その光はきっともう届かない | ナノ
中学生設定。しまねこのようにみえるけど志摩さんと子猫さんまじ家族。あいもかわらずしますぐ。
(pixvに掲載したものです。)















「猫!」
 そう短く自らの愛称を呼ばれて顔を上げると、隣のクラスの勝呂が扉から顔を覗かせていて、子猫丸は立ち上がって軽く会釈をした。おはようございます、坊。大股で歩み寄って来る彼に挨拶をすると、おん、オハヨとぶっきらぼうな返事が帰ってきて子猫丸は笑った。
 何の用事なのだろうかと思いながらも彼が言い出すのを待っていると、席まで辿り着いた勝呂がキョロキョロと教室を見渡しはじめた。彼は自分ではない誰かを探している。
 すぐに答えに気付いた子猫丸が、どないしはりました?とわかりきった問いを投げかければ、勝呂はアーと唸ったあとに、志摩、まだ来とらんのか。とその名前を口にした。
 ギクリと背が強張る。それを悟られないように鞄の中から教科書を取り出しながら今日は休みみたいですよと間延びした口調で告げると、ハ?と机の上に置かれていた勝呂の拳に力が入った。
「何で休みなんや。あいつこの間も休んどったやろ。サボりか。」
「さぁ…僕にもようわからんわ」
 えろうすんませんと顔を上げた子猫丸を、勝呂の疑心溢れた瞳が睨みつけた。彼は子猫丸がその休みの原因を知っているのでは、と疑っているのだ。
 彼は昔から人の変化を見抜くのが得意であった。そして、子猫丸自身はその嘘を突き通すことが余り得意ではない。
 ささ、坊、授業始まりまっせ。
 そのまま笑顔を崩さずに教室の前方に掛けられた時計を指差す。時計へ視線を向けて勝呂がホンマやなぁと興味なさ気に呟いた。
「突然押しかけて堪忍。じゃあな、猫」
 俺今日も部活あるさかい、待っとらんでええから先帰っとれ。そう下手な作り笑いを見せた勝呂が軽く手を上げて子猫丸の教室を後にした。その後ろ姿を見送り、罪悪感と安堵にほっと胸を撫で下ろす。チャイムの鳴り響く教室で、子猫丸は一人溜息を吐いて窓際のぽっかり空いた席を見つめた。


 子猫丸と勝呂ともう一人、志摩は少々ややこしいが所謂幼なじみである。幼い頃から行動を共にし、もしかすると両親よりもお互いを理解しあっているのかもしれないなんて思ったりもする。
 しかしそんなものはただのまやかしでしかない。彼等はまだ幼い中学生である。人格形成からまだ幾何も経っていないのだ。彼等は親のそれとは違うまだ新しく弱い不安定なものでつながっていた。
「志摩さん、入るえ」
 帰宅し、制服も脱がぬまま早々に子猫丸はその部屋へと向かう。声を掛けても何の物音もしてこないその襖を遠慮なしに開けた。
 その部屋に入り、ぴしゃりと戸を閉じると、部屋の中は外の明るさとは反比例して薄暗かった。どことなく重い空気に眉をしかめて、子猫丸は膨らんだ布団の脇へ腰を下ろす。
「子猫さんおかえり」
 辛うじて見えたふわふわの猫毛がぼそりと呟いた。その言葉にただいまと短い言葉で返す。
 せっかく顔を見に来はりましたのに、志摩さんはそのまま僕とおしゃべりする気ですの?
 身体を丸くして頭まで布団を被り身動きさえしない志摩に棘のある言い方をすれば、堪忍なぁといつもと変わらない調子の口調が帰ってきて、志摩が布団をめくり半身を起こした。
 おかえり、子猫さん。もう一度そう言って笑った志摩は制服のままだった。外傷は見られなかったが、目の下の隈がやたらと彼を窶れさせて見えた。
「ただいま、志摩さん。」
 こちらも出来る限り優しく微笑んで返事を返すと、志摩の虚ろな目が鈍い光を発した。
「坊、心配してはりましたよ」
 坊、とその名前を発した瞬間、志摩の身体が強張った。彼が得意としているはずの作り笑いもどこか歪で、何も返せずにいる志摩にこちらも言葉を続けずに志摩の動揺が落ち着くのを待った。部屋には重い沈黙だけが滞る。
 ちらりと盗み見た志摩の拳の腫れに、子猫丸は胸を痛めた。ああ、このお人はまた、理不尽で、それでも信仰的な制裁を下してきたのか。子猫丸はその未だジクジクと痛むであろう拳に、自らのポケットから取り出したハンカチを宛てた。

