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結論から言えば、耐え切れなかった。なんとか洗面台までは耐えたものの、コーヒーの混ざった胃液を大量に吐いた。
震える背中をナギが擦るのをどこか遠くに感じていた。たぶん、そうして欲しい相手はナギではなかったからだろう。
ともあれナギが支えてくれて、武官の寮へと戻る。少し久しぶりの自分の部屋はがらんどうとしていて、どことなく広く思えた。
小さなテーブル前の椅子に座るも、もう既に吐くものもないのに吐き気が止まず結局また洗面台の縁に両手を吐き、僅かな胃液ばかりを吐き出した。酸っぱくて苦い味が、咥内を占める。口をゆすいでも、すぐにまた吐き気がナツメを襲う。
「クラサメさんが記憶喪失……ねぇ」
吐き気をこらえながら大まかに事情を説明したところ、ナギは旧知の仲でしか感じ取れないほど僅かに顔を顰めて、それからずっとその顔のまま考え込んでいた。そして今も、吐いては口を洗ぎを繰り返すナツメの隣で壁に凭れ、時折呟きながら考える素振りを見せている。
「にしても、お前ホント死にそうな顔してっけど平気かよ?つうか……何でそんな突然具合悪くなってるわけ。いくらなんでもおかしくね、お前精神と肉体が直結し過ぎだよ」
「わかんない。そりゃショックだけど、吐き気が酷すぎて割りとそれどころじゃない……ああもう、なんなの……?突然なのよ、突然、クラサメが目覚めてすぐ、突然……うう、無理」
また突っ伏して、何度も吐く。全身が痙攣して、手指の感覚がなくなってきた。酷く寒い。胃が下から突き上げられるような不快感。
「落ち着いたら出てこい。俺、なんか持ってくる。この部屋何も食うもんとかねえだろ。メシまだなんだよ」
「そりゃ悪かったわね……うええ」
「そのまま吐いてろ」
ナギが言うだけ言って出て行くのを見送り、また吐いた。滲み出る涙が鼻先から伝って洗面台に落ちる。哀しいんだか苦しいんだかわからない。
誰だと聞かれた。誰だ、と。彼があんな、感情の篭もらない目を己に向けたことなど、今までに一度も。
どうして、どうして、何が起きて、苦しい、ああまた……何もかも落ちていく。ナツメの脳内にちらばった思考は一切合切意味を持たず、飽和するように消えていく。力みすぎて、洗面台を掴む指先が白んでいる。自分の顔が今どれほど白いかは考えたくもない。きっと幽霊のような色をしている。
吐いて、吐いて、まっすぐ立っていられなくなったナツメはシャワールームの床にぐったりと身体を横たえた。何日もこの部屋のシャワーを使っていないため床は既に乾ききっていて、赤いレンガが冷たく頭を冷やし少し楽になった気がした。このまま全て失ってしまいたい。……いやだ、もう何も失くしたくなんてない。何も、何も、何もよ。何一つよ。
そうじゃなきゃ何のためにあんなに必死で、戦って、自分は。
報いなのだろうか。高望みしすぎたのだろうか。彼が救われて、みんなが救われて、新しい未来を掴んで……自分もそこにいるなんて、過ぎた願いだと嘲笑する誰かがいるのだろうか。
それを因果と、その誰かは呼ぶのだろうが。
ナツメは今、こんなにひとりきりで、冷たい床に横たわっている。泥の水底に沈み込んで息など二度とできない気がした。
「……さむい……、」
声が自分のものとは思えないほど遠くで響く。意識が断ち切れそうな刹那、誰かがドアを開く音がした。
