09

五限目、現代社会の授業が自習になりがやがやと少し喧しい教室で、千鶴はノートを広げて何かを書いている。それが現社のノートでも宿題のある数学のノートでもないことを見て取ると、文次郎は確認のために訊いた。

「内村、それは部活のものか?」
「そーよ。放課後までに仕上げたいから邪魔しないでね」

余程真剣に取り掛かっているのだろう、授業よりも集中している横顔に文次郎は呆れを覚える。ノートに書かれる字は思いの外綺麗なもので、記録かトレーニングメニューか何なのかは分からなかったが誰かに見せるためのものなのだろうなとは文次郎にも判断できた。普段授業で使うノートよりも見易いのではなかろうか、と考えてから、テスト前になったら彼女のものでなく自分のノートを使っていたと思い当たる。最初から今のようなノートを作ればわざわざ他人のノートを使う必要もないというのに。
さて、と文次郎はどうしたものか考える。仙蔵に言われたことを試すならば今だろうか。放課後でも明日でもいいがいつであろうときっと唐突なことに違いはない。あまり後回しにしても嫌味を言うだろう友を思い出し、溜め息を吐いて心を決めた。

「内村」
「何、邪魔しないでってば」
「……お前が好きなのは、バレー部か?」
「はあ?」

仙蔵の言葉は、揺さぶりをかけろというものだった。既に意識しているのか、それとも無意識なのか探ってこいとの言葉。無意識ならばそれに気付く切っ掛けにもなるだろうと仙蔵は言っていた。はたして上手くいくものかと文次郎は考えつつも、その指示に従うのは文次郎自身疑問でもあったからだ。そうやって雑務に励むのは、バレー部のためか、それとも彼奴のためなのか。
だから、文次郎は訊ねたのだ。

「それとも、七松か?」





千鶴は目を見開いて、文次郎を見つめていた。ぽかんと開いた口からは音もなく、空気の出入りすら疑わしい。
それがどれだけ続いただろうか、突然、表情が一変し、くしゃりと泣きそうなそれになる。驚く文次郎に、千鶴はたった一言呟いた。

「……どうしてそんなこというの?」

ぐらり、揺れる。
ふっと閉じられた目と崩れる身体に、文次郎は咄嗟に手を伸ばした。床に落ちる前に抱き止めた身体は重く、気を失ったのだと文次郎は判断する。「内村!」そして大きな声で名前を呼べば教室に一瞬の静寂、その後すぐに状況を把握した心配の声が飛び交う。

「保健室に連れていく。誰か、立花に伝えろ!」

分かったなと視線で問えばこくこくと頷くクラスメイトたちは、しかし動きそうにない。きっと混乱しているのだろう。舌を打ちたかったが千鶴を優先すべきであり、騒がしい教室を注意しに来た教師が何とかするだろうと判断した文次郎は千鶴を抱きそのまま教室を飛び出した。
何故千鶴は気を失った。あの言葉はなんだ。気になることはあるが、文次郎は考えを振り払い足を速めた。揺らさないよう慎重にするだけの配慮は残して、文次郎は走ることに集中した。あの頃のように走れないのがもどかしい。それでも、今何より懸念すべきは、千鶴の安否だ。




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