 幼い頃から、志摩は勝呂に言えない、それこそ背徳的な行為を繰り返していた。子猫丸がそれを知ってしまったのは偶然だった。泣きながら腫れ上がった頬を抑える少年と、その少年を冷ややかな表情で見つめる、少年。
 無表情な彼の拳はとても強い力で握り込まれ、小刻みに震えていた。誰だ、と子猫丸は思った。見た目は確かにいつも一緒にいる彼には違いないのに、そこに佇む少年が、まるで別人のように思えて、子猫丸は志摩さん?と疑問符付きで彼を呼んだ。
 大袈裟なくらい肩を跳ねさせこちらを振り返った少年は、子猫丸を見るなりふにゃりと表情を崩した。あいつな、坊、馬鹿にしてん。だから俺がな、な。そう言って志摩が子猫丸に駆け寄ってその肩に額を擦りつけた。
 見んといてや。そういう彼の声は震えていて、幼心に嗚呼、泣いとるんやな、と思った。無意識に彼の背へ腕を回し、背中を撫でた。
 その時そこを通りかかったのは偶然だったが、なんらかの力が働いていたとしてもおかしくはない位、絶妙なタイミングだった。神はきっと、彼の心が、その優しい彼が壊れないように子猫丸を呼んだのだ。人はそれを必然と呼ばずに何を必然と言うのだろうか。

「せやかて、今あん人に顔向け出来るわけないやろ」
 志摩が喉を鳴らして弱々しく笑った。俺、未だにダメやねん、とハンカチを落として志摩が自分の掌を見つめる。この俺の手に、知らん奴の血がつくんやで?
「俺、自分が恐いわ」
 そう言って俯く彼があの時のように泣いている気がして、その背を撫でる。志摩さんがやらんでも、ええんやないの。そう優しく言えば、じゃあ誰がやるんや、と志摩が身体に力を入れた。
「そんなん、俺がやるしかないやろ」
 志摩が拳を握りしめ、片方の手をその上に重ねた。固まりかけた血液がじわりと滲んだのを子猫丸が苦い目で見つめ、志摩さん、と声を掛けるが背を震わせる志摩には聞こえていないらしい。
 そんなん、俺がやるしかないやろ。
「俺が1番愛しとるんやから」
 その言葉に子猫丸は背を震わせた。志摩の背はもう震えてはいなかった。上げたその顔には確かな決意が満ちているのに、その瞳はどこも見ていない。
 次の瞬間志摩の瞳からボロボロと零れた涙を見て、子猫丸は阿呆、と呟いて抱きしめた。俺阿呆やもんとあの日のように肩口に額をこすりつける志摩は、あの時と何も変わっておらず、そして自分も、相変わらず何も変わっていなかった。
 僕は困っている家族すら救えない。
 何も出来ぬまま、子猫丸もまた双眸を閉じた。自分の身体は彼を包み込むには余りに小さかった。


 あの時僕は彼に何が出来たのだろうか。壊れていく彼を繋ぎ止めるには力不足で、それを彼の思い人に伝えることなどとても出来なくて。
「俺、志摩が好きやねん」
 嗚呼、どうしたらよかったのだろうか。彼等はお互いを思い合っていたのに、僕は何も出来なくて。
「最近、坊が一緒に居るの、あれ、彼女なんやろうか、子猫さん、なあ」
 他人の体液をあれほどまで恐れていた彼が、君が、どうしてそこまで笑顔で人をいたぶるようになってしまったんだろう。優しかったはずの君が、優しい君が、どうして。
 沈んでいく。子猫丸の意識がどぷりとそこのない沼へと沈んでいく。耳も聞こえなくなって、最後に捉えた彼のその口が紡ぐのはやはり、

『坊、愛しとる』

 溺れてしまったのは可哀相な志摩だった。子猫丸のその手も、最早彼を救えない。救えるとするなら、その手はきっと―――