狼について

留三郎がその家に足を踏み入れたのは、それが初めてだった。こんな形で入ることになるなんてと歯を食い縛る。噎せ返るような臭いに眉を寄せ、足元に気を付けながらゆっくりと様子を窺う。希望はまだある、だが悪い予感しかない。
一緒に来ていた大人に直子の傍についていてやれと言われたのは、直子だけでなく自身にも気を遣ってくれたのだろう。留三郎はそれを感じ取り素直に頷いた。猟師として、他の村人よりは慣れていると思っていた。だがまだ直接それに触れるには、覚悟が足りていなかった。

「留くん」

家を出ればすぐそこに直子がしゃがみこんでいる。力のない声が、直子の口の隙間から零れ落ちた。留三郎に知らせたのは直子だから、彼女は家の中を目の当たりにしたのだろう。留三郎はその隣に腰を下ろすと、色の悪い顔を自分の方へ引き寄せる。その顔を隠してやるようにすれば、直子の手が留三郎の服を掴み、そして認めたくない『そのこと』を震える声で吐き出した。

「おばあちゃん、死んじゃった」
「……直子」
「狼が、食べちゃった」

狼って、恐いのね。そう零した直子にとって、狼は恐るべき存在ではなかった。彼女の祖母は狼を好きだと言っていたそうだし、唯一接触した伊作は恐怖の対象にはならなかった。だから、はじめて理解した。狼は恐い存在だと、しかしあの伊作も狼なのだと、混乱していた。
どうしてやればいいのだろう。留三郎はただ悔やむ。最初から、狼は恐いものだと教えておけばよかったのだろうか。直子が理解するまで教え込んで、伊作相手にも気を許さないよう言い含めればよかったのか。だがそれも今更のことで、彼と友人のように接していたことは変わらない。これからどうしてやればいいのか、留三郎には分からなかった。

「……留くん、お願いがあるの」
「なんだ?」
「伊作くんに……」

直子が何を言おうと、それを叶えてやればいいのだろうか。伊作に向かって引き金を引くように言われれば、そうするべきなのだろうか。留三郎には分からないまま、直子の言葉を待つだけだった。




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