エピローグはまだ先に 新月の夜が、やってくる。 そのときになれば帰れるのだと文献には載っていたけれど、それがどんなタイミングかは分からない。新月になった頃合いなのかもしれないし、日付が変わる瞬間なのかもしれない。どうやって帰るのかもそもそも分かっていないのだ。来たときのように穴に落ちるのかもしれないし、月からの迎えが来るのかもしれない。 何にせよ屋内にいるよりは屋外にいた方が帰れそうな気がするよな、との兄の言葉で、私と兄と元の忍装束に着替えた彼らは夕刻から庭に出ていた。 お別れ会もしなくちゃな、とのやはり兄の言葉で、バーベキュー用のコンロやテーブルに、料理も広げながら。 賑やかなこどもたちの声と兄の立てる騒音で、まったくしんみりとした空気にはならない。呆れもするけれど彼ららしいな、とも思う。最初から最後まで、この一月未満は退屈なんてなかった。 まぁちょっとばかり、思うところもないではないが。 「ムードも何もあったもんじゃないものねぇ」 「むーど?」 「雰囲気とか、そういう意味よ」 そう答えながら、私は最後の大皿を留三郎に手渡した。しんべヱくんが唯一おばちゃんが作ったものくらい好きだと言った、鶏の唐揚げである。お手軽浸けダレ様様だ。本当は揚げたてがいいんだろうけれど、まぁ、彼なら冷める前に食べきってしまうだろう。我が家のエンゲル係数を大いに狂わせた少年は、今は兄の作った焼きそばをとんでもない勢いで啜っていた。私の分はなさそうだ。 「はい、味見」 「いいのか?」 「どうせ向こうに置いたら食べないつもりでしょ」 菜箸でひとつを摘まんで差し出せば、留三郎は苦笑して口を開いた。そこに放り込むと思いのほか熱かったのか軽く目を見開いたあと、そのまま咀嚼する。 美味しいって、目の前で言ってほしい。そんな思いからの行動であったが、どうやらそんなことはお見通しだったようだ。彼はごくんと飲み下すと、私の好きな顔で笑った。 「うまい。今まで食べたなかで一番うまい」 「ほんと?」 「ああ。一生忘れられないくらいに」 さすがに言い過ぎだ。今度は私が苦笑する番だったけれど、悪い気はしなかった。本当に忘れなければいいのに、なんて願いは飲み込む。きっと過去に帰って数年もすれば、彼も嫁を貰う日がくるだろう。そのひとと過ごすうちに、私の料理のことなんて忘れてしまう。そうなるべきで、そうなるだろうとは、きっとお互いに分かっていた。 沓脱石に置いていたサンダルに足を通し、留三郎と並んで賑やかなテーブルへと向かう。たった十歩にも満たない距離なのに、何故だかひとつ進むごとに胸を締め付けた。 しんべヱくんと喜三太くん、それに作兵衛くんは、今はテーブルの傍で食べ続けている。しんべヱくんが美味しい美味しいと食べてくれるのは見ていて心地いい。 「しんべヱくん、喜三太くん。テーブルの場所を空けてもらえる?」 「はーい!あっ、唐揚げ!ぼく、泰葉さんの作った唐揚げ大好き!」 「僕もー!」 「喜んでくれるのは嬉しいけれど、ちゃんと分けて食べなさいね」 「はぁい!」 「作兵衛くんも、口にあうものはあった?」 「どれも美味しいです。ありがとうございます、泰葉さん」 既に空いたお皿があるのは驚くけれど、今日だけは止めないことにした。他のひとが食べる分が無くなる前には作兵衛くんが止めてくれるだろうし、明日からはまた先生方がダイエットを勧めてくれることだろう。丸投げであった。 「こうやって野菜とそばを追加したら、ここからが時間の勝負だ」 「はい!」 「我が家の秘伝のソースをかけて、焦げ付く前に一気に混ぜ合わせる。そーすっといい匂いがしてくるから、今度はそーっと……」 守一郎くんは兄から焼きそばの作り方を学んでいる。うちの兄は普通のことをまるで重要なポイントであるかのように説明するので、あまり真剣に聞く必要はない。けれど、彼らの時代と今では使ってる道具や調味料、料理時代も違うから、もしかしたら彼らにとっては革新的なことを教えているかもしれないので黙っておくことにしよう。