明日の約束

──みょうじなまえの場合


通学に使っている路線に何か問題が起こったらしくて、朝から電車が遅れていた。だからかいつもは余裕のある座席もぎゅうぎゅうで、私は立ちながら電車に揺られている。込み合った電車では本を読むのも困難で私はぼんやりと人の隙間から窓の外を眺めていた。見慣れた筈の景色は久し振りに眺めるからか新鮮にも見える。速度が上がって、ゆっくりになって、そんなことを繰り返していたらあっという間にあの駅に到着した。
いつもあのひとが利用する駅。いつもなら乗ってくる姿を見れるのだけれど、今日ばかりは先の電車に乗ってしまったかもしれない。そんなことを考えて、思い出すのは昨日のこと。
目を閉じた横顔、大きな手、それからはじめて目があったあの瞬間。
頭の中で何度も繰り返されて、夜だってちっとも眠れなかった。目の下に隈が出来ているんじゃないかとも思う。ううん困った、そんなことを考えていれば、目に入ったその姿。

「……あ」

彼だ。ドアが開き、乗り込んできていたあのひとの姿が、何人かを挟んですぐそこにあった。
私が彼を見つけたときには彼の視線も此方を向いていて、私は目を逸らすことすら出来ない。どうして彼が此方を見ているのだろう。何かあるのだろうかと、そんなことを考えていたら、「すみません」彼が人の間を縫うように此方へ近づいてきた。私も避けた方がいいのかなと身を捻ろうとして、けれど彼は私の目の前で立ち止まる。「あの、」そう彼の口が開いたとき、彼の視線は私に向けられていて、私に話し掛けているのだとようやく理解。視線が、重なる。

「昨日、ありがとうな」
「は……いえ、いいえ!」

彼の言葉に、私は驚いた。まさか覚えていてくれたなんて、予想外でしかなかった。思わぬことに大きくなってしまった声に、はっとして口を塞ぐ。今更すぎる行為に彼は声を殺して笑った。それに私は、羞恥心よりも先に喜びが浮かぶ。
ああ、笑顔だ。細められた目をつい見つめてしまう。こんな距離で、こうやって笑顔を見れるだなんて思ってもなかった。目に焼き付けておこうと、そう凝視してしまったからか、彼は笑うのをやめて一瞬顔を背ける。怒らせてしまったかもしれないと「すみません」謝れば、「いや、こっちこそ」笑ったことにだろうか彼も言った。

「……」
「……」

そして流れるのは沈黙だ。何か話し掛けてもいいのだろうかと悩む私と、視線をあちらこちらへと向けている彼が向き合う図は、きっと端から見ればおかしな状況だと思う。時折視線がぶつかっては逸らしてしまう私の顔は、ひどく赤くなっているかもしれない。

『まもなく――』

車内に響くアナウンスにハッとする。いつの間にか降りる駅に着いてしまったらしい。折角の機会の殆どを無意味にしてしまったことを後悔しつつ、彼の顔を見上げれば、彼もまたこちらを見下ろした。

「私、ここで降りるので……」
「ああ。それじゃあ、……またな」
「は、はい、また」

また、と彼は言った。つまりまた明日も挨拶していいのかな。電車を降りながらそう考えて、そういえば名前を訊いていなかったことに気がついた。明日、訊いてもいいだろうか。訊けたらいいなぁと思いつつホームを歩く。また明日も会えますように、そう願いながら。
ゆっくりと走り出す電車からは、ほんの一瞬、彼の姿が見えた気がした。





──食満留三郎の場合


駅のホームで列に並びながら、今日は人が多いねと言う伊作にそうだなと同意する。何やら不具合があったらしく電車が遅れているからだろう、仕方がない。これは電車内も混み合ってるだろうなと溜め息を吐いた。
暫く待つといつもの電車が来る。彼女はいるだろうか。いつもなら本を読む姿が見れるが、今日ばかりはいないかもしれない。そんなことを考えて、思い出すのは昨日のことだ。
駅のホームから振り返ったときの、彼女がこちらを見ていたあの瞬間。
目を閉じると焼き付いていたように浮かび上がって、ちっとも眠れなかった。何度目かの欠伸に伊作が苦笑する。そうしながら人の流れに乗って電車に乗り込み、その姿を見つけた瞬間眠気なんて吹き飛んだ。

「あ」

彼女だ。いつもと違い本も読んでいない彼女の姿が、何人かを挟んですぐそこにあった。
それからすぐに彼女の視線が此方を向いて、咄嗟に逸らすことも出来なかった。どうして彼女が此方を見ているのか、まさか昨日のことを覚えているのだろうか。いや、覚えてなかったとしてもだ。俺は昨日決めたことを実践する。

「伊作、悪い。後でな」
「え?ああ、うん、分かった」

返事を聞くよりも早く、俺は人混みを進んでいた。半ば無理矢理なその移動に多分嫌そうな顔を向けられただろうが、今回ばかりは見逃してほしい。ようやく彼女の前で立ち止まれば、彼女は困惑した様子を見せる。それでも俺は「あの、」声を掛けずにいられなかった。彼女の視線が、真っ直ぐに俺を捉える。緊張で震えそうな声を、俺はどうにか絞り出した。

「昨日、ありがとうな」
「は……いえ、いいえ!」

ああ、やっぱり覚えてくれていたんだ。俺は思わず緩んでしまう口許を手で覆い隠す。彼女もまた口を塞いだのは少し大きかった声を恥じてのことだろうか。そういう仕草も、ころころ変わる表情も、可愛いなと思ってしまう。
そうやって観察をしすぎてしまったからか、彼女の視線がじっと俺の顔から動かないことにようやく気がついた。しまった、見すぎたか。今更ながらに視線を逸らせば、「すみません」彼女が言う。俺の方が不躾だっただろうと「いや、こっちこそ」返せば、彼女の顔が微笑みを作る。その笑顔を凝視するなという方が至難の業だった。

「……」
「……」

そして流れるのは沈黙だ。彼女を盗み見つつ何を話そうかと悩む俺と、何か考えている様子の彼女が向き合う図は、きっと端から見ればおかしな状況だと思う。時折視線がぶつかっては逸らしてしまう俺の様子は、きっとひどく滑稽なものだった。

『まもなく――』

車内に響くアナウンスにハッとする。いつの間にか彼女が降りてしまう駅に近づいていたらしい。折角の機会の殆どを無意味にしてしまったことを悔やみつつ、彼女の顔を見れば、彼女もまたこちらを見上げていた。

「私、ここで降りるので……」
「ああ。それじゃあ、……またな」
「は、はい、また」

此処で終わるわけにはいかないと、また明日への願望を込めた言葉が滑り出す。すると彼女も同じ言葉を返してくれた。つまりまた明日も挨拶していいと、そう思ってもいいのだろうか。
人の波とともに彼女が出ていくのを見送って、閉じていくドアへと近づいた。「さっきの子?名前は?」伊作がこっちを見て笑う、が、その言葉に俺は愕然とする。そういえば名前を訊くのを失念していた。明日、訊いてもいいだろうか。その為にもまた明日も会えますように、そう願う。
そうしてゆっくりと流れだす風景の中、彼女が此方を見ていた気がした。


   

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