願いについて

いつも直子が歩いていた道の途中で、伊作はじっと待っている。彼女の祖母が亡くなった今、彼女が森へ来るかは分からなかったけれど、伊作が村へ近付くわけにもいかない。他の人間が来ればすぐ隠れられるように、直子や留三郎が気付かないことのないように、そんな位置で伊作は待つしか出来なかった。
一晩待って、二晩待って。ぎゅるぎゅると空腹を訴える腹の音を無視して、伊作は落ちようとする瞼を必死で上げ続ける。お腹は空いたけれど、とても眠いけれど、此処を離れている間に二人が来ては困るから。だからもう少しだけ我慢しようと、そのときだった。

「あ」

道の向こうに、懐かしい姿がふたつあった。せいぜい両手で数えられる程度しか経っていないのに懐かしいと感じることに、伊作は笑ってしまう。けれど思いのほか力の入らないそれは二人に心配を与えたらしく、直子が走り出し留三郎がそれを追ってきた。

「伊作、くん。大丈夫?」
「ひでぇ顔してるぞ。何かあったのか?」

それぞれの気遣うような言葉に、胸がぎゅうとなって目頭が熱くなる。そのどちらをも押さえ込んで、伊作は笑ってみせた。やっぱり力はなかったけれど、少しでも心配を拭えるのならと考えて。効果は、薄かったようだけれど。

「……直子ちゃん。留三郎も。話が、あるんだ。聞いてほしい」
「うん。聞くよ」

即答する直子に続いて留三郎も頷く。「でもとりあえず、お水飲んでこれ食べてからね」そう差し出された水筒と干し肉を、伊作はおずおずと手を伸ばして受け取った。
ああ、やっぱり彼女たちは、優しい。





「僕は、狼だけれど」

そう始めた伊作の声は震えていた。目と同様に耳も伏せられ、怯えているのだなと留三郎は思う。この話の後に自分たちがどんな反応をするのか不安なのだろう。それに勘づいた留三郎は肩に担いだままの猟銃に一瞬意識を向けた。どんな話をするのかは分からないがこの銃口を向けなくてはいけないような話だろうか。以前していたように構えることもしない事態に、留三郎はいつかの不安を思い出した。

「君たちが……好きなんだ」

けれど、思い出しても銃口を向けることはできなかった。きっと自分も絆されてしまったのだ。この不運な狼を、かけがえのない友のように思ったのだ。そしてそれは今も続いている。

「食べたいと思っていたこともあったけど、それ以上に一緒にいたいと思うようになってて」

伊作が直子の祖母に牙を剥いた狼ではないということに安心した。それは直子も同じで、その質問の答えを届けたときは弱々しいながらも笑っていた。関与していないかなどとは聞いていなかったというのに、ただ絶対に憎まなくてはならない存在じゃないことに安心した。

「だから、もし君たちが許してくれるなら」

他の誰かに咎められようと、その思いは変えられないだろう。それはきっと直子も同じだ。だから彼を探しに此処へ来た。

「また、君たちと一緒にいさせてほしい」

伊作はすべてを吐き出すようにそう告げる。その表情は恐怖を帯びた悲痛なもので、向けられた視線は真っ直ぐながらも揺れていた。
伊作の願いにまず動いたのは直子だった。座り込んだままの彼に一歩一歩と距離を詰め、万が一のことがあれば手遅れになるほどになるまで近付いて、彼の顔がよく見える位置でしゃがみこむ。
留三郎もそれに続く。一体どうしたのかと慌てるように視線を行き来させる伊作に、ついつい苦笑が漏れた。

「許すも何も、伊作くんは何もしてないよ」
「え……?」

留三郎からは見えないが、きっと直子はいい笑顔を浮かべていることだろう。代わりにきょとんと不思議そうにする伊作の顔はよく見える。不安はまだ色濃く残っていたが、怯えているよりはずっといい。

「してないんでしょう?留くんに聞いたもの。ね?」
「ああ。確かに伊作じゃないと本人から聞いた」
「ね。だから、許すも何もないんだよ」

直子は伊作の手に触れる。びくりと一瞬大きく跳ねたそれは、けれどされるがままだ。留三郎もまた直子に倣うことにした。反対側の腕もまた跳ねるが、やっぱり振り払われることはなかった。

「私も、伊作くんと一緒にいたいな」

そうして告げた直子の言葉に、涙が一筋。




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