ひとしきり泣いて、私の嗚咽が収まったころには、クラサメは完全に疲れ切っていた。なんだその疲労感あふれる表情はと詰ると、女の慰め方など知らん、知らんものは疲れるとつっぱねられてしまう。
こんなひどい奴のために六百年かけて戻ってきたのかと睥睨するも無意味そうなので、仕方なく自力で立ち上がった。
「もういい。とりあえず着替えたいからここ出るわよ」
「着替え?どうやって」
「ここに住んでたのよ六百年前は。こんなだっさい法服さっさと脱ぎたい」
あと、さっき泳いだせいでまだ全身ずぶ濡れ。早くなんとかしたい。
「なんでそんな濡れ鼠なんだ?」
「せめてももうちょっと言葉を選んでちょうだい?私がどんなに大変だったか……」
私はそこで言葉を切った。言っても詮無き事、恩を売っても無意味な相手。なんせ受けた恩が多すぎる。これまでの道のりの話はやめよう。
生きて二人ここにいて、これから死戦に挑むことができる。ただそれだけで今は充分だ。
「ともかく……少しでも多く、六百年前に戻したい。まずこの馬鹿げた白い服を脱ぐわ」
「それなら、お前の部屋に?」
「ええ、六百年も経ってたらほとんどは朽ちてしまってるでしょうけど、何枚かはなんとかなると思うのよ。魔法を使って織ったものがあるから」
「そんなものまで隠し持っていたのか。あとは何だ?数十種類の呪文書か?一財産だな……」
「玉の輿に乗れそうでよかったわねー」
棒読みで言い放つとクラサメの深いため息が背後で聞こえた。
「呪文書はもうそんなに残ってないし、六百年も経ってたらさすがに効力が弱まってると思うわ。持ち運びの不便を思うと、使い物になるかどうか……」
「それで、どうやって女王を倒す」
「……まだ考えてる。ああそうだ、とりあえずあなたの剣返すわ」
「な、……どこでこれを」
「あー……落ちてた」
「そんなわけがあるか」
私は取り敢えずとクラサメの手をとって歩き始める。最初にこの部屋に入ったときには通れなかったドアを開くべく近づくと、クラサメが躊躇いなく壁の模様の中に隠されたレバーを引き下げた。
「詳しいのね?」
「城に六百二十年住んでたからな」
「そういえばあなたがこの城の封印をしてるって本当?」
「あ……ああ、本当だ。元々、魔力の強い王家を城の中に隔離して守るために一人のルシが始めたことだ、それが祖先でな。この剣も家のものだが、……なんで知ってる?一応機密扱いだぞ」
「さっきまでエースと一緒だったのよ。彼が教えてくれた」
「……は?」
エース。
その名が出た瞬間、彼は足を止め、それで私も縫い止められた。振り返った先で凍る彼の目を見たらいてもたってもいられない気分になる。
「エース……エースが、いたのか?」
「幻覚かもしれないし、亡霊かも。でも確かにさっきまでそこにいて、私をここまで連れてきてくれたの」
「そうか。エースは、彼は……私たちを恨んでいたか」
「それは……聞かなかった。恨んでるかもしれない。でも喜んでくれた。私が戻ってきたこと」
「……そうか」
彼はもう一度、そうか、と繰り返し、私を降ろした。目は虚空をじっと睨んでいる。
「おかしくないか」
「何が?」
「なぜお前の前に出てくる?エースはお前の服にバッタを仕込んでたぐらいで……別に特別何かあるとかじゃなかっただろう」
「なにそれ、妬いてるの?面白い」
「誰が妬いてるって?」
口下手のクラサメを若干おちょくりながらドアを抜け、私の使っていた部屋に向かうべく階段を目指す。その途中で振り返り、「待った」と彼を押しとどめる。
「ちょっと待ってどっちに妬いてるの?私?エース?」
「どうでもいいだろうそんなこと……第一妬いてなんか」
「いーや、答え次第じゃここを出た後の私たちの進路は変わってくることになるわよ!」
「そんなに大騒ぎすることか!?」
ぎゃあぎゃあ騒ぎながら、私たちは階段を上がっていく。こんなところをあの子達に見られたら赤面じゃあ済まないなと思う。でも仕方がない、彼にまた会えて嬉しい。月並みな感想かもしれないが、出てくるのはそんな感情ばっかりだ。
深夜の私ごときの部屋が高層にあるわけもなく、部屋にはすぐたどり着いた。
「思ったより狭い部屋だったんだな」
