あい あい

私には結婚を誓った男の子がいた。同じマンションに住む、同い年の男の子。
と言ってもずっと幼い頃の話だ。『おおきくなったら、およめさんになってね』よくある幼稚園児なりに真剣な、大人になったら忘れてしまう約束。それを高校生という大人の少し手前にいる私は、忘れることもできず持て余していた。相手の男の子は、もうすっかり私のことを名字で呼ぶというのに。
とめくん、と呼んでいたのは小学四年生まで。名字で呼べと言われた日から、彼は『食満くん』になってしまった。小学校ではわざと帰る時間をずらしていたし、中学校では幼馴染みであることも悟られないようにしていた。同じ高校に願書を出していたなんて知らず、合格発表の日に鉢合わせて驚いたことを覚えている。向こうも知らなかったようで偶然だと驚きながら「高校でも宜しく」なんて笑っていたけれど、クラスの違う私たちに接点なんてなかった。当然廊下ですれ違っても挨拶なんてしないし、食満くんが辞書を忘れたときは中在家くんに借りている。私は私で女の子の友達や同じ部活動の子に頼ることができるから、食満くんに話しかける必要なんて、一切なかった。
食満くんはきっとあんな約束なんて覚えてないだろう。私も早く忘れないと、なんて思いながらも溜め息が漏れてしまうのは、私が彼に恋をしてしまったからだった。
きっかけは覚えていない。だんだんと格好よくなっていく彼の外見、友達想いなところ、友達と話しているときに見られる笑顔や窓から見える体育の授業の活躍っぷりなど好きになる要素はたくさんあった。そんな彼に恋や憧れを抱く女の子は私以外にも多くいて、それだけ私と彼は遠い関係にあるのだろう。
寂しいけれど、遠くから見ているだけでも幸せだと思えている今のまま、深入りせずにいればきっと傷つくこともない。私は憧れのような恋を抱いたまま、この想いが萎んでいくのを待つことにしていた。



お天気お姉さんが降水確率ゼロパーセントを笑顔で告げたこの日、突然発生した雨雲が部活動に励んでいた生徒を襲った。きっと明日のお姉さんは申し訳ない顔をしながら謝ることとなるのだろう。お姉さんに罪はないと思いながらも困っている生徒は多くて、傘もなしに雨のなかに飛び出す様子も見られた。
私は鞄のなかの折り畳み傘を確認する。買ったばかりの可愛い傘と、少しくしゃくしゃの傘。二本目は友達に貸していて今日返ってきたものだ。返してくれた友達も今日降るとは思っていなかっただろう。彼女は今日の部活動はなかっただろうから、雨で帰れないという不運もない筈。立ち往生している知り合いがいれば貸してあげようと思いながら靴を履き替え昇降口を覗いたところで、見つけたのは想い人の姿だった。
食満くんがその親友の善法寺くんと何かを話している。ふたりの手には傘がないから、どうやって帰るのか相談しているんだろうか。私の傘でいいなら貸してあげたいけど、話しかけて驚かせたりしたら悪いし。悩みながら様子を窺う私は多分きっと怪しかった。
どうにもいい案が浮かばずにいた私は、結局、他のひとの目がないことを確認して話しかけてみることにした。自分が思っているほど相手は意識していないだろうと自分に言い聞かせて。

「食満くん、今帰り?」
「あ、ああ。的場もか」

食満くんの言葉に頷く。うん、きっと驚かせたり嫌な思いはさせていない筈だ。善法寺くんとは話したことがないから目礼するだけ。彼はきっと不思議に思うかもしれないけれど、説明をするなら食満くんに任せようと思う。

「帰るつもりなんだが、この雨だからな」
「傘ないんだね。折り畳み傘でいいなら貸そうか?」
「いいのか?」
「うん、今日はたまたま二本あったから」

かくかくしかじか詳しく説明する必要はないだろう。鞄のなかにあった傘を差し出した。ふたりで入るには小さな傘だけれど雨から身を守る役目を多少は果たしてくれる。ないよりはまし、な筈だ。

