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眠れない一夜が明けた。
どんな問題が降りかかろうとも、日常は恙無く続かねばならない。ナツメにも仕事がある。

戦争が終わったことで、多くの変化があった。まず院長が失踪した時点で崩壊しかけていた議会は、四席あるうち二人が死亡したため解散状態となった。そのため、魔導院内では救国の英雄と名高い0組とその後見にあたるクラサメが実質的な決定権を持つ現状である。つまりナツメやクラサメたちがほぼ全権を握っている。信用のおける武官、候補生たちに順次仕事を振り分けてはいるが、依然として0組の比重は重いままだ。

されど、国民も武官も文官も候補生らも、0組を過大評価しすぎだとナツメは思っている。
彼らは確かに英雄だし同年代の子供とくらべてあらゆる面で優秀だが、国を動かすのはそう簡単なことではなかった。ナツメもできることをしなければならなかった。

まさかこの状況で暗殺して回るわけにもいかないので、ルルサス軍の侵攻を退けるためにほぼ壊滅した4組7組の残存候補生を束ねて治療を行っている。もうケアル魔法も使えない以上、半ばおざなりにしてきた医療知識をかき集めて対処せねばならない。数の足りない包帯と鎮痛剤を延々発注し、時には医師として候補生を派遣する。ようやく築かれ始めた各都市とのネットワークを一番利用しているのはナツメかもしれなかった。

クラサメとは仕事の話しばかりだ。彼は彼で、烏合の衆となった軍を預かり何人かの武官とともに派兵を総括している。食糧の山をいくつ築こうが、国民の腹を十全に満たすにはまだまだ数が足らなかった。それを放置すれば、自分や家族を飢えから守るべく盗みや暴動に走る人間が必ず出ると踏み、治安維持を第一として動いていた。多少の小競り合いはあるも、概ねうまくいっている。
そして、薄汚い話ではあるが、みんな等しく飢えることでもともと敵同士の三国は協調路線にあった。ナツメも、さすがに候補生を白虎や蒼龍に送り出しはしなかったが、傷の処置について問い合わせがあれば他国でも対応した。

忙しい日々だった。
ナツメがせわしなく駆けずり回るさなか、ナギは四課を潰そうと奮闘していた。ナギより上の役職の人間が、騒動のさなか何故か揃って突然死したので好き放題である。
前線になんて一人も出てないのにおかしいねとにこやかに言ったらナギが能面のような顔で見返してきたのでナツメは黙った。そして両手の指で足りる数となった残存四課で頷き合い、空気を読むことにした。あるいはそう取り繕った。
空気を読むことに賛同しなかった一人が、四課がなくなったらナギが一番仕事ないんじゃない?と呟いた結果ナイフが壁に刺さり寮のカーテンが全部裂けソファがひっくり返った。実は気にしていたらしいナギであった。

変化が正解かどうかは別として、何にせよ、ナツメたちには抗いようがない現実だ。ただ少なくとも、戦争よりはマシなんだろう。
このままナギが変化を望んでその通りになったとしても。ナギがいずれ諦めて、四課がまた諜報して稼ぐ機関になったとしても。ナツメにはどちらでも、構わない。


ともあれそんな中、元ルシであり、医務室を統括し、かつ四課の武官であるナツメはまさしく渦中にいるといっていい。特に、避難民への救難物資の手配やらは四課のツテで行っていたから、急にナツメが仕事を離れるわけにはいかなかった。四課とのつながりがなくなるのはまずいのだ。

まあそれでも、妊娠という言葉を聞いた瞬間から更に吐き気が増したナツメを思いやって、ナギがいくらか肩代わりしてくれたので、だいぶ楽にはなった。例えば今日は、武装研に薬を発注するだけだ。

ナギがナツメにばかり甘いのは今に始まったことではないけれど、自分が彼に提供できる何かへの見返りにしては大きすぎる気がしている。結局、ナギも己と同種の人間であるということなのだろう。囲い込んだ相手に対して、異常に甘い。
あれは弱点だな、とナツメは余計なことを考える。ナツメが彼の傍からいなくなる前にあの癖を直させないと、あれもひどく恨みを買っているのだから殺されかねないと苦笑してみたり。


