背比べ

深月にはひとつ年下の幼馴染みの少年がいる。
隣り合う家に生まれたふたりはいつも一緒だった。互いの家を行き来し、木の実や山菜を取りに出掛け、いろんな出来事を分けあった。少年に手を引かれて野山を駆け回り、道に迷って泣きそうになる少年を慰めるのは深月の役割。今度は深月が手を引いて村への道を歩く。自分は泣かないように気丈に振る舞う姿は本当に少年の姉のようだと村の人々に思わせた。その認識は少年が泣かなくなっても消えないままで、それが不満だったと少年は後に語る。それでもふたりはいつも一緒に笑いあっていた。少年が遠くの学園に、入学するまでは。
少年の名は、神崎左門という。



思うに、村の人々は私のことを買い被っているのだ。深月は溜め息を吐き、空を仰いだ。木々の枝葉が重なりあい、強い日差しを柔らかくして暖かな光を深月に降らせていた。
暖かな日でよかった、暑かったり寒かったりしたら、もっと心細くなっていたから。
はぁ、ともう一度大きな溜め息を吐き、深月は掛けていた岩から腰を上げた。腕に抱いた籠には採ったばかりの山菜が盛られ、その量といったら食い盛りの少年も満足するだろうほど。つまりそれは幼馴染みである左門のためのものであり、深月は今日帰ってくるという彼に振る舞うため山菜を採りに山に登ったということであった。
他に山菜を採りに来る村人のことを考えて少し奥まで来たのが悪かったのだろうか。けれどもっと麓でこんなに採るわけにもいかなかったし。そう悩めど後悔は先に立たず、今さらどうしようもないことだと己を奮い立たせて、歩き出すために辺りを見回した。

「とりあえず山を降りるんだから、傾斜を下っていけば……」

右に行くか左に行くか。とりあえず人が踏み固めたであろう道を外れなければ何とかなる筈だと考えて歩き出した深月は、いわゆる迷子であった。

幼馴染みである左門は村でも方向音痴として有名であるが、それをいつも連れ帰っていた深月もまたなかなかの方向音痴である。
『決断力のある』とまで言われるほど重度の方向音痴だった左門の陰に隠れてしまって、親しい村人でもその事実を知る者は少ない。しかし知っている者が山に行こうとする深月を見つけていたら、止めるかついていくかしたであろうほどには方向音痴だった。方向音痴の自覚はあるし、小さな村の中ならば迷わずにいられるが、山で迷子になってしまったのはその大雑把な性格が災いしたのだろう。
深月は坂道を降りながら、こんなときに左門がいればなぁ、と息を吐く。左門と一緒だった頃に何処に迷いこんでも村に辿り着けたのは、左門のお陰に他ならない。迷子になった左門にどちらへ行けばいいのか訊いて、その反対を行けば自然と辿り着いたのである。それを学んで実行し続けただけであり、『しっかりした姉だ』と囃される理はこれっぽっちもなかった。買い被りすぎなのだ。
しかし、無い物ねだりをしても仕方がない。早く帰ってご飯の用意をしてあげないと。そう深月は少し焦りを見せ始めるが、やはりそう簡単に帰りつけるわけがない。思いのままに進んでも、思いとは逆に進んでも、いつの間にか見覚えのある場所に出てしまっていた。
ああもう、と苛々しながら踏み出した足に、「痛っ!」うっかりと小枝の棘が刺さってしまい泣きそうになる。それをぐっと堪えるのは気丈な姉と言われた自尊心のため。左門といつも一緒だったあの頃のままでいたいという子どもの我が儘のような願いのため。適当な岩に腰掛けて棘を抜き手拭いで簡単に処理してしまうと、深月はまた歩き出した。歩き出そうとした。

「っ……!」

足底から走り抜ける痛みを、奥歯を噛んでぐっと堪える。たかだか小枝を踏んだくらいでこんなに痛むなんてと舌打ちして、じわりと浮かぶ脂汗を拭い、それでもどうにか傷口を触れさせないよう気を付けながら足を出して。
それでもまだ、どれだけ歩いても村は見つからず、再度休憩にと腰を下ろしたところで我慢は限界だった。

「左門……」

昼過ぎにはいつも帰ってきたから、もう帰っているだろうか。いつも村の入り口で迎えていたから不思議に思っているかもしれない。心配しているかも、しれない。そう考えたらじわりと浮かぶ涙を止めることも出来ず、ついに一筋が頬を伝った、そのときだった。

「深月!」

木々の間を走り抜ける声に、深月ははっとして顔を上げる。待ち望んだ声。左門の声。「深月!何処だー!」確かに名前を呼ばれ、深月は涙の跡を拭って「左門!ここよ!」震わせながらも大きな声を発した。
がさがさと茂みを分ける音。「こっちかー!」段々と、確かに近付いてくる声に応えていると、目の前の低木が大きく揺れた。