「ちょっと、鍵開いてるけど……ナツメちゃん!?大丈夫!?」
「……カヅサ?」
その声は酩酊にも似て沈むナツメの意識を浮上させた。彼はシャワールームに四肢を投げ出すナツメを見つけるや否や肩を揺さぶってくる。
ごろりと己の頭が転がるのを感じたナツメは目を開き、見上げた先の心配そうな目になんとか微笑みを返す。が、彼は目をより細め、ナツメを抱き上げた。
「いくらなんでもシャワールームで倒れるのはやめてよ、この時期じゃ凍死しかねないだろう」
「大丈夫だよ、なんか吐き気がして……」
「吐き気がって……実際吐いたんでしょ。胃液の臭いがするよ」
「そうね、いっぱい吐いた……何でこんな酷いことになってるんだろう私」
理系のくせに妙に鍛えているカヅサは難なくナツメを横抱きにして、危なげなく寝室に運び込む。ベッドに座って、ナツメは目を閉じ吐き気を押さえ込むように自分を抱きしめた。
それを見下ろし、カヅサは深くため息をついた。
「どうしてこんなことに……。食あたりとか?」
「そしたら同じもの食べてるクラサメだって吐くでしょ」
「じゃあ脳震盪は?君だって階段から落ちたんでしょ?」
「いいえ、クラサメが引っ張ってくれたから……私は、落ちなかった」
私が落ちていればよかった。そう思うのはいい加減身勝手だとわかっているから、口には出さなかった。カヅサはきっと怒る。
ナツメは何度も浅い呼吸をして、吐き気がゆっくり沈殿していくような感覚に安堵した。決して消えてはいないものの、嘔吐感は食道より下にある感じがした。今すぐ吐いてしまうことはなさそうだ。
しかし、脳震盪でもないのならこの吐き気の原因は?カヅサの言ったように、食品が腐っていたとか、そう言う可能性も否定しきることはできないが、今は冬だからやはり考えにくいのだ。知らない間に頭でも打ったかと思って頭をあちこち擦ってみるも、痛みはなかった。
であればやはり、……クラサメの言葉にショックを受けて?
ナギの言葉を思い出しながら己に呆れる。本当、どれだけ精神と肉体が直結しているのだ。
と、不意に、ドアが外から予告なく押し開かれた。
「おらーお前の親友ナギくんのお戻りだぜーい……あ?カヅサさん、なんでここに」
「ナツメちゃんがふらふら出てっちゃったから、0組に任せて出てきたんだよ。……ナギくん、君が持っているのは……菓子かい?ナツメちゃんは吐いてるから、そんなもの食べられないよ」
「ご安心を、全部俺のです。この部屋一切管理されてないのに小バエ一匹発生しねぇほど食うもんないんで持ってきただけですから」
「そ、そう……じゃあまあ、いっか?」
「とにかく、何か解決しました?吐き気の原因とか」
ナギは近くに倒れていた丸椅子を引き寄せ、閉じられた袋の口を開き始める。ナツメはそれが開ききる前に臭いを感じ取り顔を顰めた。なんて嫌な臭いか。……いいや、違う。嫌な臭いなどではない。0組の子どもたちだって喜んで食べる、手のひらにいくつも収まる小さな菓子だ。砂糖と小麦粉を使って作られたそれから、嫌な臭いなんてするはずがないのだ。
それなのに、ああ、吐き気がする。いつだったか、死体の腐敗臭をうっかり吸い込んだ時よりずっと酷い。
ナツメは慌てて転げるように立ち上がって、またシャワールームに飛び込んで洗面台にしがみつき吐いた。背中が震えて、ぼろぼろと反射的な涙がこぼれた。何だこれは。何なんだ?