そうして、ナツメが武装研で薬を発注し終えて、部屋に戻ろうと大魔法陣に代わる急ごしらえの通路に続くドアをくぐろうとした、その時だった。

「う……っ?」

突然、きた。あの吐き気が。最近はむらがあって、平気な時間も時々はあったのに。

気持ち悪さに耐え切れず、ナツメは嘔吐感混じりの息を吐いてドアの入り口に凭れてしまう。目眩がする。倒れそうだ。
と、ちょうどすぐ近くにいたムツキが近づき、「なんか調子悪いのか?」と下から窺い見るようにして聞いてきた。大丈夫だと笑い返したが、ナツメの顔色は相当に悪かったらしく、ムツキの顔はくしゃりと泣きそうに歪んでしまう。

「ボクには話せないってことだな!もういいもういいっ」

「え、いや、そういうわけじゃなくて、」

しまったよく知らないけどこの子はそういう子だ。対応ミスった。

「そうやってボクだけ除け者にするつもりだな!ボクを無視していじめて追い出すつもりなんだー!」

ムツキが騒ぐのを聞きつけて、武装研の反対側で話し込んでいたセブンが気遣わしげな表情でこちらへと近づいてくる。まずい、と直感的に思った。彼女は他人の機微にとても敏いからだ。
ナツメは己の不調を知られたくなかった。0組に面倒をかけるのは、嫌だ。
好きな人が増えると、嫌なことが増える。面倒をかけるのも、心配をかけるのも、さよならも嫌だ。ナツメは我儘になった。

慌てて武装研を出る。そしてそのまま、魔導院内をぐるぐる歩いて、結局来たかった場所に来てしまった。

医務室。クラサメはまだいるはずだと聞いた。カヅサが一晩は絶対安静を言い渡したそうだから。
ナツメがそっと覗き込むと、クラサメだけではない、カヅサとエミナも中にいた。三人ともナツメには気づかず、何やら話し込んでいる。時折楽しそうに笑う声に、クラサメのものも混じる。

「……あの時だって、クラサメくん一人大怪我したよねぇ?」

「この人意外なくらい考えなしだからねー」

「やかましい、カヅサは動かなすぎるんだ」

ナツメはそれを、壁の一枚こちらで聞いている。陽光の中に溶ける笑い声は妙に遠く感じた。
やはり、あそこには行けない。

きっとクラサメもカヅサもエミナも、戦争の終わった世界で苦しむんだろうとふと思った。彼らだって、各々秘密と過去を抱えている。それでもそれらとどうにか折り合いをつけながら、罪を贖いながら、歩いて行くんだろう。

ナツメにはそれすらできない気がしていた。犯した罪が大きすぎて、どんなに手をつくしたって解決する日なんて来ないだろうと。命をどんな形で散らしても、誰も許してくれない。そんなことはどうだっていいけど、痼が心の裡にある。それが嚥下できず、消化できず、息苦しい。

ナツメはそっと、己の下腹を撫でた。もしもここに本当に、クラサメの子供がいたとして。
それをどうしていいかわからないのは、ナツメがこの先どうなるかわからないから。

四課の女たちからは女としての人生を半ば奪っておいて、そういう絶望を与えておいて、自分だけ子供を得るなんてことになれば。ナツメなんかの腹に宿った子供は、生まれながらにして恨みを背負うことになるだろう。
そんなの最低だ。ナツメはそれが、怖くて仕方がない。

今まで神をも恐れぬ振る舞いを、暴虐の限りをナツメなりに尽くしてきて何言ってんだという話だ。でも怖くて、ナツメが受けるはずの謗りを引き受けてしまう何かがここにいて、それがクラサメとの子供だなんて。

あまりにも怖い。

怖くて怖くて怖くて怖くて。
それから。

それから。
気づいてしまったこともある。
恐怖を見つめるのをやめて、目をそらしたって、怖いことは一つじゃない。


ナツメは、母になれるのかということ。

クラサメが記憶喪失なんてことになっていなくたって、妊娠なんて事態、ナツメはきっと参ってしまっただろうと思うのだ。

母親を知らないナツメが、母になどなれる日がくるか?

「……無理よ」

無理に決まってるわ。
ナツメは口の中でそう呟いた。壁をずり落ちて、床に座り込む。目を細めて頭を抱える。父親知れずに産んだ子供は、母に愛されても疎まれても、ナツメが母ではまともな人生など望むべくもない。

手に負えないことばかり、どうして私の上に降るんだ。いつもいつもいつも。
頭の中はふつふつ煮立っていた。妊娠への恐怖と、その先にある子どもへの恐怖が混在して、溶け合って、大きな恐怖に化けていく。



……本当は。本当はね。

四課に落ちてからずっと、クラサメのところに戻りたかった。足を踏み入れた瞬間からもう戻りたかった。抱きついて泣きたかったし、腕の中で眠りたかった。ただの女でいたかったし、彼の恋人になりたかった。

