存在証明

・食満夢?
・幽霊
・あんまり幸せな話ではない





「おかえり、邪魔してるぞ」

家に帰ると、聞き慣れた声が私を迎えた。
サンダルを脱ぎ捨て、ぺたぺたと足音を立てながらその声の方に向かうと、私が初給料で買った一人用ソファーに我が物顔で座る留三郎がいた。この間買ったファッション誌をパラパラと捲る彼は女性用の雑誌なんて読んで楽しいのだろうか。私は一旦キッチンへ向かうと冷蔵庫から麦茶を取り出し、少し悩んで二人分のコップに注ぐ。それをソファーの前のローテーブルに置くと、「お、ありがとな」彼の目が柔らかく細まった。

「今日はどうしたのよ」
「たまには顔が見たくてな」
「あ、そう」

ソファーの横に腰を下ろし、麦茶を一口。冷たいものが喉を通り食道を過ぎ胃へと落ちていく。その感覚を楽しむようにゆっくりと麦茶を飲み続けていれば、留三郎が私の頭を撫でるように触れていたことに気がついた。どうしたのと目で問えば、「さっき、ここに来る前にな」留三郎は手を止めて話し出す。

「伊作のとこにも行ってきたんだ。あいつ、相変わらず不運だな」
「伊作だもの。毎回助けてくれるお人好しもいないから、大変みたい」
「嫌味か?」
「嫌味よ」

昔はいつもそうだったのに、今では伊作の傍に留三郎の姿はない。私や伊作からは会いに行けないところにいて、滅多に会いにも来ないのだ。頻繁に来れるわけでもないのだろうけど、だからと言って『仕方ない』で済ますのは難しい。ずっと待つしか出来ないのだから、嫌味のひとつでも言わなければやってられなかった。
留三郎は困ったように笑って、すまんと謝るだけ。またすぐに会いに来るだとか不確かな約束は口にしなかった。それがまた歯痒くて、私は眉間に寄った皺も伸ばせないままグラスにちびちびと口をつけた。

「跡残るぞ。折角の見目が台無しだ」
「馬鹿」

くつくつと笑う留三郎の指が私の眉間に触れようとする。私が文句を言えばその手は簡単に下ろされた。それでも私が「留三郎の馬鹿」子どもじみた文句をぼやき続ければ、そこに含まれた別の意味に気付いたのだろう、留三郎はまた困ったようにしていた。
宥めるためにか、留三郎の腕が私の体を包み込もうとする。けれど温もりを感じることも、当然感触もないそれは、ただただ物悲しい想いを呼び起こすだけだった。じわりと涙が浮かぶ。それを拭おうとした彼の指を、水滴が通り過ぎた。

「ばーか。ばか、留三郎のばぁか」
「すまん」

どれだけ言っても、留三郎は謝るだけだ。それが心からの謝罪であることも、本当は、分かっている。



私と伊作と留三郎は、数百年前の世の中でずっと一緒だった。とある学園を卒業してからも、ずっとずっと一緒だった。けれどあるときある仕事の最中に、私たちは別々の場所で命を落としてしまった。いつ死んでもおかしくない世の中だ、覚悟はしていたつもりだった。私は幸せな人生だったとそれなりに満足して死んでいったし、伊作も心残りのない死に方をしたのだと聞いた。けれど、留三郎だけは違ったのだ。
死んでもなお私や伊作を心配して、無事を確認するために駆け回って、私たちの死を知って。いつかまた会えるだろうと思いながらも本当に見つけられるか、覚えていられるか不安を抱いて。また私と伊作に会えるまで何千年も掛かるかもしれないと知っていながら、ずっとそのままでいたのだという。

「ほんと、馬鹿」
「ああ」

彼の覚悟は計り知れない。私や伊作を待ってる間どんなにつらい思いをしたのか分からない。私がこうして泣いてしまうのも、本当は彼を傷つけているんだろう。けれど私は自分の思いをいつまで経っても押さえられなかった。
私や伊作を助けていてくれた手はそこにあるのに、もう触れることすらできない。温かかった腕は私の身体をすり抜けて、何の感覚も残さない。その優しさの分だけ私に与えた絶望は大きくて、それすらも包み込もうとしてくれる留三郎に甘えてしまう私はただただ弱かった。



私はどれだけ泣いたのだろうか。気付いたときには日が沈み始めていて、この時間の終わりを突きつけてくる。留三郎が此処にいられる時間は限られているようで、また約束のない訪問を待つ日々が続くのだ。

「……そろそろ帰らないとな」
「次は、いつ来れるの」
「……深月」
「……嘘よ、馬鹿」

けれどこれ以上不安を見せるわけにもいかない。私は硬い頬に力を入れて、どうにか笑顔を形作る。涙や何やでぐちゃぐちゃだけれど、留三郎もひとつ頷いて、柔らかな表情を見せてくれた。それを目に焼き付けるようにして、ぱちり、ゆっくりと瞬きをすれば、もうそこに留三郎の姿はなかった。

「……馬鹿」

一粒涙が落ちるのと一緒に口から零れた文句に、返される言葉がある筈もない。しんとした部屋は、世界から取り残されたようだった。後で伊作に電話を掛けよう、きっと彼も同じ思いを抱いているだろうから。ただもう少しだけ、ひとりで考えていたかった。

私は夕日が沈むのを待って、窓へと向かう。留三郎がいつでも入れるように、ほんの少しだけ開けていた窓。そこをがらりと音を立てて開けば温い風が押し寄せて、涙で濡れた頬を慰めるようにふわりと撫でていった。


×
- ナノ -