笑い転げている守一郎くんにも、触れないでおく。 平太くんは、そこから少し離れたところでキョロキョロ辺りを見回していた。落とし物をしたにしては視線が高い。一体どうしたのだろうと声を掛ければ、平太くんはびくりと肩を跳ねさせたあと振り返った。 「ごめんね、驚かせるつもりはなかったんだけれど」 「ぼ、ぼくの方こそ……ごめんなさい……」 「何を見ていたの?」 「あの、えっと、何を見てたというわけじゃ、ないんです……ただ、しっかり、見ておきたくて……忘れないように、したくて……」 平太くんの声は段々と小さくなっていく。心優しい小さな少年は、此処で過ごした日のことを大切にしようとしてくれるのだろう。それを否定するつもりはない。そう思ってくれることは、ただただ喜ばしいのだ。 「ぼくは、帰りたいけど……泰葉さんと、泰征さんと、また会いたいんです……」 ただ、きっと叶わない彼の望みに、約束を交わすことはできない。しかしそれでは納得しづらいだろう。兄ならば言い聞かせることはできるだろうか。納得させるだけの説得力を持ち合わせていない私は、少し悩んで、以前交わした別の約束を引っ張り出した。 「じゃあ、次に会えたときは、きっと笑顔を見せてね」 「……がんばります」 明るい表情を見せられなくても、怯えたりしているわけじゃないとはもう分かっている。けれど果たされていない約束であることも確かだ。 困った表情を浮かべる平太くんが、いつかこの約束を忘れてくれたらいい。そのときには此処での思い出も、風化されているだろうから。 「平太、早くしないとしんべヱが全部食べちゃうよぉ」 「え、あ、ま、待って……」 「それは大変。腕によりをかけて作ったのに。いってらっしゃい、平太くん」 「……いってきます」 パタパタとテーブルの方へ駆けていく平太くんを見送ると、残った私は留三郎と顔を見合わせる。可愛らしい後輩の想いを、彼はどう思っているのだろう。 私と留三郎は、再会の約束はしなかった。最初から失うと分かっていた想いだから、未来から目を背け今だけを大切にし続けた。 想いを通わせたこの数日間は、思っている以上に幸せなのだろう。私はこの日々を風化させることができるだろうか。留三郎は、できるのだろうか。 しんべヱくんの胃袋にかかれば、結構な時間をかけて準備した筈の料理もあっという間に食べ終わる。後片付けは後にしようと、私も兄も庭に残って彼らとの団欒の時間を過ごした。すっかり日も暮れてしまってからは、花火もした。火薬がどうこうと目を輝かせる守一郎くんに苦笑して、しんべヱくんたちが喜ぶからと花火を振り回す兄に厳重に注意して、勢いのよい花火を恐がる平太くんと線香花火を楽しんで、それらも全て遊び尽くしてしまったところで、時計の針は十一時を指していた。 なんとなく、近くの部屋の明かりを消して、襖を閉める。僅かに零れる明かりはそのままでも、空の星は負けないくらいに輝きを見せつける。 月のない夜は、星が明るい。私がそう言えば、留三郎は忍ぶにはいい具合だと笑った。 留三郎にとって、夜空とはそういうものか。私はなるほどと納得する。彼は帰って忍者になるのだ。同じ感性なわけがない。 「日付が変わるまで、あと一時間だな」 「食満先輩、しんべヱたちがもう半分寝てる状態なんですけど」 「寝かせといてやろう。といっても、時間になったらどうなるか分からんから、布団に寝かせるわけにもいかないしな……」 「庭にレジャーシートを敷くわ。地面が固いのは変わらないけど、ないよりはましでしょう」 キャンプもどきのときに使ったものを倉の中に仕舞っていた筈だ。ちいさなこどもが三、四人くらいなら横になる大きさはある。柔らかさはまったくないけれど、気にせず横になれるのなら多少はましな筈だ。 私が立ち上がると、そうするのが自然だというように留三郎も後に続く。勿論嫌なわけがないので、兄の「倉は暗いから気を付けろよ」という不用意な言葉と守一郎くんの笑い声に送られてふたりで歩を進めることにした。 外に明かりなんて殆どないこの家は、庭も真っ暗だ。