あのひのきおく

梅の花が咲く頃だった。
かつて、まだ想いを叫ぶ者が逆だった遠い過去。学園にその声が響かなくなったのは、学園の梅の木が咲き始めたばかりのことだった。

「……行かなくていいのか?」
「何処に行くというの」

隣に座り梅の花を眺めている憐に声をかけるも、憐は視線を動かさずにそう返す。いや、おそらくその目には何も映ってはいなかった。映す余裕なんてなかった。少しでも視界を意識すれば、きっとあのひとの姿を探してしまっただろうから。

遠くで一年生だろう泣く声がする。
遠くで四年生だろう祝砲の音がする。
他の生徒たちも、様々な想いを抱いていることだろう。

今日は六年生である彼等の、卒業式であった。

いつかこの日が来ると分かっていたのに見ない振りをしていた我々は、当日になってようやく胸に抱えた重いものをどうしたものかと悩んでいる。捨てられるわけもない、降ろすこともできそうにないこの思いは、それでも憐のものと比べると随分軽いことだろう。
私のこれの名は、後悔だった。

「……お前には、すまないことをしたと思ってるんだ」
「突然何のこと?これっぽっちも心当たりがないわ」
「幸せになってくれないか」
「何を言ってるのよ、貴方は」

懺悔のように口を開いた私に、憐は呆れたような声を返す。しかしそう装っていることくらい明白だ。幼い頃から共に過ごしてきた私に通じるわけがないのに素知らぬ振りをやめないのは、自分が認めない為でもあるのだろう。
憐の抱えるそれの名は、きっと彼の人への恋心だった。それを隠すなと、私が言うのは酷なことだ。かつてそれをさせたのは私だったのだから。
一年生の頃。まだ上手く他人に馴染むことができず、雷蔵にも心を開いていなかった私の拠り所は幼い頃からの仲である憐だけだった。憐さえ居れば寂しさはないと、憐の都合も考えずまとわりついていた。そんな日々にある日突然現れたのが、あの先輩だ。憐に恋をして、想いを堂々と叫んだその姿は、幼い私にとって憐を奪いに来た悪人だった。その告白に憐が段々と先輩に惹かれていくのを目の当たりにしていた私は、最も愚かな選択をしたのである。
私のことを置いていくのかと。
憐は私の許嫁だろう、と。
憐の想いも考えず、そう責め立てたのだ。
許嫁というのは本当だった。しかし必ず違えてはならないほどに重要なものではなく、互いの親でさえ何度も説得を試みれば解消も認めるだろう程度の約束でしかなかった。本来ならば幼馴染として送り出すべきだったというのに私はその約束を振りかざし、あろうことか憐はそれを承諾したのである。自分の幸せを切り捨ててまで私の安寧を選ばせてしまったと、気付き後悔したのは三年生になる頃だった。毎日毎日憐に愛の言葉を叫ぶ先輩と、その言葉を切り捨てながらもその背中に視線を送るようになった憐に、その頃になってようやくふたり分の幸せを奪ったことに気がついたのである。
その瞬間に憐に謝罪しそれ以降は背中を押し続けてきたが、憐はけして一歩も動こうとはしなかった。私を責めているわけではない。自分の決めた道だと譲らなかったのは、憐自身が恐怖を持ってしまったからでもあった。
彼の人からの言葉を失ったら、きっと自分は駄目になるだろう。みっともなくすがりつくくらいならば、愛想を尽かして去っていかれた方がいい。そう考えていただろうというのに皮肉なものだ。結局のところ、最後の最後まで彼の人が心変わりすることはなかったのだから。

ざり、と砂を踏みつける音がする。勿論わざとだろう。私は雷蔵を模した顔をそちらへと向け、憐は頑として視線ひとつ動かさない。しかし誰が来たかなど明白だ。
忍装束の制服を身に付けていない、門出の準備を整えたそのひとは、本当に最後まで変わらなかった。

「相原。此処にいたのか。相変わらずお前たちは仲がいいな」
「……憐と私は、幼馴染ですので」
「ああ、すまん、鉢屋。多少羨ましいと思っているが嫌味のつもりはないぞ」
「分かっていますとも。それより今日も?」
「ああ。相原に話したいことがあるんだが、いいか?」
「勿論。私のことは置物か何かとお思いください」
「大事な後輩と思っているが、お言葉に甘えよう」

本当ならばこの場を離れるべきなのだろう、しかし憐は私の制服を掴んでいた。その手を振り払うことが正解だったのかもしれない。ただ結局は弱々しい手が望むままに、私はそこへ居続けた。

「四年と、半年くらいか。俺がこうして毎日のように来るようになって、いろいろ迷惑をかけただろう。すまなかった」

憐は答えない。相変わらず梅の花から動かない視線に、構わず食満先輩は続ける。その視界に入ってしまう私が邪魔だろうに、真っ直ぐに憐を見つめながら。

「こうして想いをぶつけることを拒絶せずにいてくれて、感謝している。もう二度と会えることはないのだろうが、この先もきっと想いは変わらないことを許してくれ」

この学園を卒業した後、何処に就職するのか、何をしているのかは殆どの場合誰も知らない。学園長や教員ならば知っていることもあるが、生徒たちが知る由はない。更に卒業生が学園に訪れることも少ない。特に私事で来られる筈もなく、つまり。きっと今日が、ふたりの最後の日となる。
それなのにこの先も変わらないなどと宣言した先輩は、相も変わらぬ笑顔だった。憐にだけ向けられる眼差しとその表情に、きっとこのひとの言うことは本当なのだろうなと何故か納得してしまう。彼が幸福な道を歩むためには、そうであってはならないだろうに。
頭を撫でようとしたのか伸ばすように上げられた手は、中途半端な位置で止まり、下げられる。ぐっと握られた手に目が行って、この先輩の最後の表情は、私の視界には入らなかった。

「元気でな、相原。この食満留三郎は、相原憐のことを生涯いっとう愛している」





ーーそれが、私の過去の記憶にある最後の食満留三郎先輩だった。結局我々が卒業しても、憐が彼の人と再び巡り会うことはなく、生きて死に、そして今回の生に至る。
ふたりに幸せになってもらいたいという思いは、今も私の中に残っている。たとえどちらかに記憶がなかろうと、他に想い人がいようと、どちらかが望むなら私も協力してそれを叶えるつもりだった。憐がそれを口にしてくれたことは終ぞなかったが、私の後悔が薄れることもなかった。
私の胸に巣食うそれはいつの間にか後悔だけでなく、使命感と偽った自己満足にもなっているのだろう。彼女が幸せになるのなら、その背を押すどころか突き飛ばすのも考える。憐が許さなくとも構わない。私が願うのは、ふたりの幸せなのだから。




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