「元々軍部から招聘されてる上に城の王家の守り神を祖先に持ってる人と部屋のサイズが同じなわけないでしょうが?」
呆れ果てた声で言って、私はドアを開けようとした。しかし枠の部分からして年季が入りすぎているのか、どうにも硬くて動かない。ギシギシと軋む音ばかりが鳴るドアを見かねて、クラサメが私の肩を掴んで下がらせる。
「蹴破っても問題ないな?」
「ここで暮らす日はもう来ないと思うけど、どうかしらね」
婉曲な了承を素直に受け取って、クラサメは思い切りドアに蹴りを叩き込みドアを吹き飛ばした。私が何度押してもかけらも動かなかったというのに。
「……あなたに蹴られることがないよう気をつけるわね」
「そんなことをする予定があるのか?」
「今のところはないからとりあえず安心だけしてて」
クローゼットの扉に関しては無理しなくてもこじ開けられた。整然とは並んでいないが、どこに何の服が並んでるかくらいはわかっている。心の中ではほんの十数時間前までここで生活していたのだから。
「これはアウト、これはー……見て、破けてる」
「六百年も経てばな」
「あなたはベッドの下漁ってくれる?そこに呪文書が積んであるはずなの、いくらか使えるものもあるかもしれないわ」
服をざっと検分したところ、やはり使えそうなのは魔力を練り込んで製作されたものだけだった。元々年代物なので洒脱とは言い難いが、多少はこの際目をつぶる。
短いジャケット、ストレートの黒いパンツ。全身真っ白から真っ黒へ着替えていく。
「おいこの呪文書は、……着替えるなら一言言え」
「何を照れてるのよガキじゃあるまいし」
「お前……お前な、そういうことは……」
「あなたの前でしかやらない」
先読みして答え、脱いだ法服をベッドに投げ落として新しい服を着る。新しい方が古い服だなんて、矛盾なのだかなんなのだか。
と、落ちた法服に刻まれた刺繍にクラサメが気づき、手を伸ばしてまだ湿っているそれを拾い上げた。
「お前、これは……」
「やっぱり気付いた?さすがお互いルシね」
ルシが生まれると、集めて、定期的に城に届けるための村。その村の女たちが、伝統的に織った白い布。それに一寸違わず縫い込まれた真っ白な刺繍。一見すると、まず見えない。見えたところで意味がわからない。魔法という体系の、なんたるかを知らなければ。
「記述が多いな」
「そうね。長文のセクションだわ」
「呪いは専門じゃない。お前なら読めるか?」
「ちょっと待って、難しいから時間がかかりそう……まず“かのルシの血脈継ぎし者、”」
クラサメが持ち上げた法服を受けとり、指を走らせる。読むために。
「格式張った言い回しが多いわね……」
呪いとは結局のところ、運命的な強制力だ。
こうなってほしいという希望がまずあって、それを叶えるための道筋を整えて指定することによって望んだ結果を導く、というもの。爪の垢程度でも魔力さえ備えていれば、理論上は誰にでも使える。とはいえ実際に呪いを叶えるのは簡単なことではない。
なんせ、誰がどこで何をするか、そういうことを魔力でもって強制しなくてはならないのだ。指定できる内容は魔力の総量と質によって変わってくるので、短文をいくつか組み合わせるのは基本中の基本。とはいえセクションキー自体が多くなればなるほど必要な魔力も跳ね上がる。かといってセクションが少なくて指定が足りないと、必要な魔力もまた底なしに増えるので、そこは術者の腕次第といったところか。結局、生まれながらに恵まれているかどうかだ。
実際、私が転生に使ったセクションは三つだった。“クラサメが目覚めるその日に”“戦闘に耐えうる程度の肉体を持って世界に存在し”“奇跡的トリガーを引き金に魂を覚醒させる”。“いつ―when”、“前提条件―terms”、“結果―results”。一番完結で、矛盾の起きようのない基礎的な文章だ。その腕だけはまぁ、自信があった。
それに対して、これは。
私は目を細めながらなんとか読み上げてみる。
「“かのルシの血脈継ぎし者に限られる”……」
