03

仙蔵、と呼ばれて立花仙蔵は振り返る。それが友人であり同僚でもある小平太だとは足音から分かっていた。此処に来ることは予想していたから『立花先生と呼べ』といつも通りに諌めようと思っていた、のだが。

「千鶴が、いた」

予想と違う悲痛な表情に、仙蔵はそれを理解した。新入生名簿から分かったのは名前と簡単なプロフィールくらいだ。千鶴の内面については記されていないし、内申書などを見ても記憶があるかどうかなんて分からない。けれど今世でも記憶はあるだろうと、過去の彼女からそう思っていた。思ってしまった。

「私のことを、昔のことを、覚えていない」

それを告げる小平太は、どんな思いを抱いていたのだろうか。
仙蔵には予想できたことだ。少なくとも可能性を視野に入れることはできた筈だった。今まで記憶を持って生まれなかった小平太に記憶があるのだから、今まで記憶を持ってきた千鶴にないかもしれないと。可能性を考えていなかったのは、自身もそうあってほしいと期待していたのだろう。それとも、そんな現実があっては酷じゃないかと自分でも気付かぬ内に見ない振りをしたのかもしれない。仙蔵は涼しげな表情の下で舌打ちしたい思いを堪えた。失敗した。慢心していたのかもしれない。感動的な再会を演出してやろうと思ったのに、より酷な目に遭わせてしまうとは、なんて様か。
しかし悔いてばかりもいられない。その時間があるならばこの友人に安心のひとつでもさせてやろう。仙蔵はもうひとりのまだ見ぬ友人の名を口にする。

「……文次郎とは会ったのか」
「ああ、……千鶴と一緒にいた。あいつは覚えていたよ」
「そうか。なら、まずは文次郎から内村のことを聞き出さねばな。考えるのはそれからだ」

使えるものは何でも使うのは遠い昔に学んだこと。どうせ向こうも情報交換を求めてくるだろうし、友の為に協力してやるのは当然のことだろう。一緒にいたというのなら親しい関係だろうから、詳しく聞き出せる筈だ。
「仙蔵……」ぽつりと名を呟く小平太に、仙蔵は口角を上げて不敵な笑みを浮かべた。彼らしい表情で。かつてよく見せたその笑みで。

「立花先生と呼べ」

キーンコーン、と鳴る鐘の音に、仙蔵はまずは入学式だなと踵を返す。ぽかんとする小平太は、けれどすぐにそれを追いかけた。ほんの少し、彼らしい笑みを取り返しながら。




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