「悪いな。早く返すから」
「ううん、いつでもいいよ」

同じマンションなのだから返す機会なんて幾らでもある。何なら家のドアにでも引っ掛けておいてくれればいい。万が一なくなってしまっても困ることはないのだ。
善法寺くんの家が何処かは知らないけれど、きっと食満くんは善法寺くんを送ってから帰るだろう。それじゃあお先にと自分用の傘を広げ、雨ですっかり色の変わったアスファルトに足を踏み出した。
ちゃんと話せていただろうか。途端に恥ずかしくなる私は走り出したくなる思いを抑えて足早に歩き続ける。校門を出るときにぱしゃんと水溜まりを踏んで跳ねてしまったけれど、それすらも気にならなかった。困ってるところを助けたかっただけだから、今日は特別。明日からは浮かれないようにしなくちゃいけない。

そう自分に言い聞かせていたのに、次の日からがらりと世界が変わるなんて、思ってもいなかった。










一度手離してしまったことを後悔したのは、中学生になってからだった。
思春期としてありがちな展開だ。他の男子にからかわれるのが嫌で一緒だった登下校の時間をずらしたり、愛称で呼ぶのをやめさせたり。好きな女の子に素直になれず、自分から突き放してしまった。それがどれだけ幸せな時間だったのかと後悔しても遅かった。隣り合っていた筈の自分と彼女の間には大きな溝ができてしまって、そこを越えられる方法はなかなか思い付かなかった。
だからこれはきっとチャンスだった。

「……留三郎、今の子、友達?」

伊作の言葉になんと答えていいか分からず、俺はただ頷くだけにした。手にした傘は見覚えのある、的場深月のよく使っていたものだ。新しい傘をくるくると回しながら先を歩く彼女は、一度も振り返ることなく校門を越えていった。食満くん、と呼ばれた声だけが何故か耳に残っていた。

「行くか。駅まで送る」
「あ、うん、ありがとう留三郎」

開いた傘は大きくはなかったが、あるのとないのとでは全然違う。雨で立ち往生していた生徒は俺たちだけじゃない。偶然手に入れることができた幸運を誰かに妬まれるよりも早く雨の降るなかに身を投じたかった。どうやって歩けば濡れるのが最小限に押さえられるか考えて、余計なことに思いを巡らせずに済むようにしていたかった。
あそこでこの傘を伊作に押し付けて、彼女の真新しい傘に一緒に入れてくれと頼んだら、チャンスをものにすることができただろうか。それとも怖がられて完全に終わっていただろうか。最早意味のない、そういうことは、もう暫く考えずにいたい。

伊作を駅まで送り、家に帰るとまず風呂に入った。あの小さな傘に男ふたりが入っていたのだから、思いの外身体は冷えていたらしい。充分に温まり、ドライヤーを拝借して部屋へと戻る。
自分のものならば適当に干して乾燥を待つだけだが借りたものだ。折り畳み傘をドライヤーで乾かしていく。折り目が薄くなっている傘は少し草臥れて見えた。折り目を気にしながら丁寧に折り畳み、ぱちんとボタンを留める。これならば問題ないだろうと納得できたところで、さて、と考える。
これはどうやって返そうか。住んでいるのは同じマンションだ、会って渡そうと思えばすぐ行ける。彼女の家のドア近くに置いておいても問題ないだろうが、それっきり彼女どの繋がりは失せてしまうだろう。考える余地もなく却下だ。
インターホンを鳴らして手渡すのならばいい。しかし彼女に直接渡せれば、の話だ。彼女の親が出てきて『わざわざありがとう、渡しておくわね』なんて言われたらやはりそこでおしまいである。携帯電話に彼女の連絡先が入っているわけでもなく、確実に彼女を呼び出す方法のない俺には諦めるしかなかった。
そうなると学校で渡すしかない。そのときにどうやって溝を埋める切っ掛けを作るか、俺はあまりよくない頭を懸命に働かせて計画立てることにした。



「これ、ありがとな」
「わざわざ持ってきてくれたんだね」

2組に足を踏み入れて彼女の前に立ったときの、驚いて目をぱちくりとさせてから笑う表情が可愛いと思う。彼女が受け取って鞄に入れるところで、「次、英語か ?」会話を切らさないように話しかけた。

「うん。3組はその次だっけ?」
「ああ。それでさ、」
「辞書、忘れちゃった?」
「……ハイ」

可笑しそうに言う彼女に馬鹿にしたり呆れるといった様子はない。まさしく続ける筈だった言葉に肯定を返せば、やはり彼女は笑顔のまま「私のでよければ」こちらの期待した言葉をくれた。

