今日はさよなら 02

──食満留三郎の場合



朝の電車で見かける彼女は、いつも本を読んでいる。ブックカバーを掛けた本の内容は分からないが、たまにカバーが変わっているからいろんな本を読んでいるんだと思う。たまに何処かをじっと見つめているのは、一体何を見ているんだろう。

ちらちらとその姿を見ている俺は、彼女の知り合いでもなんでもない。彼女は俺の名前も知らないし、俺の存在も知らないかもしれない。俺も彼女に関して知っているのは名前が“みょうじ”であることくらいで、それもスクールバッグに書かれた名前を見ただけだ。偶然彼女の隣が空いて二回ほど座ったのも、覚えてる筈がないだろう。
たったそれだけなのに、俺は彼女が気になっている。
理由は何だと聞かれてもきっと答えられることはない。多分最初は眠いのかうとうとしている姿を見て『危なっかしいな』と思ったくらいだった。それがいつの間にか大きくなって、目で追うようになって、それだけじゃ物足りなくなっている。
彼女のことを知りたい。彼女と親しくなりたい。今日もそう、願うだけ。

まもなく到着するというアナウンスに俺は窓の外から視線を外した。車内では何人かが降りる準備を始めていて、彼女もまた本を鞄へと戻す。緩やかに落ちていくスピードに合わせ立ち上がり、こちらの方へ歩いてくる。至近距離から彼女を見つめても彼女が俺を認識することはなく、開いたドアから駅のホームへと降りていった。
アナウンスと共にドアが閉まり、電車は再び動き出す。流れる風景に一瞬彼女の姿を見つけると、俺は窓へと背を向けた。

そしていつもと同じように思う。
また明日も会えますように。





また明日、と願ったけれど、まさかこうなるとは考えてなかった。
委員会活動で少し遅くなった帰りの電車、その車両に彼女が乗り合わせていたなんて、思ってもなかったのだ。

揺すられて目を醒まし、目に入ったのは見慣れた景色。そこが降りる駅だと気付き、慌てて駆け降りて、そういや起こしてもらったのに礼を言っていないと振り返れば、俺が座っていた場所の隣にはあの彼女がいた。閉まるドアの窓越しに視線が交わる。彼女が俺を、見て、いた。
すぐに電車が動き出し、彼女を連れていってしまう。じわじわと熱を持つのはきっと周囲の暗さが隠してくれているだろう。
一瞬だったけど、間違いじゃない筈だ。彼女が俺を認識してくれた。一瞬だけでも、たとえすぐに忘れてしまっても、それでも俺を見てくれた。
すぐ物を壊す小平太たちに感謝したのは初めてかもしれない。委員会が長引いたことで、彼女に会えたから。そしてうっかり寝てしまったことに後悔した。もし寝ていなければ、途中で起きていれば、彼女が隣にいると気付けたのに。
気付けていれば、もっと彼女のことを見れていたかもしれない。顔を見るわけにはいかないだろうけど、彼女の手の大きさや、どんな本を読んでいたか知れたかもしれない。いや、隣に彼女がいるというだけで挙動不審になりそうで、何も出来なかったかもしれないが。せめて起こしてくれたときの声をもっとしっかり聞いていればよかったと、今更どうしようもないことがばかりが浮かぶ。

こんな機会は次にいつあるだろうかと、そう溜め息を吐きそうになったとき、ふと気が付いた。

「……結局、礼、言ってねぇ」

なんてことだと自分を責めると同時に自然と浮かんでくる笑みに、手で口許を覆い隠す。言ってないなら、明日言えばいいんだ。明日の朝、今日の礼を言えばいい。それが人として悪いことである筈がない。だから俺は、朝と同じように願った。

今度こそ、また明日も会えますように。



ああきっかけを手に入れたと喜ぶ俺が、どうして彼女が俺の降りる駅を知っていたのかに気付くのは、ずっと後になってからのこと。


 

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