君は紅茶を入れる天才だったんだね | ナノ









 気がついたら、何もかもが普通の光景になっていた。それは元から存在しなかったかのようにいつの間にか僕の前から消え、血痕一つ残さず消えた。肺に満たした煙を灰色の空へ吐き出すと、それは彼のように宙へ霞んでいった。
「…なんか、」
 なんとなく、なんとなく口寂しい。タバコを咥えているのに、と自分が思ったことに対し首を傾げながらも何か口にするものは、と辺りを見渡した。目に入った時計はもうすぐ日の出の時刻を差している。また眠れなかったらしい。そういえば、いつものマグカップにコーヒーが入ったままだったかもしれない。椅子の背もたれに背中を預けながら中身も見えないそれを手に取り口に流し込んだ。
「―――…ッ、」
 仄かな甘味と渋みに、心臓がドクリと脈打つ。これは、コーヒーじゃ、ない。鼻に付くこのヨーロッパの地の匂いは、いつも嗅いでいるあの香ばしい匂いとはどこか違った気品を纏わせていた。
 彼がその存在を消し去ったあと、何度かあの味を懐かしく思うことがあった。もう一度あの味を堪能したくて、あの香りを楽しみたくて、友人の家を訪れ入れ方を習ったりもしたのだがどうしてもあの味にならない。そのうち難しい工程の全てが面倒になり途中で投げ出してしまったのだと、マグカップの中の紅を覗き込んだ。どこかくすんだそこに情けない自分の顔が映り込み、気分が悪い。一気に飲み干して机の上に投げ置いた。
 フラフラと左右にぶれる身体を抑えながら立ち上がって隅の方で静かにその存在を主張する缶を掴んだ。確か、まだ中身は残っていた、はず。
『ああ、一度にそんなに食べたらすぐになくなってしまいますよ、先生』
 この地の言葉はなかなかこの身に馴染まなかった。意味のわからない英字の並ぶ缶を開ければ、ふわりと甘い香りが漂う。彼はよく、紅茶と食べると美味しいですよと言ってこの缶を自分へと差し出してきたのだった。
 先生はクッキーはお嫌いですか?
 その缶の中の洋菓子を手に取り口に含んだ。なんだか、少ししけてる気がするよ。
 ねえジョージくん。僕ね、上手く紅茶が入れられないんだ。あんなに美味しいと思ったのに、今じゃちっとも思わない。君ならその理由がわかるだろうか。

「もう一度、君に会いたい」
 灰色の雲の隙間から差し込んだ淡い光が、彼の視界を歪ませて魅せた。