刷り込みの恋情

手紙で呼び出されて告白されて、よく知らない相手だしなぁと考えていると「試しに付き合ってみない?」なんて言われたからじゃあ付き合ってみるかと頷いた。付き合ってみて分かったことだが彼は非常に独占欲が強いというか、私が他の人と話していると嫌そうな顔をして引き離そうとした。「俺の物に触んなよ」とか人を物呼ばわりするところが段々嫌いになっていった。しかしそれくらいで別れるのは私の心が狭いみたいで嫌な気分だし、たまに奢ってもらえるランチは魅力的だったから1ヵ月は我慢した。そのうち「ほんとは俺のこと好きじゃないんだろ」とか煩くなって、まぁ試しに付き合ってみてるだけだからなぁとか思いながらも本当のことを言うわけにもいかず「そんなことないよ」とか返してた。そういった状況が2ヵ月続いて、見えないところを殴られるようになりそのすぐ後で泣きながら謝られるようになりでも一人で行動も禁止されるようになってようやく『間違った』ことに気が付いた。
馬鹿だなぁ、私。そう言って笑うと、彼のぎろりとした、以前より精悍さがなくなった目が私に向いた。多分今から言うことで彼がどんな行動を起こすかは想像に難くないが、私はなるべく彼の好きな微笑みを浮かべて口を開いた。

「別れましょう」

彼の目が見開き、彼の手が私に伸びる。どうして、と彼の薄く開いた口から音が漏れる。彼の手は機嫌を損ねた私を宥めたときのように頭を撫でることも、彼が甘えようと抱き締めたときのように背中に回ることもなく、やはり私の首に添えられた。力を込められればすぐに私は死ぬんだろう。此処は彼の家で、邪魔する人は誰もいないから。私が撤回するのを待つように、彼が私を見る。その目はあまりに濁っていて写っているはずの私が見えなかった。





「駄目だ」

ぱしん、と軽い音。本当に軽く叩かれたようにしか見えない動作によって、彼は糸が切れたように倒れた。私の首からも手がするりと滑り落ちる。

「ほら。大丈夫か、深月?」

そう言って私に手を伸ばすのは、間違えるはずもなく幼馴染みの鉢屋三郎その人だった。何故此処にとか、どうやって入ってきたのかとか、聞きたいことは沢山あった。けれど私はまず礼を言い手を取ることをしようとして、その前に三郎がしゃがみこんで私の手を掴み取った。

「まったく、あまり心配をかけさせるなよ」

しんぱい。私はきっと驚いた顔をしたのだと思う。「馬ぁ鹿」三郎は空いている手でこつんと私の頭を小突いた。

「好きでもない奴と付き合い始めて、なかなか別れもせずにずるずると。男は目に見えておかしくなって、終いにこれだ。雷蔵も本当に好きになった奴と付き合えと言っていただろう?これに懲りたら友人の忠告はしっかりと聞くように」
「うん。ごめんなさい」
「雷蔵にも謝れよ。物凄く心配しては迷っていたからな」
「うん。ありがとう」

三郎の言葉を、けれど私はどこか他人事のように感じてしまう。聡い三郎がそれに気付かない筈もなく、彼は舌打ちして私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。「この馬鹿、帰って美味いものでも食べに行くぞ、雷蔵も待っている」そう言って私の手を取ったまま立ち上がる。私もそれに倣うと、三郎は満足そうに頷いた。

「三郎」
「なんだ」
「ありがとう」

繰り返した言葉に、三郎はまた馬鹿、と笑った。
私は手を引かれるまま、恋人だった男を見ないようにその家を出た。彼が目を覚ましたとき、どんな反応をするかは分からない。けれど私が彼と会うことはもうきっとないのだろう。
私が何か『間違い』を起こしたとき、三郎はいつもこうやって助けてくれる。もう同じ『間違い』を起こさないように見ていてくれる。幼い頃からその繰り返しで、何かあれば三郎が助けてくれるというのが刷り込みのように根付いていた。だから自分に危険があっても他人事のように思ってしまうのかもしれない。

「深月、まだあいつが気になるか?」
「ううん」
「そうか。これに懲りたら性質の悪い男に引っ掛かるなよ」
「私に見分けられるかな」

何かあったら助けてねと暗に訴える私は変わらず愚かだ。きっといつまでも三郎離れができないんだろう。三郎に彼女が出来たときのことを考えなきゃいけないな、なんて考えていたら三郎が急に立ち止まった。
どうしたのと訊けば、答えず三郎が振り返る。真剣な顔をしていて、怒らせたかと身構えれば予想外の台詞が飛び出した。

「なら、私にしておけばいい」

少なくともあいつよりは、付き合ってみる価値あるぞ。三郎は続けてにやりと笑う。
突然のことに私はろくな反応を返せなかった。三郎の冗談かと思ったけれど、それならばもっとあからさまに冗談だと告げる態度を取る。つまりこれは冗談ではなくて、やっぱり撤回されることもなくて。
再び歩き出した三郎に手を引かれながら、私はぼんやりと考える。私は当然三郎が好きだけれど、それは幼馴染みだからでありそんな目で見たことはなかった。だから戸惑う。そりゃあ三郎なら『間違い』じゃないだろうけど。

「三郎は私が好きなの?」
「さぁて、どうかな」

私を悩ます本人は何処吹く風だ。性質の悪い男に引っ掛かるなと言ったばかりなのに言った当人の性質が悪いとはどういうことか。
雷蔵に相談してみるべきかなぁなんて考えて、きっと雷蔵も一緒に悩むことになりそうだと結論に至る。雷蔵は好きな人と付き合えと言ったけれど、きっとこんな事態は考えてなかっただろうし。
それでも結局、三郎離れができないならそれもありかなぁと考えてしまう私は、やっぱり馬鹿なんだろう。


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