事実について

伊作が向かったのは、群れの長のもとだった。周りには狩のリーダー格が揃い、伊作に厳しい視線を向けている。その中には先日忠告をしていた狼もいた。若い方とはいえ、彼も手練れなのだ。自分とは比べ物にならないくらいには。伊作はそれを再度認識しながらも、まっすぐに長へと向かう。その長はごろりと岩に転がしていた身を起こし、「やあ」その隻眼で伊作をじぃと見た。

「聞きたいことがあるんだろう?お前たちは少し外してくれ」
「しかし……!」
「大丈夫大丈夫、彼に負ける程衰えてないよ」

声を上げたのは若い彼くらいで、長の言葉に不服そうな顔をしながらも他の狼同様に姿を消した。その場にいるのは伊作と長のみ。伊作はごくりと唾を飲み込む。意識してそれをしなければ、喉が乾いて声も出そうになかった。
一方、そんな伊作の緊張などお見通しなのだろう、長はにんまりと隻眼を歪ませる。

「何て言ったかな、赤い頭巾の女の子。彼女の祖母のことだね」
「……ええ」
「彼女が何者かに喰われて、女の子は悲しんでいる。その何者かを知りたくて、此所に来た。あっているかな?」
「その通りです」

知ってどうする、とは長は言わなかった。長は笑みを浮かべたまま、簡潔に答えた。

「彼女を食べたのは私だよ」

ぐ、と伊作の身体に力が入る。驚いた顔はしない。きっとそうだろうと思っていた。何せ、直子の祖母の家付近は立ち入ることを禁止していたのは、この長なのだから。それでも「何故……」聞かずにはいられなかった。相手は人間であり獲物であるのだから、答えは決まっているというのに。
「そりゃあ、人間は獲物だもの」長はやはりそう答え、しかし「あ、半分くらい嘘かな」すぐにそれを否定した。

「私は彼女と交流があってね。そう、私が長やリーダーになるよりも以前から」
「……え」
「それから年月が過ぎ、彼女も結構な歳になってしまった。もうすぐ死んでしまうから、私が終わらせてあげたんだ。それが彼女の望んだことでもあった」

その言葉は、どれだけの真実を含んでいただろうか。伊作は考え、すぐにそれが事実なのだと受け止めることにした。今日は事実を突き止めに来たわけではない、思考するための例のひとつとすればいい。その言葉の方が、より絶望に近いと伊作は感じていた。
人間と共存するためには何が必要か。何が不要か。思考するプロセスの為の種は、多い方がよかった。

「それで君は、いつまであのふたりと一緒にいるの?」
「……僕は、彼らとともにいたいんです」
「ふぅん。群れを抜けたいわけか」
「……は、い」

群れを抜ける。その言葉には、心拍数を平常に保つことはできなかった。仲間を裏切るという行為にはそれなりの代償がある。追放だけならばまだいい。骨のひとつでも折られればこれからの狩りに支障がでる……ただでさえ不運の如き体質は狩りには向いていないのだが。何より生命の有無も危ぶまれる。それでも、撤回するわけにはいかなかった。
長が再度口を開くまで、どれだけの時間が経っただろうか。実質は数秒と掛かっていないにも関わらず、伊作には絶望的な時間にも感じた。
そして。

「いいよ。いってらっしゃい」

長はあっさりと答える。

「……は?」
「気が済むまで彼らと一緒にいればいいよ。それで……殺しちゃったら、戻ってくるといい」
「っ……!」
「じゃあまたね、伊作くん」

馬鹿にされていると思った。子どもの我が儘に付き合うような、そんな調子だった。拳を握る。爪が食い込み血が滲む。しかし、声を上げるわけにはいかなかった。無傷で此処を立ち去れるならば、プライドなど捨ておけばいい。そして、二度と戻ってくるものか。
伊作は長に背を向ける。そして可能な限りの速度で走り出した。早く、あのふたりに会いに行こう。





伊作が去るのを見届けると、長は一吠えして皆を呼び戻した。

「これからも例の家には近付かず、赤い頭巾の子は襲わないように。あれは伊作くんの獲物だから。猟師の方は別にどっちでもいいけど、これから強くなるだろうから若い連中は近寄らない方がいいかもねぇ」

のんびりと告げる彼の脳裏にあるのはひとりの女性の姿。はじめて会ったときから幾分年老いた彼女はもういない。けれど彼女と交わした孫娘を守るという約束は守るつもりだった。まあ、若き狼には伝えていなかったし、伝えなかったけれど。
さて、彼はいつ帰ってくるかなぁ。長は笑う。まったく何を考えているのかと、他の狼は溜め息を吐いていた。




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