どくどくと速まる鼓動を感じながら、俺はただその横顔を見つめていた。
ぐ、と踏み出そうとした。それを留まれたのは彼女が背中を向けたからだ。そこでようやく少し冷静になれた。自分は何をしようとしていた?駆けて行って、好きだと言ってしまいそうだった。彼女の名前も、知らないのに。
名前。名前を知りたい。声を掛けようにも彼女はじょうろを片付けに何処かへ歩き出してしまった。それに自分も早く用を片付けねば。きっとすぐにまた会える。名前はそのとき聞こうと、俺は重大な選択を誤ったのだ。

あれから約一年。長かった。彼女に会えなかったわけじゃない。すれ違ったり、遠くから見ることは何度もあった。
だが問題なのは、彼女がいつも誰かといたということだ。長次ならまだしも彼女の友人や不破と一緒のときに突然声を掛けるのは難しい。それに彼女が長次といるかひとりのときに限って俺の傍には小平太や仙蔵達がいた。奴等に感付かれては面倒なことになる、とやはり声は掛けられなかった。伊作の不運が移ったに違いないと落ち込む日もあったくらいだ。
それが今日、ようやく彼女と会うことができた。あの横顔を間近で見ることができた。名前を聞くことができた。飛鳥井あや。当然、名前を知っただけで満足できるわけがない。次は親しくなって、連絡先をゲットして、最終目標は恋人関係だ。
それにしても恋と言うのは凄い。普通だと思っていた顔も誰より可愛く見えた。触れてみたいと伸ばした手を、よく頭を撫でるに留められたと思う。引き寄せたときはそのまま抱き締めてしまいそうだった。横顔に見とれすぎて作業が捗らなかったのは気付かれてないだろうか。それくらいに、飛鳥井あやを好きになっていた。
この恋心を成就させるためにはどうすればいいのか。とりあえず親友に相談でもしてみようと、俺は浮かれた足取りで友のいる保健室へ向かった。似合わない恋の歌なんぞ口ずさみながら。


 

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