やはり、気づいていないだけで頭を打ったのだろうか。それにしたってここまで嘔吐を繰り返すというのはかなり危ない。もしかしたらクラサメより重傷ということも有り得るか……それならいっそ、罪悪感が薄れるのだが。ナツメは吐き気の中でも自嘲した。
なんとかまた吐き気が収まるのを待ってから口を洗ぎ直し、ふらつきながらまたバスルームを出る。カヅサに言われてか菓子の袋を厳重に閉じ戸棚に仕舞いこんで不満気なナギと、口を半開きにし思案するように視線をあちこち彷徨わせるカヅサがそこにいた。
「どういうことだよおいー、俺腹減ったんだって。つうか飯食おうと思ってたのにナツメに連れだされたんだしここで菓子食うぐらい……」
「食べるんなら廊下で食べて、それから戻っておいで。ねえナツメちゃん、今お菓子の袋が開いた瞬間吐きそうになったよね?」
「うん、……もう吐くものなんて何も残ってないわ」
椅子をひいて腰掛けたナツメの言葉にカヅサは暫時黙りこくり、わずかに睨むような色を混ぜてナツメを見つめていた。
次に何を言うべきか、躊躇っているように見えた。
「頭を打っていなくて、食中毒とかでもないんだよね」
「多分……でも、ここまで嘔吐を繰り返すとなると、何かあるとは思うんだけど」
「可能性は、ないわけじゃないと思うよ」
遠回しなセリフに、ナツメは顔を上げてカヅサを見つめた。カヅサはさんざん逡巡したのち、頭を抱えた。
「ああもう、親友とその恋人のことでこんな話をすることになるとは……」
「な、なによ。怖いんだけど」
カヅサがこんな深刻そうな顔をするのは初めてだ。ナツメは戸惑い、視線を彷徨わせる。
ため息混じりに顔を上げたカヅサは、覚悟を決めた顔で言う。
「ナツメちゃん、妊娠してるってことは有り得ない?」
「……」
「……」
「……」
「……いやいやないわ、有り得ないわ、絶対ないわ!」
「有り得ねえ有り得ねえ、それだけは有り得ねえ!」
ナツメとナギは顔を見合わせて半笑いになりながら何度も首を横に振る。そう、有り得ないのだ。ナツメが妊娠?そんなバカなことが。
「何が有り得ないんだ?白虎ならいざしらず、朱雀に避妊法なんてほぼないんだよ?……本当嫌だな、僕でも嫌だよこんな話……」
「私も嫌だよなんでこんな話するの……。なりふり構わなければ、避妊は可能だよ。本当になりふり構わなければね」
「そんなことできるわけが、……ナツメちゃん、嗅ぎ回られたくなければちゃんと説明してよ。どういうことなんだい」
「四課の女は妊娠しないんですよ、ナツメの功績です。……この話おもっくそ機密なんで、誰にも言わないでくださいよ。物理的に首が飛びますからね。……話してやれ、ナツメ」
「い、いやよ!カヅサ絶対怒るわ、絶対怒るもの!」
「いいから話して、怒るかどうかはそれから決めるから」
「絶対に怒らないって言ってください」
「いやそこまで言うんなら多分怒る。怒るけど、話さないんなら嗅ぎ回る。そしたら僕の首が飛ぶんだよねナギくん?」
「……一本取られたなナツメ」
ナギが呆れたように肩を竦めた。もう隠してはおけないという意味だ。
ナツメの罪なればこそ、沈黙してカヅサを巻き込むわけにはいかない。
「……私が四課に堕ちた時……4組の技術に目をつけられて」
「だろうね。それで?」
「諜報員が妊娠しないように……したの。私含め……全ての諜報員が、妊娠できないように」
「……は、」
カヅサはぽかんと口を開けて硬直した。そして、両手を強く握りしめて動かないナツメをまじまじ見つめて「驚いた」とつぶやく。
「そうね。4組の能力を私は……」
「そうじゃない。四課って、そこまでするんだね。……そんなことまでして、戦ってたんだね」
「……そりゃ気付くのが遅いぜ。まあ、普段馬鹿やってるやつのほうが多かったし、わかりづらいけど、俺たちはどんなことだってしてきた。強制的に妊娠できなくする、なんて、エグさで言ったら別にひどいってもんでもねぇよ」
ナギは机に肘をついて苦笑した。ナギは主に魔導院内の不穏分子についての調査が仕事であり、つまりナギに目をつけられたら誰も生き残れない。それがようやく過去のことになりつつある現在だからこそ、こんな話ができている。
「子を孕んだら、どんな女も人生を考える。少なくとも、四課で諜報員を続けられるやつは少ない。最悪の場合乳飲み子抱えて逃亡を図るわけでして。そしたら、事情の如何に関わらず俺たちはそいつを殺さないとならない。当然誰もそんなの望まないから、殺す方の士気も下がる、と。そういう事態を避けるためだから、ナツメのしたことは重大な功績だ」
「……そんなこと知ってたら、君を四課なんかにやらなかったのに。僕だってどんな手を使ってでも、引き戻したのに」