そうしなかったのは、いつでも戻れると思っていたからなのかもしれない。今更気付いた。その気になればいつでも戻って、クラサメと一緒に生きる道を選べるなんて、浅はかなことを。
それがいざ叶いそうになって、ようやく汚れすぎたことを知った。ナツメなんて女の人生に、クラサメを巻き込めないじゃないか。

「……ああ、もう、私ほんっと……」

考えがまるで纏まらない。全てかき消していく吐き気の中に、混濁して色は鈍る。
どんな窮地よりずっと今、ナツメは苦しい。ナツメは参っている。
今こそクラサメに全て投げ出してしまいたい。彼はきっとそれを許してくれた。ぜんぶ、ナツメがだめにした。

不意に目の前に、靴が並んだ。まっすぐ伸びる足から視線を上に傾ける。
ナギが、0組には見せない仏頂面で、ナツメを見下ろしていた。

足音に気づかないくらいナツメが腑抜けているか、ナギが足音を消していたか。多分両方だ。

「なにやってんだバカ」

「吐きそう」

「お前がアホなんで俺は泣きそうだよバカ。腹冷やすな妊娠疑惑、部屋戻るぞ。おら、連れてってやるから来い」

ナギが手を伸ばし、ナツメの腕を掴み無理やり引き上げる。肩を抱き込むようにして、前を向かせようとする。

「お前は本当にストーカーだな」

「うるせえバーカ」

「俺は知ってるから……そういうのも照れ隠しだと……天邪鬼なんだと……」

「本心から常にうるせえバーカと思ってるよ」

「ちくしょう、やっぱお前見捨てようかな俺。どう思う」

「今更見捨てたら最後の暗殺対象にしてくれるわ」

「そういうやつだから俺はお前が嫌いじゃねぇ」

息をするみたいに吐かれる軽口はナツメにいつもの調子を取り戻させた。ほんの一時でも苦痛から逃れられるのは純粋に嬉しかった。
そうして武官寮に戻るべく二人で歩き出した背中にかかる声があった。

「おーい、ふたりとも!」

「ん?」

ナギが振り返るのにつられて後ろを見ると、カヅサがぱたぱたとスリッパの乾いた足音をたてて追いかけてくるところだった。カヅサはナツメとナギの正面に立つや否や、ナギが支える腰に視線を落として顔を顰める。

「……ナツメちゃん、本当にこの子とは浮気とかあり得ないんだよね?」

「はあ?カヅサまで言う?あり得ないどころか吐きそうなんだけど。いやこれは冗談じゃなく吐きそうだわ今、オエッ」

「ここで吐くなよ……」

ナツメはナギの支えを解いて、壁に手をつき姿勢を保つ。カヅサはそれでようやく、表情をいつもどおりのうさんくさい微笑みに戻した。

「でもよかったよ、ここで会えて。探しに行く手間が省けた」

「何か用があったの?」

「クラサメくんのこととかね、話さないといけないと思ってさ。だって今はナツメちゃんが家族みたいなものでしょ?」

「ぶふっ……」

ナツメは結局崩れ落ちた。カヅサという男は地雷を踏むのがとても上手いのだ。今回もタイムリーな起爆である。しかも意識的にやるから手に負えない。
カヅサは笑いながらナツメの前にしゃがみ込み、声のトーンも落とした。すぐそこの医務室の、クラサメたちに聞こえないように。

「検査は可能な限りしてみたよ。クラサメくんが強硬に嫌がったんで直腸検査はしてないけど」

「誰でも嫌がるわバカ!何やってんの!?何の意味があるのそれに!?」

とっさに叫んでしまったナツメは悪くない。これに関してはカヅサが一方的に全部悪い。

「そんなわけで、頭に異常はなかった。強く打ったショックで一過性の記憶喪失を起こしてるんだろうね。ただこれがやっかいで、記憶がいつ戻るかわからない。今すぐにでも思い出す可能性はあるし、一年かけても戻らないかもしれない。さすがに一生戻らないなんてことはないだろうけどね……。……ただ、ナツメちゃん一人のことを忘れているみたいなんだよね。他の記憶は粗方あるみたいなんだ」

