見ない振り

潮江文次郎がそれを見かけたのは昼過ぎのことだった。
同級の七松小平太がくのたまと保健室近くの濡れ縁に並んで座っていた。見て見ぬ振りをすることにしたのは、万が一にも小平太の訓練に付き合わされるわけにはいかなかったからだ。
この日の文次郎には予定があった。町に行き委員会の後輩たちに団子を買ってやる予定が。ちなみにこの予定は食満留三郎と勝負していたとき何かのはずみで約束を交わしてしまったらしく、後輩たちが期待しているなか約束を違うわけにもいかず、たまには労ってやるかと思ってのことである。

さて、そうして後輩たちを連れ町に行き、彼らの腹を満足させた文次郎は、学園へ戻って早々眉間に皺を寄せた。視線の先には昼に見た二人の姿。場所も同じ。しかしながらその体勢が違った。
胡座をかいた小平太の膝に、頭巾に覆われていないくのたまの頭。目を瞑り一定の間隔で上下する肩を見るに、彼女は寝ているようだ。小平太は微動だにせず、横になったくのたまに視線を注いでいる。
小平太の膝じゃ寝心地はよくないだろうなと文次郎は考え、いやそうじゃないと頭を振る。どうにも小平太の様子がおかしい。

「おい、何してんだ」

気になって声をかければ、大袈裟なまでに小平太の肩が跳ねた。勢いよく顔を上げて、まんまるの目で文次郎を捕らえる。「しーっ!」と人差し指を口元に立てるが、その声の方が五月蝿いぞと指摘してやるべきだろうか。

『これは、深月が、実習続きで疲れてたらしくて。ちょっと膝貸してっていうから。寝たのもついさっきで』

わざわざ矢羽音で事情を説明してくる小平太に、文次郎の普段から難しい顔が呆れの色を滲ませる。くのたまの名前は深月と言うのか、どうでもいい。
聞いてもないのに言い訳めいたことを並べ立てる小平太に、「もういい」文次郎は声を潜めて制止をかけた。個人のくのたまがどれだけ疲れていようと文次郎には関係ないし、小平太が膝を貸す理由だってどうでもよかった。文次郎が気になったのは小平太の挙動が不審だったことで、その理由は彼女を起こさないため。それだけ分かれば充分だった。

『文次郎!待て、待って!』

立ち去ろうとした文次郎を、しかし小平太が引き留めた。文次郎は億劫そうに『なんだよ』彼に合わせて矢羽音で返す。柄にもなく狼狽えている小平太に若干引き気味だった。

『こ、これ、どうしたらいいんだ?』
『知らん。邪魔なら起こせよ』
『せっかく寝てるのに!』
『じゃあ枕になってろよ』
『だ、だが、こんなの、生殺しだ!』

「はぁ?」

声が漏れたのは仕方がないと思う。
じっとしていられないと言うならまだしも、生殺しって。たかが膝枕(と言ってもいいものか)で生殺しも何もないだろう。
苦虫を噛み潰したような文次郎の顔には気付かないのか、小平太は続ける。

『なんかいい匂いがする髪を撫でたいし、やわらかそうな頬に触れたいし、でも何かしたら起こしてしまいそうで、あと、口も吸いたいけど体勢的に無理そうだし』
「もういい黙れ」

級友の欲求なんて聞きたくもない。矢羽音を用いるのも面倒で、途中で遮る。
人目につくところなのが心配ではあるが、万が一にも色事が始まりそうになれば保健室から伊作か新野先生が止めに出るだろう。これ以上関わっていてはお互い時間の無駄になる、と文次郎は呼び止める小平太の声(正確には矢羽音)を無視することにした。

「……とりあえず、そんなとこで問題だけは起こすなよ」

膝に頭を預けたままの深月がうっすらと目を開いて笑っていたことには、やはり気付かぬ振りをして。


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