今日はさよなら 01

──みょうじなまえの場合



朝の電車で見かける彼は、いつもお友達らしい人と一緒だ。ストラップの付いていない携帯電話を操作することはあんまりなくて、たまにそれを手にしているときはそのお友達がいないとき。お友達がいないときは少し携帯電話を触ったあと、ドアの傍でずうっと窓の外を眺めている。

それを座席から見ている私は、彼の友達でもなんでもない。彼は私の名前も知らないし、私の存在も知らないかもしれない。私も彼に関して知っているのは名前が“トメサブロー”であることくらいで、それも彼のお友達が呼んでいたのを聞いただけ 。偶然座席の隣が空いて彼が座ったのは、たった二回くらい。
たったそれだけなのに、私は彼が気になっている。
理由は何だと聞かれてもきっと答えられることはない。多分最初はおじいさんに席を譲る姿を見て『いい人だな』と思ったくらいだった。それがいつの間にか大きくなって 、目で追うようになって、それだけじゃ物足りなくなっている。
彼のことを知りたい。彼と親しくなりたい。今日もそう、願うだけ。

『まもなく──』

まもなく到着するというアナウンスに私は開きっぱなしにしたままだった文庫本を閉じた。また全然読み進められなかったそれは学校の朝の読書の時間まで鞄の中へ。緩やかに落ちていくスピードに気を付けながら立ち上がり、彼の立つドアの近くへと向かう。至近距離から彼を見つめて訝しまれても困るので、視線をわざと下へ向けたまま開いたドアから駅のホームへと降りていった。
人の流れに逆らわず改札へ向かえば、動き出した電車に抜かされる。速度を上げる窓から彼を見つけだすことは今日もできなかった。

そしていつもと同じように思う。
また明日会えますように。





また明日、と願ったけれど、まさかこうなるとは考えてなかった。
部活動で少し遅くなった帰りの電車、その車両に彼が乗り合わせているなんて、思ってもなかったのだ。

練習熱心な顧問に今ほど感謝したことはなかったかもしれない。ラッシュ時を過ぎた車内は幾つかの空席もあって、私はよしと意気込むと彼の隣へと腰を下ろす。そっと様子を窺って見ればどうやら寝ているようで、目を閉じて静かに寝息を立てていた。部活動か何かだろうか、けれどスクールバッグ以外に荷物はなく、部活動だとしてもスポーツ系ではなさそうだと思う。
とにかく彼が寝ているのだからと、他の乗客に変な目で見られないよう気を付けつつも、遠慮なしに注視してしまう。俯き気味の横顔、閉じられた目元にどきりとする。本当はその目をまっすぐに見つめてみたいけれど、それが叶うことはないだろう。大きな手はきっと私の手なんてすっぽり包んでしまうんじゃないだろうかと想像して、そんな想像をしてしまったことが恥ずかしくなる。

『まもなく──』

ひとり羞恥心に苛まれていたら、アナウンスが車内に響いた。幾つの駅を通り過ぎていたのか、よく聞けば私の降りる駅ではない、けれど。
隣を見る。彼は煩わしそうに眉間に皺を寄せ、けれど起きる様子はない。
でも、この駅は、いつも彼が乗車する駅だった、筈。
このままじゃ乗り過ごしてしまう彼にどうしようかと焦る。既に他の乗客は向こう側のドア付近に集まりだして、スピードは緩やかに落ちていって、けれど彼を起こすような人はおらず、起こせるのは……私、だけ?
思考停止は一瞬だけ。軽く肩を揺すって、意識が浮上しつつあるときに駅名を告げると、彼は数拍置いて大きく目を開いた。既に人が流れ出ていたドアに、彼は慌ててスクールバッグを掴んで走り出す。彼が飛び出すと同時に閉まるドア、その向こうの彼が、こちらを振り返って、目が、あった。

「っ……」

動き始めた電車は徐々にスピードを上げて、すぐに彼の姿は見えなくなる。がたんと揺れるのに合わせて顔を伏せて、きっと赤くなっているのを隠すようにした。
一瞬だったけれど、間違いじゃない筈だ。彼は私を認識してくれた。一瞬だけでも、たとえすぐに忘れてしまっても、それでも私を見てくれた。
どきどきと鼓動もスピードを増して、私はほうと息を吐く。明日はあまり彼のことを見ていられないかもしれない。今日のことを思い出してしまって、百面相してしまうかも。
それでも当然、会いたくないなんて思わない。私は目を閉じて、朝と同じように願った。

今度こそ、また明日も会えますように。



そして明日になればいつもと違う朝を迎えることになることに、当然今の私が気付く筈がなかった。


 

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