そこから毎日のように彼女のもとを訪れる。何かを忘れたことにして借りたり、礼と称してコンビニの新作菓子を渡したり、たまに何の用もなく話しかけたり。周りに仲がいいのだと思わせて牽制するのも目的のひとつだが、時間を掛けて溝を埋めていく方が失敗はないと踏んでいた。ニヤニヤしながらこっちを見てくる小平太は察しているのだろう長次が抑えてくれていたし、2週間ほどで彼女から俺のもとを訪れたときには間違っていないと思うことができた。申し訳なさそうに現国の教科書を貸してほしいと言う彼女に快くそれを渡せば、伊作がなるほどといい笑顔で呟いていた。

「何か僕にできることがあったら言ってね」
「ああ」

勿論そのつもりだと頷いたその機会は、すぐにやってくる。



朝のニュースのお天気お姉さんが笑顔で傘は必要ないと告げたこの日、空は灰色の雲が覆いそこからは絶え間なく雨が降っていた。まるであの日のようだと思う。勿論、あの日を再現するつもりはない。

「伊作、傘あるか?」
「ううん」
「これ使え」
「いいのかい?」
「ああ」

伊作にロッカーに置いていた折り畳み傘を押し付け、先に帰らせる。今日だけは伊作の不運に巻き込まれるわけにはいかないのだ。いずれ何かで恩を返そうとあいつの背中を見送った。
俺たちが教室を出たとき2組はまだ授業中だったから、彼女が来るのももう少し先だろう。ぼんやりと雨の降る光景を見つめながら、ただ彼女を待つ。雨のなか傘もささずに走り出すクラスメイトを見送り、相変わらずニヤニヤと笑う小平太が長次に連れていかれるのを見送り。
その少し後に聞こえた「食満くん、今帰り?」鈴のような声に振り返れば、期待通り、彼女がいた。

「今日は善法寺くんと一緒じゃないの?」
「委員会か何か用があるらしくてな」
「そうなんだ。じゃあ今日はゆったり入れるね」

傘ないんでしょう、と差し出されたのは以前と同じ、少し草臥れた折り畳み傘だ。まだ現役だったかと思いながらそれを受け取り「ありがとう」礼を言えば、彼女は笑った。此処でじゃあねと別れるわけにもいかない。彼女が傘を開くよりも早く、俺の口は動いていた。

「深月、一緒に帰ろう」

今回は同じ傘じゃなくていい。あわよくばとは思っていたけれど、ただ並んで歩ければ、今日はそれでいい。予想外だったのか目をぱちくりとさせて、それでもまた笑う表情は、やはり変わらず可愛いと思う。

「久し振りに名前で呼んだね、とめくん」

そして悪戯気に言われたそれは、ずっと待ち望んでいて、まだ叶わないと思っていたものだった。的場と呼びたくなかった、深月と呼びたかった俺と同じように、深月もそう思っていたのなら。さすがにそう上手い話はないだろうが、望み薄ではないのだろう。緩みそうになる顔をただ笑うように意識して、深月の頷きにほっと胸を撫で下ろした。
傘を開き、未だ弱まることを知らない雨のなかを歩き出す。水溜まりを踏まないように慎重に歩く深月に合わせ、ゆっくりとした足取りで。深月の話す声が近くで聞こえることが、ただ幸せに感じた。委員会や部活動で予定が合わないとき以外は、また一緒に帰れないかと誘っていこう。

「傘、乾かして返すから」
「別に気にしなくていいのに」

深月は言うがそんなわけにはいかない。今度は家を訪れよう。彼女の母が出てきたらそれはそれでいい。きっと上手くやれば久し振りねと笑ってお節介を焼いてくれるだろう。多分、外堀から埋めていけば深月も諦めて俺の手を取ってくれるんじゃないだろうか。
今のように同じ道を歩いていてほしいと思ったのは、小さな子どもだったときだ。勿論今も変わらない。もっともあの頃は登園や公園に遊びにいくといった意味だったけれど。それでも想いだけはいつまでも変わらなかったのだ。一度は後悔するような道を選んだけれど、チャンスを貰ったからにはもう二度と手離さない。いつまでも同じ道を歩けるように、努力するのだ。そしていつか約束を果たそうと思う。結婚を誓ったなんてこと、深月はもう忘れているかもしれないけど。


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