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「まだまだ寒いね」
おはようの代わりに、ナツメは起きてきたクラサメにそう言った。体調が安定しているのか、最近ではクラサメより早く起きることすらある。そういうときのクラサメは驚く顔ばかりする。ちょっとひどい。
腹が立つので寝癖を指摘してやると、舌打ちでもしそうな顔で彼は洗面所に向かった。低血圧だから、起きて数分は機嫌が悪いのがクラサメだ。ナツメは素知らぬ顔で、コーヒーを啜った。
すぐにクラサメはいつもの顔をして戻ってくる。ナツメは自分と同じコーヒーを差し出す。クラサメは何も言わずそれを受け取りながら、ナツメの対面に座った。
ナツメはいつもの武官服を着ていて、クラサメもいつもどおりの服を着ていた。お互い上着は着ていないが、それだけ。普段通りの朝。
「今日は、仕事は」
「大したのはないと思う。戦後処理ばっかりだし。あなたや0組みたいに決定権のある人たちよりはずっと楽だよ」
「そうか」
「それにしてもまだ、血の臭いがする……。感じない?」
「いや。私は、さほど」
「本当?……慣れかな」
結構、臭くて参っているのに。ナツメはそうひとりごち、視線を再度落とす。
もともと口数の多くない二人だから、こうしてすぐ会話が尽きる。ナツメは仕事の資料を読むし、クラサメはクラサメで仕事がある。0組も今は臨時で戦後処理支援に回っているから、指示を出すのはクラサメの仕事である。
この時間はそう長くはなく、しかして短くもなく。朝に限られる静けさは彼らにとって心地いい時間となる。
その沈黙を破ったのは、クラサメだった。
「ナツメ」
「ん?」
「前から話そうと思っていたのだが。……戦争も片付いたことだし、だな」
表情は変わらない。いつもどおり。重要伝達事項を伝えるときの、あの顔だ。そうそうブリーフィングの時の。
教室の後ろで、0組に向けたその顔を覗き見するのがナツメは好きだ。
「それで。私たちもそろそろ、各方面に妙な関心を持たれているのも、正直なところうざったい」
「それはそうかもね」
ナツメは資料をテーブルに置いて、顔を上げる。彼の目はどこか泳いでいるようにも見えた。
「だから、落ち着かないか」
「……んん?」
いまいち意味がわからなくて、ナツメは首を傾げる。たいてい簡潔な単語を使うクラサメにしては珍しく、どうにもはっきりしない。
クラサメはナツメの察しの悪さに呆れたような顔をして黙りこくっていたが、暫時の空白の後、妙にわざとらしい咳払いを挟んで、続ける。
「だから。このまま、どっちつかずでいると、うるさいだろう。エミナとかカヅサとか」
「ナギとか0組とか?」
「ああ、そうだ。だから、……落ち着くのは、どうか」
「……?」
「何でそこで壊滅的に察しが悪くなるんだお前は!だから!ひとしきりゴタゴタしたんだから、もう」
「そうか、……わ、私、ここにいないほうがいい……ね……」
「何でそうなるんだお前は!!」
クラサメは苛立ちを隠すこともなく、テーブルを叩いた。コーヒーの黒い湖面が揺れる。
「だから!結婚しよう!」
「……」
放たれた言葉を処理するのに、時間がかかった。そしてすとんと胸の内に落ちて、意味を理解してから……ナツメの頬は赤く染まった。
今までにないくらいどきどきした。驚いたし、それ以上に、叩きつけるように放たれた言葉が心臓を内側から揺らしているみたいだった。
そしてその熱が全身をまわりまわって、それから。
これからのことを考えて。
何も思いつかないということに気がついた。
気づいてしまった身体は、夕立ちの中に立ち尽くした後みたいに冷えていった。
凍りつく心が、ナツメの挙動を押しとどめる。ただ俯いて、ぐるぐる廻る思考に沈む。
水面は沸騰で泡をふいている。ぼこぼこと、とめどなく冷たい何かが脳内を這いずり回っている。それなのに、皮膚はやたらと熱い。
そんなことして、どうする。
クラサメと結婚して。
二人で生きていく?
そんなことどうしてできる。
そんなことして、どうするんだ?