携帯電話のライトを頼りに歩いてもいいけれど、私の手を取る留三郎は夜目が効くらしい。私は不安なくその誘導に身を任せる。 よくもまあ、こんなにも信頼できるようになったものだ。たった一月程度の付き合いでしかないというのに。それだけ濃い期間だった、ということだろう。 「どうした?」 「なんでもない。今日までのことを思い出してただけよ」 「俺の空回りを?」 「私の番犬を、私以外が貶めないでほしいわ」 私が笑ったのに気付いたのだろう、留三郎の声かけに首を振る。続く軽い言葉の掛け合いも楽しかった。 噛み締めるように、言葉を交わしあう。喧騒とは縁遠いこの家は、守一郎くんの笑い声も治まった今では遠くの鳥の声がうっすらと聞こえる程度に静かだ。お互いの声にだけ、集中していられた。 それでも倉にはすぐに着いてしまい、会話は途切れた。もう少し話していたかった、なんて言葉は飲み込む。留三郎を困らせるつもりはなかったし、後味の悪い別れにさせるつもりはなかった。 留三郎が倉の戸を開けて、私が中を覗き込む。さっきまで外が真っ暗だと思っていたのに、倉の中はより一層暗くなっていた。代わりに入ろうとする留三郎を押し留めて、私がレジャーシートを探す。入ってすぐのところに無造作に置いたのを覚えていたから、すぐに見つかった。 あとは戻るだけだ。より暗いところにいたからかさっきよりも目は見えていたけれど、差し出された手を断る筈がない。礼を言って、歩きだしたところで、すぐに違和感があった。 来た方向と、明らかに違う。勿論この方向からもぐるりと回れば皆のいる場所に戻れるけれど、数分も変わらないとはいえ遠回りだ。 もしかして、留三郎も惜しんでいるのだろうか。私と少しでも一緒にいたいと、思ってくれているんだろうか。私の手を握る力が少し強いのも、そういう意味だと考えていいのだろうか。 彼も私のことを、私の想いと同じくらいに想ってくれているのだと、考えてもいいのだろうか。 「留三郎」 「どうした?」 「私、貴方に言いたくて、でも言うべきじゃないと思っていたことがあるのだけれど……言っても貴方は困らないかしら」 私の言葉に、留三郎が歩を止める。私の顔を見る彼が少し驚いた顔をしているのが分かった。それから彼は笑う。いつものように快活としたものじゃない、複雑そうな顔で。 「俺も、話したいことがある。迷惑になることだからと言う気はなかったが……泰葉の話のあとに、聞いてもらえるか?」 「貴方の話が先でもいいけれど」 「いや、泰葉が先でいい。番犬だって『待て』くらいできる」 「分かった。でも、私の話が終わったら必ず聞かせてね。やっぱり無し、なんて許さないから」 「ああ。ちゃんと言わせてくれ」 話をすると決めたのなら、先に用を済ませておいた方がいい。急ぎ足で皆の元に戻り、兄と守一郎くんに瞼が重そうなこどもたちの誘導を任せてその場を離れる。 彼らを寝かせるまではきちんとしようと思っていたのに、背中を押したのは守一郎くんだった。俺だって上級生なんですから、と責任を負おうとする彼に、留三郎は困ったような嬉しいような、そんな顔で頷いた。 再度辿り着いたのは倉だった。中には入らず、入り口に隣り合って腰を落ち着ける。皆の前では離れていた筈の手はまたどちらともなく繋がれていて、それを一度ぎゅうと握りしめてから、私は口を開いた。 「私、貴方にお願いしたいことがあるの。貴方が帰ってから、そこでの未来のことよ。貴方には私を忘れてもらいたい。ここでの日々のことを不思議な体験をしたと過去にして、風化させて、いずれ忘れてしまってほしい。貴方が望むのなら可愛らしいお嫁さんを貰って、子を成して、元気に歳を重ねてほしい。私のことなんて思い出さず、幸せを築いてほしい」 「……それは、本心か?」 「本心だったわ。つい十数分前までは」 本当に、そう言おうと思っていた。もう先のない関係なのだから、知らない場所での幸せを願うつもりだった。 けれどどうやら、私の心は私が思ってた以上に狭かった。