カヅサは俯いて、言った。
ナツメは言葉を失って、硬直した。ナギもまた決まり悪そうに身動ぎしている。
カヅサにとったって、ナツメは一人の大切な女の子だったんだと。カヅサはやさしい男で、他人を愛するのが上手い男だ。でも、それが上手いからって、傷付かないわけじゃない。今更気付いたって、遅い。
ナツメは四課に入るとき、カヅサに力を借りた。背の傷を、つまり、クラサメと生きた証を消すために。
ああ、まただ。ナツメは歯噛みする。
誰かに愛されていたことを知って、そのせいで愛する誰かを傷付けたことを知って、私はどうしようもなくなる。
どうしようも、なくなる。エミナもカヅサも、ナギも0組も。クラサメも。
どうして私なんかを大切にするの、といじける子供がナツメの中にいて、そいつが暴れるたびこうして誰かを傷つける。
一人で生きていこうと思っていた。それが一番楽だから。でも誰かを愛しながら一人でいるなんて無理だった。愛しているなら、愛される。絶対に。
ナツメはわかっていなかった。何一つ。
「……ごめんね」
「でもいまさら、変えられない。僕だってあのときにもっと考えるべきだった。だから、今できることを考えよう。ナツメちゃん、どういうやり方で妊娠させなくしたんだい?」
「えっと……私は、最初の実験で自分の身体を使ったから、卵子を破壊して、排卵もできないようにした。他のみんなは、排卵を止めただけだけど……」
「それは……重大な疾患になるね。わかってるよね、そんなことしたら寿命に関わるって」
「まあ、どうせ長く生きられないと思ったから、それで」
「それにしたって……君は、なんてことを」
こと女性に限っては、月経や子宮が体調や寿命に深く関わってくる。ナツメは四課に入ってから、ずっと妙に体調が優れない。きっと少なからず、ナツメが自身に行った施術が関係している。
「ま、ナツメの自殺願望うんぬんはともかく。これでわかったでしょうが、ナツメが妊娠することは有り得ない」
「ああ……、うん、そうなんだけど……」
「カヅサ、何も問題ないわ。ただの嘔吐ぐらいで大げさなんだって。絶対に妊娠じゃないんだから、きっと脳震盪よね。それなら時間さえおけば落ち着くはずよ」
ナツメは胃が下から突き上げられる感覚に身震いして、口元を押さえた。ああ、早く吐き気が止んでくれたらいいのに……クラサメのこと、0組のこと、考えることはたくさんあるのに。嘔吐感のせいで、まるで集中できない。
と、ナギが突然目を見開いて「わかった」と叫ぶように言った。
「ナツメ、レムだ」
「……レム?レムがどうかしたの?」
「だからレムだよ!あいつだ、あいつに答えがあるんだ!」
ナギが慌てきった様子でナツメの肩を掴み、揺する。揺れると尚吐き気が増して、うっと呻き声を上げてナツメは彼を振り払った。
「わ、悪ぃ……」
「ほんとよ、突然何なの?レムが何?」
「だから、あいつに答えがあるんだよ!あいつ、病気だったって聞いたぜ。でもそれが治ったって。お前も診たんだろ?」
ナツメは思い出しながら首肯する。戦争が終わって、全てが過ぎた後、レムが体調の改善についてナツメを訪ねたのだ。戦争が終わってから、すごく調子がいいのだけれど、一度診て欲しいと言って。
ナツメが調べた限り、疾患は完全に治癒しているようだった。
「え?ええ、そうよ。脳の疾患で、呼吸器に異常があったの。でもルシになったことで治ったわ」
「そうだ。ルシになると、それまでに負っていた身体能力に影響する病や怪我は強制的に治癒される。お前もそうなんじゃねえか?」
「え?」
ゆっくり、遅効性の毒が回り切るみたいに理解して……ナツメは絶句した。
治癒。反射的に、下腹部を押さえた。
「あ……?」
カヅサがうなずき、ナギに賛同する。
「そうだよ、ナツメちゃんがしたことは寿命すら脅かす重大な疾患だったんだ。ルシになったと同時に治っていたって不思議はない!」
「ああ。そういうことなんだ、きっと」
「そ、そんな……そんなこと……」
言葉もなかった。
ナツメは己の身体が冷たくなっていくような感覚を味わっていた。
しかし、戸惑いながらも、それなら説明がつくとわかっていた。
臭いに敏感で、断続的に襲いくる途轍もない吐き気。これらがいわゆるつわりであるのなら、確かに説明がついてしまう。
戦争が終結しルシでなくなって二ヶ月弱。あの直後に妊娠したのなら、悪阻が起きたって不思議のない時期だ。
「うそでしょう……?」
ああ、まだ吐き気がする。
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