時友四郎兵衛は母を愛している

四郎兵衛は火が嫌いだった。記憶の中にある二度目の生のとき、火事で家と両親を失ったのだ。自分の命もまた奪われんとして、しかし勇敢な、無謀とも言っていいだろう男が家に飛び込みその命と引き換えに救ってくれた。両親と恩人の命を奪った火を嫌いになるのは仕方のないことだと四郎兵衛は思う。暫くの間は火を見ると身体に不調が出ることもあった。さすがに今ではそんなこともないが、煙草のポイ捨てなどを見るとその人物を捕まえ相手が吸い殻を片付けるまで笑顔のまま説教をする程度には火が嫌いだった。
そんな二度目の生で四郎兵衛を助けたのは千鶴だ。同じく二度目の生を受けていた彼女は燃える家を眺める四郎兵衛を抱き締めていた。両親の死が分かったときにはその代わりにはなれないだろうけれどと前置きしつつも「貴方の母になる」と言ってくれた。両親のいない寂しさを優しさで埋めてくれ、火への恐怖を克服するまで見守ってくれた千鶴のことを、四郎兵衛は産みの親と同じように愛していた。
それと同時に、心痛の念にも囚われていた。
四郎兵衛を引き取ったことによって彼女はいつまでも一人身だった。千鶴は結婚なんて面倒だと笑っていたけれど、肩身の狭い思いをしたことだろう。そしてもうひとつ、彼女が火事の現場にいた理由だ。かつて千鶴は愛する男がいた。けっして彼女の想いに気付かなかった男だが、それでも千鶴は男を想っていた。もしかしたらいつか男が千鶴の想いに気付き、幸せな家庭を築くこともできたかもしれないのに、男は四郎兵衛を助け自分の命を落とした。それを知ったとき、四郎兵衛は愕然とした。自分の不幸を嘆いてばかりだった四郎兵衛を慰めてくれた千鶴の、大切なひとを殺してしまったと。敬愛するかつての先輩だったひとを、自分のせいで死なせてしまったと。
ごめんなさい、ごめんなさい。他に言う言葉もあっただろうけれど泣きじゃくる四郎兵衛にはそれしか言えず、千鶴は困ったようにしながらも微笑みを浮かべた。あのね、しろちゃん。彼女が母となった日から呼ばれることになった呼称は、とても優しく四郎兵衛の鼓膜を揺らした。

私は確かに、あいつを止めようとしてあの場にいたわ。けれどあいつが貴方を助け出したとき、ああやっぱり、って思ったのよ。だって貴方はあいつの大切な後輩だったもの。忍びだったならともかく普通のひととして生きてきたのに、かつての大切な後輩を助けたのはとてもあいつらしいことでしょう?きっとあいつは知らない子どもでも助けていたでしょうし、昔のあいつなら自分が死ぬことにはならなかったでしょうけど、それでも貴方を助けたときのあいつは何より私の知るあいつだったわ。あいつとして私の前から去った。それは貴方にはつらいことだけれど、ごめんなさいね、私にはしあわせなことだった。

四郎兵衛の涙を拭いながら語るそれは、本心だったのかは分からない。手の届く位置にいるのに忘れられてしまって手を伸ばすことも許されなかった千鶴の想いは察することもできない。けれど四郎兵衛を責めるつもりはないのだということだけは当然理解した。ひっく、息を吸い込むのを最後に、涙を無理やりに止める。それから微笑む彼女に宣言しようと、震える口を開いた。

「僕が、」
「うん?」
「僕が、千鶴先輩を、おかあさんを、守ります」

かつての先輩の大きな背中を思い出す。学園の生徒だった頃に何度も見てきた背中だ。自分たちを庇いながらも笑って安心を与えてくれていたあのひとのように、この生では千鶴のことを守るのだ。命懸けで助けてくれた彼の代わりに、彼の大切だったひとを守るのだ。いつかまた彼が千鶴の前に現れるまで。ありがとうと微笑んだ千鶴が、幸せになれるまで。





「嫌ね、煙草をポイ捨てするひとって」

当人に聞こえるように言うのはわざとだ。携帯灰皿も持てないのかしらと嫌味を言いながら千鶴は着いていた火を踏み消しティッシュでくるんでつまみ上げる。それを近所のコンビニで捨てるまでの行為を、四郎兵衛は何度も見てきた。その流れの中ではポイ捨てした当人から逆ギレを起こされたり通行人から千鶴が喫煙者なのではと疑いを掛けられたりとしたこともあったが、それでも千鶴はその行為を続けていた。にこにこと笑いながら同行していた四郎兵衛は鞄の中からウェットティッシュを取り出すと千鶴に渡す。相変わらずの女子力だわ、思いながら千鶴はそれを笑顔で受け取り丁寧に指を拭った。

「ありがとう、お母さん」
「いいのよ、しろちゃん」

誰かが聞けば二度見するだろう呼称も、千鶴は笑って受け入れる。少し前までは戸惑っていたもののすっかり慣れてしまっていた。部活動のときにそう呼ばれて、聞いていた部員たちが驚いた顔をするのも面白いと千鶴は思っている。

「火事になったら大変だもの」

その言葉に自分のことが案じられていると四郎兵衛は気付いている。今でも火は嫌いだけれどポイ捨てした当人に説教をかまして拾わせるくらいのことはできる四郎兵衛は、かつて母と慕った少女が自分を守ろうとしてくれるのがなんともこそばゆい想いで、幸せに感じていた。自分のため、というのは幾つになっても嬉しいものだ。
千鶴が火の始末にうるさくなったのは最近のことだった。お母さんという呼称に戸惑わなくなったのと同じ頃合い。それだけで四郎兵衛にはもしかしたらという思いが浮かんでいた。記憶のなかった筈の彼女に、かつての記憶が甦っているのではと。
すると昔の誓いも必要なくなるのだろう。かつて彼女が愛したひとは彼女を愛していて、きっと幸せになる筈だ。それは喜ばしいことだったが、同時に少し寂しくなった。大切な母が取られてしまうという、誰においても複雑な理由で。
だからもう少しだけと願っていた。まだふたりの関係は手探りのようで、どちらかというと四郎兵衛の方が千鶴と親密な関係にある。だからもう少しだけ母に甘えるように千鶴の愛を貰うつもりだった。
そのときが来たら、ちゃんと送り出すから。記憶の中にある千鶴の隣に立つ大切なひとの姿を思い浮かべて、四郎兵衛はそっと目を伏せた。少しでも代わりを勤められたのかは分からないけれど、少しはあのひとの背中に近づいていたのならいいなと、そんなことを考えながら。


 

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