「深月!大丈夫かっ?」
「さ、もん」

顔を出したのは幼馴染みの少年だった。前の休みに見たときより少しだけ子ども特有の丸みを失った、けれど当然見間違えることのない大切な存在。心配そうに眉を下げていた左門に頷いて見せれば、彼はほっと息を吐き出した。
「どうしてここに?」問えば左門は唇を尖らせる。「村に着いても深月がいなくて、山に行ったって聞いて飛んできたんだ」素直に心配したんだと告げる幼馴染みに深月は嬉しくなって思わず抱きつこうと腰を上げる、が、足底の痛みにぐらりと体勢を崩した。左門が支えることで転倒は防いだが、「怪我をしたのか?」すぐに座らされ深月は残念そうに眉を寄せた。

「棘が刺さったのか。深月はお転婆だからなぁ」
「棘が刺さったのとお転婆は、関係ないよ」
「とにかく手当てしないと。えーと、まずは傷口を洗うんだっけ。それから薬を塗って……とにかく水がいる!だが僕は持ってない!」
「私もない」
「つまり村に帰らなきゃいけないわけだな!」

結局そうなるのか、と苦笑が漏れる。けれどもう不安も何もなかった。左門がいる、それだけで深月が心配することは何もない。
僕が背負うから、という左門の言葉にありがたく甘えて、その背におぶさる。そのしっかりとした足取りに、小さかった筈の左門に成長を感じて深月はくすりと笑い声を零した。

「村はどっちだと思う?」
「あっちだ!」
「じゃあ向こうに行きましょ」
「そうか?分かった!」

同時にじわじわと浸食する寂しさは見ないようにして。

道が分かれる度に左門に問い、そうでないときはただただ話をする。さっきの手当てのことは学校で習ったのかと訊いたら友達からだと返され、いい友人と過ごしているのだなぁと安心もした。委員会で夜通し算盤を弾いたり、縄で繋がれたりという話を聞いたときは少し心配にもなった。けれど楽しい日々を送っているのだと思うと深月は自分のことのように喜んで、また少し寂しくもなる。
左門は長期休みの度に帰ってくるけれど、学校で過ごしているときの方が楽しいんじゃないか、とか。今日はこうして探しに来てくれたけれど、いつかは忘れられてしまうんじゃないだろうか、とか。ずっと一緒にいられなくなったときからの不安が、寂しさとなって深月に纏わりつく。

「左門」
「どうした?」
「大きくなったね」
「本当か?深月より?」
「それは、どうかな。後で背比べしよう」
「ああ!」

左門が成長するのは嬉しいけど、あまり大きくならないでほしいなぁとも思う。さっきからそればかりだ。左門が大きくなって、全然知らない人みたいになってしまったら嫌だった。置いていかれるのは嫌だった。

「左門が大きくなったら、もうお姉ちゃんには見られないかも」
「僕はそうなってほしい」

だから、冗談めかした言葉への返事にそう言われたときは、息が詰まった。「どうして?」なんとかそう聞き返すが、左門の言葉が頭の中をがんがんと反響している。当然笑顔を作れるわけもなく、左門に背負われていてよかったとそんなところだけ安堵する。
だって、と左門は気付いた様子もなく返答を始めようとするのを、深月はごくりと息を飲んで覚悟した。

「僕がいつまでも深月の弟みたいだと、結婚しても夫婦に見られないかもしれないじゃないか」
「……左門、私と結婚するの?」
「え。してくれないのか?」

想定外の答えに思わず問うと、ぐるりと左門が振り返ろうとした。その背から落ちそうになり慌てて左門の肩を掴むと焦った声で謝られる。
それでも顔だけ振り向いた左門は不安げな顔をしていて、だから深月は自然と笑顔を浮かべていた。一緒にいたいと願っていたのはひとりだけじゃなかったのだと嬉しくなった。別のかたちで一緒にいてくれるつもりなのが、とてつもなく嬉しかった。

「……する。約束よ?」
「約束してなくてもその気だった!」

言い切る左門に、纏わりついていた寂しさが溶けていく。

遅くなったけれど、山菜は夕飯にでもしっかり料理してあげよう。そんなことを考えつつ、話をしながら左門の背に揺られていけば、やがて村が見えてきた。あともう少しというところで、ああっ、と左門が声を上げる。どうしたのと問う前に左門は首を回して振り返り、にかりと満面の笑みで深月を捉えた。

「すっかり言い忘れてた。ただいま、深月」
「……そういえば、私も。おかえり、左門」

家について手当てを施されながら『最初にただいまを言いたかったんだ』と聞かされて胸をときめかせても、その裏で不安や寂しさが生まれることは、なかった。


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