たとえば、

触れるか触れないかのところで手を止めた。鉢屋は動こうともせず、私の顔をただ見ている。にやにやと不破くんの顔に似合わない笑みを貼りつけて。

「逃げないの?」
「君の好きにすればいい」
「本当の顔を見られてもいいの?」
「実際、素顔を隠していることに意味はないのかもしれないね」
「本当?」
「さあ、どうだろう。ただ今の私に言えることは、私は君がこの面の皮を剥がそうとすることに抵抗しないし、素顔を見られたからといって君の命を狙ったり子を孕ませて縛りつけようとしたりなんてことはしない、ということだけだ」

すべて君の思うがままだよ。鉢屋の言葉に、私は息を飲む。
このまま顔に触れてちょいと引っ張れば鉢屋三郎の素顔が見られる。そこには何の代償も責任もない。
興味がない、わけはない。誰も知らない素顔を、不破くんでさえ知らない彼の素顔を、私だけが見れる。小さな優越感かそれに似た何かが、きっとそこにはある筈だ。
それに加えて、私は鉢屋三郎に決して少ないとは言えないだけの好意を抱いている。恋慕と言い換えてもいい。好きな人の秘密を知りたいと願うのは、恋する女ならば当然のことだろう。
ごくり、無意識に唾を飲み込んだ。
そして、手を。

「……やっぱ、いい」
「なんだ、やめるのか?」

引っ込めようとした手を、鉢屋の手が握って止める。その顔にあの純粋でない笑みは無く、つまらなさそうに、子供が拗ねるように下唇を突き出していた。
意外と暖かい手だな、私はそんなことを思いながら、何故手を握られたままなのかは敢えて思考の外に追いやった。意識するときっと羞恥心に襲われる。

「せっかく素顔を見られてやってもいいと言っているのに」
「うん、気になるのは山々なんだけどね。ここで見てしまったら負けた気がすると思って」

たとえば、自分の恋心。この機会が鉢屋の気紛れだったして、私に知られたところでどうとも思わなかったとして。それでも私は自分だけが彼の秘密を知っているのだと浮かれて調子に乗るかもしれない。浮かれ調子のまま土足で踏み込んで、嫌な女だと思われるかもしれない。そして私の恋心は終わりを告げる、かも、しれない。
勿論極端な例ではあるが、ないとは言い切れない。恋心だけじゃない、自尊心とか、くノ一としての矜持とか、色々なものが組合わさった結果、鉢屋の気紛れに膝を折るわけにはいかないと判断したのだ。

「だから、鉢屋が私に是非見てほしいって言うまで見ないことにする」
「わざわざ見せたくなることはないだろうよ」
「そうね、でも、たとえば、鉢屋がどうしようもないくらい私に惚れてて、私が素顔を見たこともない奴とは恋仲になれないと言えば、きっと見せようと思うでしょう?」
「まあ、そのたとえばの話なら、そう思うかもしれないな」
「じゃあとりあえず、鉢屋に惚れてもらわなきゃいけないわけね」

勿論、そう思わないかもしれない。そのときはそのとき、次の作戦を練ればいいし、ぶっちゃけ見れなくてもいいかなと思っている。惚れてもらえれば万々歳。素顔に興味はあるが執着はしていないから、見れたら儲けもん、てな具合だ。
まず惚れてもらうためには、なんて私はそういうことに詳しくなく成績も良くないし、思い立ってすぐ簡単に出来ることならもう誰もがこなしていることだろう。いきなり前途多難である。

「ところで」

まあ、今まで通り気軽にやっていこう。私は心の中で緩く決意を固めていると、握られたままの手がくいくいと引かれて意識が浮上した。鉢屋の表情は拗ねたものからにっこりと、ちょっとだけ不破くんのものに似た笑みに変わっていて、そういう顔も出来るんだなぁなんて考えながら彼の言葉を待った。

「ところで、たとえばの話だが。私が素顔を見せて心底惚れているから恋仲になってほしいと言えば、君は頷くのか?」
「そうね、頷くかもしれない」

その場合両想いであることが確定するわけで、素顔を見せられずとも頷くだろう。なので私が肯定すると、「そうか」鉢屋は満足そうに二度ほど深く頷いた。
そして握ったままの私の手を、掌を合わせ指を絡めるように握り直す。掌が汗ばんでないか不安に思った。鉢屋の手は暖かいけどさらさらだ。いつのま間にか、本当にいつの間にかもう片一方の手も彼の手の内で、こちらは手の甲を覆うように添えられていた。そのまま鉢屋の顔へと導くように引っ張られて、指先が触れるか触れないかのところで一度止まって。

「ところで、見てほしいものがあるんだ」


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