「それって……珍しい、んです?」

ナギが首を傾げて問う。ナツメは俯いて歯噛みした。専門じゃないし詳しくもないが、一過性の記憶障害なら己の人生全て忘れてしまったり、虫食いのようにあちらこちら抜けてしまうといったことが多い。少なくとも、たった一人に関してだけすっかり忘れてしまうなんて、ナツメの知る限り例がない。
記憶喪失そのものの例がないということは、記憶が戻った例もまた無いということ。

「……大丈夫だよナツメちゃん」

「え?」

「クラサメくんはほら、あれでとんでもない脳筋だから。どうせすぐ自力で思い出すよ」

「……カヅサって本当にクラサメのこと友達だと思ってる?ねえ?」

カヅサは内容がひどい割に優しい声音でそんなことを言う。紛れもなくナツメへの優しさがなせる行為だ。
ナツメは呆れながらも、少し笑えた。ナギといいカヅサといい、どうしてみんなこうも己に甘いのか。

「それじゃどうする?クラサメさんの記憶を取り戻すためにショック療法でもしてみっか?後ろから殴ってみるとか」

「カヅサの胸ポケットのペンで十七通りのやり方で殺してくれようか?何言ってんのもう」

「まぁショックを与えるのも意味はあると思うんだけどさ、クラサメくんの背後取れる人間がいま朱雀にいないから却下。方法は僕も探すから、一緒に考えよう。……ともかくクラサメくんは今日の夜から自分の部屋で生活できると思うよ」

「そう……わかった。ありがとう。じゃあクラサメの部屋から荷物運び出さないと」

ナツメがそう言うと、ナギとカヅサは一様に表情を曇らせた。クラサメの部屋から荷物を戻すということは、ある意味では諦めることに近い。積極的に記憶を戻させるのなら無理にでもクラサメの傍にいるべきなんだろう。
だがさすがにクラサメに対してそんなことができるバカは魔導院にいない。己のことを知らないクラサメ相手に恋人面をするなんてさすがのナツメにもできない。普通に無理。それ以外の死に方を頼む。

「ナギもカヅサも仕事あるでしょ、大丈夫だから戻って。私はせっかく仕事がないんだし、ちゃんと休んどくから」

「よしよし良い子」

「さすがに子供扱いはちょっと傷付くのよカヅサ、さすがに傷付くの」

「めいっぱい子供扱いしてもらえ、たまには。じゃあ俺こいつ送り届けてくんで」

「頼むよ、この子自分の限度とか知らないから。若いって言うよりいっそ幼いから。あとちょっと先天的にバカだから」

「やめて二人で虐めないで混乱する」

ナギが腕を取り、ナツメを引っ張っていく。カヅサと別れ、魔導院ホールに向けた道すがら、会話を切り出したのはナギだった。

「なあ、ナツメ。俺の勘違いだったら悪ぃんだけどな」

「なに?」

「もしかして、記憶なんて戻らなくてもいいとか思ってねぇよな」

「……なにそれ」

ナツメはとっさに苦笑を向けるも、見透かす視線が射抜くようにナツメを睨んだ。茶化すなと言われているのがわかって、ナツメは一瞬黙りこくる。

「……戻らなくてもいい、というよりは。戻らないほうがいいのかもしれないと思うわ」

だってクラサメは、あんなことを言ったから。
結婚しようなんて気の迷いを彼が思い出さなければいいと思うのは、ナツメが身勝手な人間だからだ。クラサメを愛しながらも、彼女は彼の意思を尊重できない。
だからいつも、何もかもがうまくいかないのに。

「お前、ほんっと……」

「だから、もし本当に、……妊娠、なんて事態になっているとして。そのときは……」

「ああ、待って待って、ナツメちゃん!」

ナツメが声を詰まらせたと同時、呼ぶ声がした。またぱたぱたと、スリッパ特有の足音がして二人は振り返る。カヅサが走って追いかけてきていた。
肩で息をするカヅサは、「言い忘れてたよ」と荒く言い、ナツメの耳元に口を寄せて言った。

「妊娠の検査もしないといけないから、体調がいいときにでも僕の研究室に来てくれるかい」

「……うん。わかった」

刻一刻、現実は迫ってくる。ナツメは己から逃げられない。
再びカヅサと別れ部屋に戻る数分間、今度はナギもナツメも一切口を開かなかった。









がらんどうの部屋に戻って、クラサメの部屋の鍵を持って出て、斜向いのドアを静かに押し開く。夕方に近い時間帯、オレンジ色に染まった部屋に人の気配はない。
足音を消して入り込み、鍵をテーブルに落とす。昨日の朝まではこのテーブルでコーヒーを飲んでいたと思うとなんだか泣きそうになるけど、感傷に浸ってもいられないので。

