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「ずっと昔の小さい頃に、あんたのことを被虐趣味の変態扱いしちゃったこと、憶えてる?」

ふわぁ、と欠伸を隠しもしない千鶴は、同時に爆弾のような発言も落としていった。その視線の先にいる文次郎はひどく顔を顰めながら、しかし何も言わない。言いたいことをすべて言わせてからにしようと、そう耐えていた。そうやって耐える姿もその一因なのよねぇとはさすがに口には出さず、「もう時効でしょ、怒んないでよ」千鶴は笑う。遠い昔の、更に昔のことだ。仕掛けられた罠に果敢に挑戦してきたそれが彼にとって鍛練のひとつだったと、今ではしっかりと理解している。

「それでさ、嫌な目にも沢山遭わせてきたけど……でも、昔も、少し前も、今だって、あんたはいい奴よね」

あの頃、暴君に振り回される千鶴を少しでも案じていたのは、彼くらいだっただろう。この部屋の持ち主のことを誰より心配しているのもきっと文次郎だった。彼が昔抱いていた想いも、今抱いている想いも、きっと彼女を傷つけることはしないだろう。だから安心して任せられる――ただひとつ、どうにかしなければならないことはあるが。

「だけど、背負う必要のない罪まで背負うんじゃないわよ」
「……何?」
「この私が死んだのは、私の責任。あの世界に足を踏み入れたのは私が望んでのこと。あんたのせいで私が死んだわけじゃないし、あんたのおかげであいつを見つけられた。だから、感謝こそすれあんたが罪悪感を感じる必要はないの」

千鶴は死へと意識が落ちるその瞬間を憶えていた。最期に見たのは文次郎の焦りと戸惑い、絶望に似た表情。責任感の強い彼のことだから、千鶴の死を彼自身の咎だと己を責めたことだろう。責められるべきは彼を利用した自分の方だというのに。あの死が枷になっているのなら、それこそ彼に詫びなくてはならなかった。

「だから、ごめんなさい。今まで私の罪を背負わせてしまって。それと、ありがとう。今まで『私』を守ってくれて」

千鶴は本心を述べる。文次郎には自由に生きてほしいと思う。平和な世で、死にに行く必要もない世界で、意味もなく囚われることもない。

「『私』はこれからもきっとあんたに迷惑を掛け続けるだろうけど、それを許容してくれなくてもいい。『私』のことだから暫くは喧しく当たるだろうけど、あんたの思うようにしてくれたらいい。私のことを理由にあんたが苦しむことは、もう、しなくていいから」

たとえそれが彼自ら嵌めた枷であっても、その鍵を外す手伝いくらいはできる筈だった。
一方で、苦々しい表情を作るのが文次郎だ。少しばかりの沈黙の後、「断る」きっぱりとそう答える。え、と千鶴が聞き返すより先に、文次郎は答えた。

「俺は元々、『内村』を迷惑だとは思っていない。喧しいのもいつものことだ。俺はお前を理由に苦しんだことなど、一度もない」

きっぱりと語るそれも、文次郎の本心だ。長い間克己して生きてきた彼が自ら決めた道を苦しいと思うことが、それを後悔することが、ある筈もなかった。

「……だが、そうだな。お前の言う通り、前回のことを咎と思うのはやめにする。俺は俺の意思で、もう暫く『内村』の隣にいよう。あいつを任せられる奴が来るまでな」
「……あんたは、それでいいの?」
「ああ」

気を遣われたと、千鶴は悟る。自分が文次郎のことを気に病むことのないよう、わざわざそう宣言したのだと。ただそれを追及することはしなかった。気を遣ったとしても、本心でないわけではない。文次郎の言葉を疑う真似をしなくとも必要がなくなれば自由を選ぶだろうと、信じることができた。
それに、と文次郎は小さく続ける。僅かに空いた間に千鶴が首を傾げれば、言いにくそうにしながら文次郎は呟いた。

「お前を気にかける役目は、あいつが担うだろ」

その答えに、千鶴は目を見開く。それは僅かなものだったが、長い付き合いである文次郎が気付かない筈はない。けれどその理由を訊くことはなく、やがて「……そう、ね」千鶴が曖昧に言葉を紡ぐまで、待つだけだった。

「……潮江」
「なんだ」
「ありがとうね」

千鶴は笑顔を形作る。自信に溢れているとはいえないその笑顔に少々苦く懐かしい想いを抱きながら、文次郎はただ頷いた。




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