“呪いの娘の血の中にあるルシたちは角の子たらむ”“角の子は城へ運ばれよう”“かの娘のみが棺の外へ這い出でむ”“女王の呪い解けし朝”“角の子、娘は彼の者の前に現れむ”“←石となりし因縁の者”“娘、女王に立ち向かうべき力を得む”“←血脈にやどりし力の果て”“娘、女王に立ち向かう権利もまた得む”“←女王をそれまで指定結界内にて留める”“←呪いは城を起点とするが”“全ての角の子たる者たちへ届く”“最後のルシたる、かの娘だけが呪いの胞を抜け出さむ”。
「これは……見たこともないほど、長いな」
「とんでもないわ……」
私は魔力自体が少ないので、可能な呪いは最大でもセクションキー四つまで。ルシの両親を持つ純粋なルシである私でも、それが限界。
ちなみに限界ってことは、そこに力を注いだら他がおろそかになるって意味でもある。実際のところ、呪いをきっちり作動させるには三つでもかなり無理があるのだ。
それが、十四。普通のルシなら二つか三つがせいぜいなのに、十四。
しかも六百年越しに効力を発揮する、呪い。
更には服に縫い込ませて、ということは第三者の手を経由してもいる。そんなこと私はやったこともないし、やれると思ったこともない。世界規模に波及する呪いをかけるのが前提だなんて、あり得ない。
っていうか、これは。
「私の呪いが成功した、ってんじゃないな……」
自動スクリプトは自動スクリプトでしかない。偶然うまくいくことだってあるけれど、普通そんな奇跡は起きない。
明らかに、セクションキーのロードを補完するための呪いだ。私の力ではどうしようもなかった部分を、いとも簡単に補填して。
「ありがとうってな気分じゃないわね」
「これだけのことができる術者なんて、一体誰がいる?」
これだけのことができるルシなら。
クラサメの呪いを解き、私の転生を早めることもできただろう。女王を殺すことだってできたかもしれない。知らなかったなんてはずはない、私の状況を想定せずにこんな呪いは放てないだろう。
どうして、こんな中途半端な手助けを……。
「……女王か?」
「でも術式の中に、術者が指定した範囲から女王を出られなくするっていうのがあるわ」
「そうなると、もう心当たりがないな……可能なルシといえば、存在はしているんだろうが、この件に関わる理由がない」
私はそれには答えなかった。そんな力を持つルシには関わる理由がないのかどうか。結局全容などわからないのだ。
実際のところ、国が動いている事態だ。どんな大物が裏から出てきたとしても、おかしくない。
「……今考えても無駄か」
「そうね。呪文書見せて、持ってくものを選ぶわ」
クラサメから受け取った本を、腐りかけた寝台の上に放り投げる。呪文書は消耗品で、一度使ったらただの紙の束になってしまう。その中から、慎重に選んだ禁書一冊のみを抜き取って、私はベルトの隙間にねじ込んだ。呪文書は薄っぺらいとはいえ、なかなか圧迫された。
「何の呪文書だ」
「ええと……能力を強化するような、やつ。なんでもないよ」
どうして嘘をつくのかなんてわかりきった話だった。
最後の手段を服の下に隠しながら、私は空いたほうの手でクラサメの手を握った。彼の手袋越しに伝わる体温は間違いなく救いになった。
彼にとってのそれになりたい。俯いて私はそう思った。
私は彼の救いになりたい。
「行こう。全部終わらせて、……そしたら」
そこで言葉に詰まった。
行きたい場所などもうひとつもなくて、やりたいことなどひとつもなくて、私は彼に会いたいだけだったのに。
彼のいる人生を取り戻した瞬間、欲深くなっていることに気付いた。
彼の救いになりたい。
彼の恋人になりたい。
彼に愛されたい。
あんなに厭うた、雌としてだけ生きる日々も、彼の傍でなら望みにもなりえてしまう。
だって私は彼に救われていて、恋をしていて、愛しているから。繰り返し繰り返し、思い知る。
何も言えない私の手を強く握り返して、クラサメが私の顔を覗き込む。
「終わらせたら、どこに行くか考えておけ」
「へ?」
「そういう話だろう?」
彼はそう言って薄く笑い、立ち上がった。
そういう話。そういう話か。
「そうね。行こう」
そうはならないだろう。
予感があった。二人生きて城を出ることはあるまいと。
だから私は、嘘をついたのだ。
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