18

未練とは、なんだろうか。死に際して諦めきれないことなどあっただろうか。千鶴は思考する。自ら足を踏み入れた世界で命を落としたことに後悔はない。看取らせてしまった文次郎には申し訳ないと思っていたが昨日話をして一応解決したところだ。それぞれの生で出会ったひとたちとの関わりにも後悔はない。あとは何があるだろうか。千鶴は何度も思考する。そして、やはりきっと彼のことなのだろうと、何度目かの終着点に至った。
とはいえ、何がしたいとは考えがつかない。今まで憶えていなかったのは悲しいことだったが、彼の存在を知るだけで満足していたつもりだ。期待するのに疲れはしたが、彼が思い出さないことに絶望したことはない。憶えていない方がいい記憶もあるものだし、憶えていたからと同じ関係を強制するつもりもなかった。
逢いたいとは思っていた。逢うことを選んでほしいとは思っていた。けれどそこから何をしたいのか、何をしてほしいのか、それは思い付かないままだ。私は一体何を望んでいるのかしらと千鶴は何処か他人事のように思いながら、ふわああと大きな欠伸を洩らした。目蓋が下りようとするのを留めつつ、そろそろだろうと制服のスカートのプリーツを気にしながらベッドに腰掛ける。こういうときはどんな格好をすればよかったのだろう、パジャマ姿はさすがにどうかと思うし、一応病気で休んでいるのに私服に着替えるのも、と悩んだ結果がこれだ。些末なことだと知っていながら、千鶴はわざと気にすることで他のことを考えないようにしていた。
耳を澄ます。聴力を研ぎ澄ますこともしていなかったその耳にも、階段を昇る音は聞き取れた。わざとだろうか。下にいるであろう文次郎が助言したのだろうか。どちらにしろあと十数秒の話だった。
こん、こん、こんとノックの音。その静かさに千鶴は心地の悪さを感じながら、「どうぞ」何でもないように応えた。声が硬い気がしたのは、相手に伝わっていないといいのにと願う。
がちゃりと思いのほか大きな音を立ててドアが開く。ゆっくりと開くその奥にいた彼の姿に千鶴は目の奥が熱くなるのを感じながら、笑顔を作ってみせた。大層失敗した笑顔だろうと自覚しながらも、正す術を持ち合わせてはいなかった。

「千鶴」
「久しぶりね、小平太」

震えそうになる唇が久し振りに紡ぐその名に、自分は何を求めているのだろうか。
答えはまだ、出ていない。




目次
×
- ナノ -