留三郎に幸せにしてもらうのが私じゃないのが嫌だったし、留三郎を幸せにするのが私じゃないなんて考えたくなかった。 「今から本当の願いごとを言うから。本心じゃなくていいから、分かったと頷いてね。……帰った先で、他の子を好きになるのは構わない。結婚して、子どもだって作ればいい。でもお嫁さんより子どもより、一番好きなのは私でいて。誰より愛しいのは私だと想っていて。私が隣にいないことを、時折悲しんで。私のことを、その生涯、忘れないでいて」 酷く、身勝手な話だ。分かっている。だから嘘でいい。私より大切なひとは何人も増えて、いつか私のことを忘れる日が来るだろうけれど、きっと私は約束を信じて生きていける。 「分かった」 だって、その一言だけで、こんなにも救われる。 胸に広がる感情が涙腺を刺激するけれど、今泣くわけにはいかない。まだ留三郎の話が残っている。私は小さくなってしまった声でお礼を言うと、留三郎の番だと促した。 留三郎の手が、私の手を強く握る。 「俺も願いごとを言っていいか。少し長くなるけど、最後に一度、嘘でいいから頷いてほしい」 勿論よ、と私は頷く。彼が望むのなら、どんな無理難題だって、本当に叶えてあげたかった。 「俺がいなくなったら、泣いてほしい。あいつらが帰れたことを喜んで、俺が帰ってしまったことを悲しんで、ちゃんと泣いてほしい。それで泣き止んだら、次に、笑ってほしい。泰葉は可愛いから、笑うと他の男が放っておかないと思う。泰葉が選んで、泰征が気に入る奴なら、恋仲になっても夫婦になってもいい。そいつを一番に想っていい。ただ、俺と、あいつらのことを忘れないでいてほしい。厄介者たちと過ごした一夏の間を、不思議なこともあったなと思い出して懐かしんでほしいんだ」 その言葉のひとつひとつに、私は頷く。今は他の恋人なんて考えられないけれど、ただ確実に留三郎と彼らのことを忘れられはしないだろう。違う時代からの居候なんて、滅多にある筈がないのだから。 「それと、最後に」 留三郎は、言葉を止める。言いにくそうにするけれど、そのまま口をつぐませるわけにはいかない。なぁに、と促せば、留三郎は眉を下げて笑った。 「何年経っても、また逢えたら。そのときは俺を選んでほしい」 「勿論よ」 そんなことは起こらないだろうと分かっていても、私は頷いた。それは私の望みでもあったし、留三郎に笑ってほしかったからでもあった。ただ、留三郎は泣きそうな顔をしたから、目論見は外れてしまったけれど。 「どうしてそんな顔をするのよ」 「分かってくれ、嬉し泣きだ」 「それならもっと、情けない顔をしてちょうだい。嬉し泣きまでイケメンなんて許されることじゃないわ」 「そのイケメンの意味をいいかげん教えてくれ。褒め言葉として受け取っていいのか?」 そういえば今まで適当にはぐらかしてばかりで教えていなかった。正直に言おうとして、少し考えてから私は別のことを口にした。私好みの顔って意味よ、と。 そうすれば留三郎は繋いでいない方の手で顔を覆うけれど、この距離なら頬に走る朱に気付くことは容易かった。笑顔が見たかったけれど、レアな表情も最後に目に焼き付けるには悪くない。 「お前はまた、そういうことを……」 「心外だわ。私はいつだって正直よ」 「いいさ、次に会うまでには調べておく」 わざとらしく頬を膨らませる私に、留三郎は苦笑を零す。もう少し快活とした笑顔なら言うことなしだったけれど、笑っていることには違いないから、及第点にしておこう。 それからはお互いに黙ったまま、お互いの手のぬくもりだけを感じていた。すっかり同じ温度になってしまっていて、どちらのものか分からないけれどじんわりと汗ばんでいて、でも不快に思うこともないままずっと。 唐突にその感覚がなくなって、隣にいた筈の留三郎は影も形もなくなってしまっていて、ああ帰ったのかと気がついて、帰っちゃったんだと理解して。 ぼたぼたと涙を落としながら、私はこどものようにしゃくり上げた。 ← ×
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