寝室に入ったナツメはクローゼットを開けて数少ない服や下着類を引っ張り出し、机に投げる。そういえばと、引き出しの一つに押し込んだままだった輝石も見つけて引っ張り出した。貴重品だからと、ナギが武装研に依頼して金の座金で鎖に止め、首に通せるようにしてくれている。ルシであった期間が短く、四課出身の経歴上あまり顔も名前もおおっぴらにしていなかった。元ルシであるナツメをきっちり利用する気満々であろう彼は、公の場に出る時身につけるようにとこれを用意してくれた。斯くしてナツメが言われた通りにしていたかどうかは、引き出しに押し込まれていたという事実から推して知るべしである。

輝石のペンダントを首にひょいと引っ掛け、そこで気付いた。そういえば、クラサメの部屋に生活圏を移す中で、あの遺品箱もこちらに持ってきていた。二人で一度中身を確認したんだった。
あれはどこにやったかと、決して物の多くない部屋で思った。確かあれもクローゼットの奥に、そう思うと同時。

「……何をしている」

「あっ……」

振り返るとそこには、寝室の入り口に立ったクラサメがじっとナツメを見つめていた。
冷たい双眸。知らないものを見るときの顔。彼は、ナツメが抱える服を見咎めたように目を細めた。

「お前、……本当にこの部屋で生活していたのか」

「え」

「カヅサとエミナがふざけているんだろうと思ったが……」

なるほど、あの二人がクラサメに説明したらしい。余計なことを、そうは思いつつも、あの二人がナツメのことを思ってくれてしたことだとわかっていた。
だから余計に、胸が塞ぐのだが。

「それで、私はどうやってお前を思い出せばいい」

「……クラサメだね。そういうとこほんと、……記憶なんてなくても、あなたはあなただね」

まるで思い出すのが自然なみたいに。普通は知らない女が恋人だったなんて言われたら不快感があるんだろうにさ。
ナツメは泣きそうな思いで笑った。不思議と涙は出なかった。

そして、私ならきっと、クラサメのいない世界では、クラサメを思い出そうとなんてしないんだろうと思った。
クラサメが最初からいない世界なら、きっと私はこの私になっていない。
でもこの人は、私がいなくても変わらずクラサメなのだ。私なんていなくても。
私はクラサメがいなかったらきっと名前を失って、心を失って、そもそも生きてもいないだろうけど、クラサメはクラサメなので、私なんて最初からいなくてもよかったのだ。

ああ、よかった。冷たい安堵が胸をさす。夜中の雨みたいに、とても冷たくて、はっとさせるような鋭さで、いつまでも肌の上に残る。

「思い出さなくていいよ。そんなこと頑張らなくていい。私は一人で大丈夫だから」

「……なら、その程度だったのか?」

「私はあなたを忘れないわ」

まともな応答になっていない、当てつけじみた言葉だ。少し後悔する。

だけど、その程度だったのか、って。
知らない、そんなこと。

クラサメの中にあったものがどの程度だったのかなんて。……そしてそれが、ナツメの中にあるくらい大きかったら、事態が少しでも変わったかなんて。

知りたくない。知りたくない。知りたくないのよ。


「とりあえず荷物は出しておくから、あなたは普通の生活に戻って。0組のこととか、戦争のこととかはだいたい把握できてるんでしょう?」

「ああ。……ところどころ、あやふやだが」

「私が関わってた部分が抜け落ちてるのかもね。でもきっと、支障はないよ」

私なんかいなくても、あなたは生きていける。

服の束を抱え、クラサメの横をすり抜けて、ナツメは彼の部屋を出た。背後で彼の部屋のドアが閉まった瞬間に遺品箱の存在を思い出してうなだれたが、もう戻る気にはなれなかった。

自室のドアを蹴り開けて、服はテーブルに投げる。奥のベッドに身を投げだして目を強く閉じた。
消えてしまいたくなるのはいつものこと。でももう、そういうわけにもいかなくなった。クラサメが好きで、0組が大事だ。彼らは戦争が終わってから、戦闘以外のことを学び始めた。それを見ているのが楽しい。
楽な道に逃げれば、ナツメを愛してくれる人たちをことごとく裏切ってしまう。それはいやだ。
嫌なことばっかりだ。みんなみんな、もう嫌だ。

嘔吐感に押しつぶされそうになりながら、少しだけ涙が出た。自分を哀れんでどうするのだと、目元を乱暴に拭って、ナツメは静かにそれに耐えていた。



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