しらないみらい

三郎の持ってきた雑誌に掲載されていた甘いものがとても美味しそうで、帰りに喫茶店にでも寄ろうかしらなんて考える。そんな私の思考なんてお見通しだった三郎が笑って、クレープでも食べに行かないか、と誘いをかけられて。……そう、クレープを食べる予定だったのだ。

「さ、三郎……」

駅前にあるクレープ屋さんには、何度か行ったことがある。そこへ行くためにそこそこの広さのある公園の中を通れば近道になることも知っている。だけれど、今そのルートを辿るわけにはいかない。
公園の入り口に近い、ところどころ色の剥げたベンチ。そこに、あのひとの姿があった。
引き留めようと袖を引く私に、けれど三郎は歩みを止めない。三郎が気付かない筈がないのに振り返りすらもしないなんて、想定外なことに頭が混乱する。私だけでも近付かないでおこうと手を離せば、それを許さないかのように三郎の手が私の手首を掴んだ。抵抗してもそれが認められることはなく、私の足は公園に踏み込んで、あっという間にベンチの前まで辿り着いてしまう。
こうなってしまったならば早く通りすぎてしまいたかったのに、三郎の足はそこで止まる。あのひとまで、先輩まで、三歩にも満たない距離。どうしてと声を荒らげたかった。これ以上迷惑を掛けたくないのに。
せめて三郎の背に隠れて息を潜めようとする私を、そんなことは察していたとばかりに前へと突き出す。二歩に縮んだ距離。先輩の様子を窺えば、その顔がこちらを向いていた。

「遅くなりました。約束のものです、食満先輩」
「悪いな」

私の後ろで三郎の声がして、それに答えたのは目の前のひと。
先輩の視線は私の後ろの三郎に向いて、それから私へと移された。反射的に私は視線を落とす。それだけで私の身が隠せるなんて、当然あり得なかった。

「憐。悪いがクレープは後日改めて、だ」

その声に振り返ろうとするのを、三郎は許さないとばかりに私の頭を押さえてしまう。そのままぐしゃりと、乱雑なのに優しい手で撫でられて、私はそれが離れても振り返ることはできなくなった。
騙すようにして私を連れてきた三郎の考えは分からないのに、その信頼を裏切りたくはない。三郎の言葉を反芻すると、どうやらこのひとは私に用があるのだろう。こんな私に何の用があるのか分からないけれど、今まで掛けた迷惑を考えればもう逃げ出すわけにもいかなかった。

「とりあえず、座らないか」
「……はい」

ベンチの隣を示しながら言われて、私は頷く。なるべく端に寄って距離を取った。学校から駅へと向かう生徒の姿がちらほらと見える。少しでも勘違いされて、彼をこれ以上困らせるのは嫌だった。今更だとは、思うけれど。

「話したいことがあったんだ。それでまぁ、人伝いに鉢屋に頼んで連れてきてもらった。まさか鉢屋が言わずに連れてくるとは思わなくて、驚かせただろう。すまなかった」
「いえ……いいえ、大丈夫です」
「そうか。順番が悪かったが、手短に済ませるから少しだけ時間を分けてほしい」

三郎がこんなかたちで連れてこなかったら、きっと私は何かしらの理由をつけて逃げ出していた。だから黙っていた三郎はきっと正しい。そして続けられた言葉に頷けば、先輩が笑った気配がした。見ることはできなかった。

「四年と半年、だったか。相原が想いを告げてくれたのは」
「……そうですね」
「俺の卒業だとか、何かのきっかけというわけでもないあの日だったことに、意味はあるのか?」
「いいえ」
「じゃあ、その期間に意味があったんだな」

確信するかのような声に聞こえて、私は何も言えなかった。そこに意味を見出だす必要があるのだろうか。どのような意味があったとしても、掛けた迷惑の量が変わるわけじゃない筈だった。

「最初は、不思議だった。見かけたことがあるかもしれない、ってくらいの、話したこともない女の子だ。なんで俺なんだろう、そう思ってた。それから、言っちゃ悪いが、少し気味が悪いなとも。返事なんていらないかのように去っていくのに、また次の日にも現れるから、何を考えているのか分からなかった。……すまん、女の子にいう言葉じゃなかったな」
「いいえ。気を使ってくれなくて大丈夫です」
「……すまん。だがそれも別にいいかと思うようになったのは、半年くらい過ぎてからだった。好かれているなら別にいいんじゃないかなんて思った。その頃にはほだされていたというか、まぁ、そういうことだったんだろうな。だから、呼び止めようとして……だけど、自分を通して他の奴を見てるんだと気付いたら、何も言えなかった」

どきり、とする。気付かれていた。まさか前世だなんて信じないだろうけれど、私がこのひとを通して前世の食満先輩を想っていたのは事実だ。身代わりにし続けてきたのは、事実だ。
それでも不思議に思う。どうして気付いたのだろう。このひとが私を見ることなんて、なかった筈なのに。

「俺は誰かの代わりなのかと思うと妙に虚しくなった。今思うと嫉妬なんだろうな。意地になって何も言えないままずるずると……そのまま期限を迎えたらしい」

だけれど。考える。
告白の最中に一目もくれないようにしていても、その後のことは分からない。私だって意識していたことだ。前世のあのひとが想いを告げてくれている間は必死で目を逸らして、去っていくその背も見てしまえば手を伸ばしてしまうだろうと自分を戒めていた。振り返らないだろうと分かっていたのにそうしていたのは私だ。私じゃないひとが去るひとの背中を見ていたとして、まさかとは思えなかった。

「呆気ないくらいの幕切れは、仕方ないことだと思った。最初は清々したと自分に言い聞かせて、平気だと忘れようとした。それでも日が経つにつれ、お前の声が聞こえないことが心苦しかった。俺の名を呼んであの言葉を言ってくれないことが虚しくなった」

だけれど、それは。
告白された側にも何らかの想いが、あるということで。
まさかそんな筈はと思わず振り向いてしまった私の目と耳とに飛び込んできたのは。

「手遅れじゃないのなら、またあの言葉を言ってくれないか。まだ忘れられないと言うのなら俺を通して誰かを想ってくれていてもいい。でも、できれば、きっといつかは」

私を真っ直ぐに見つめる目と、僅かに紅の差した頬。

「もう一度、今度は俺に、恋をしてほしい」

それから耳を疑うような、熱の籠った言葉だった。




目次

×
- ナノ -