「……私は」
乾く唇を動かして、ナツメは口を開く。
彼女は寒すぎる闇の中にいる。どうするのが正解かはわからない。それでも、何が間違っているかはわかっていた。
私は子供が持てない。
私はまっとうになれない。
私は、幸せになれない。
碌な死に方ができないだろう、四課にはそうとわかっていて入った。ナツメの仕事は最悪なことに多岐にわたり、暗殺した人数なんて数えていないし騙した人間も数知れず、それどころかナツメは仲間にすら良くない存在だった。ナツメの能力は効率的な避妊手術としても意味を成したからだ。
その技術は多くの四課員を守ったが、同時に多くの人間の幸せを奪っていた。
そんな話はいまさらだとしても、倫理的に歪みきっている。まともに生きられるわけがない。
ナツメはひときわ愚かな女だった。極めて、愚かだった。わからないのだ。幸せになるためにすべきことが、何一つとして。
だからナツメは幸せに生きていくことなどできない。罪悪感など存在しなくても、因果がナツメを許さない。
ナツメは幸せになれない。クラサメも、ナツメといては幸せになれない。
ナツメはそれを、許せない。
気がついたときにはナツメは立ち上がっていた。
できない。
落ちた言葉は、沈黙の空気にそっと馴染んで、ナツメにすら痛みを与えた。
「なぜ」
「で……でき、ない。できないよクラサメ……」
「私は、理由を聞いているんだ」
「ごめん、ごめんなさい、私、でも」
歯の奥が、ガチガチと震える。怯えている。怖い。やめて、怖い、やめて。
ナツメは慌てて立ち上がり、取るものも取りあえず部屋を飛び出す。クラサメがナツメの名を呼び、追ってくる。
それを振り返ることもなく、ナツメは逃げるために走り、階段に差し掛かる。
階段を降りるため差し掛かった、その瞬間だった。
「 あっ ……?」
唐突な違和感は間違いなく一瞬だけナツメを正気に引き戻した。強い衝撃がナツメの背を叩く。
浮遊感。嫌な感じ。重力からの刹那的な解放。されどその刹那が終わったら、ナツメの身体は再び重力に囚われて……。
「 ナツメ!!! 」
鋭く刺さる、名を呼ぶ声。
辛うじて、視界の端に、手を伸ばすクラサメを見つけた。
腕を掴まれた。
それだけ、鮮明に残っている。
とっさに目を瞑ったナツメには、何も見えていなかった。ゆるゆると目を開き、顔を上げると、自分が階段の上の踊り場に座り込んでいることがわかる。
それから、クラサメがいないことも。
「クラサメ……?」
振り返って、きょろきょろと迷子のように周囲を見回して、それでも見つけられなくて。
強い吐き気を覚えながら、立ち上がる。それでようやく、彼を見つけることができた。
「クラサメ!!」
ナツメは、己の顔が青ざめるのを感じた。彼の身体は、果たして、階段の下の床に横たわっていた。
慌てて階段を駆け下り、クラサメの傍らにナツメは膝をつく。彼はうつ伏せに倒れ込み、顔はわずかに青ざめているように見えた。
「嘘、やだ、やだ……ッ」
ぐずる幼子みたいな言葉しか出てこない。ナツメは彼に手を伸ばしながら、懸命に対処を考える。
頭を打っている場合、動かさないことが鉄則。青ざめているということは頭や首を打ったことで血が一瞬止まった可能性が高い。であるとすれば、短時間で意識は戻る可能性が高い。
頭に出血はない。親指で眼球を確認する。結膜下出血もないし、瞳孔も正常の範囲内。大丈夫、大丈夫だ。
大混乱の最中にある自分を叱咤し、気道確保できるようクラサメの体勢を整える。それから震える手で、COMMを起動しようと手を伸ばした。
指が空振って、うまくスイッチが入れられない。ああ、早く、早く、早く!!!
ナツメが焦りで吐きそうになっていた、その時だった。
「あれ、ナツメ?どったの?……クラサメ!?」
背後からかけられた、よく知った声。振り返るとそこには、0組の数名がいた。
「シンク……!みんな、おねがいたすけて……!!」
彼らもまた倒れ伏すクラサメを見た瞬間顔色を変え、ナインがナツメに指示を仰ぎながらクラサメの腕を己の肩に掛け引きずり上げた。トレイが反対側を支える。
「医務室!医務室に連れていって!!」
彼らがクラサメを連れて行くのにふらふらと追従し掛け、足が縺れてナツメは惨めに崩れ落ちた。それに気付いたシンクやレムが慌てて支えてくれる。
「大丈夫ですよ副隊長、隊長ですから。隊長が怪我なんてするはずありません」
「……そ、そうよね……」
レムがナツメの肩に手を起き軽く叩く。それに安堵できるほどナツメは強くなどないとしても、彼らの存在がそこにあるだけで不思議なくらい心強かった。
医務室に駆けつけると、偶然カヅサがいた。クラサメを奥のベッドに寝かせるよう指示を出すナツメに、どういうことなのかと尋ねる。出来る限り簡潔に答えようとするのに、全く言葉にならないナツメの代わりに、シンクが「階段から落ちたっぽいの!」と叫ぶように言う。そして、慌てた様子で彼女は医務室を飛び出していく。
ナインもトレイもナツメに言われたとおりに動き、クラサメをベッドに横たわらせる。ナツメはクラサメの頭を少し傾けて、脳を打ったことで嘔吐しても喉に詰まらないようにした。
それ以上は彼が自発的に目覚めるのを待つほかなく、呆然とするばかりのナツメは呼吸を落ち着けようと深く息を吐く。レムが寄り添うようにナツメの隣に立ち、何度も背をさすってくれた。0組みんな、クラサメのことだけでなくナツメのことも心配してくれている。その優しさがなんとか正面から受け取れるようになった。
トレイが椅子を引っ張り出し、ナツメを腰掛けさせた。と、外からバタバタと靴音がいくつも重なって響く。
「ナツメ!」
「クラサメが倒れたってホント!?」
「あんだよ無理に引っ張るんじゃねぇ、てめっジャック!!」
「え〜、だってサイスだって心配なのにキャラが邪魔して走れないみたいだからさぁ〜」
「ブチ殺すぞ」
やはりと言うべきか、それは0組の残りの面々だった。どうやらシンクが知らせに行ってくれたらしい。みんな口々に好き勝手なことを言ってはいるものの、クラサメを心配しているのは同じなのだろう。
彼らは優しいから。
「それで?何があったの?アタシら何も聞いてなくてさ、シンクは隊長がたいへーん!ばたんきゅー!!としか言わないし」
「……私が階段から落ちたのを庇ったの。私のせいよ」
「成る程……そういうことでしたか。でもそれは副隊長のせいではありません」
クイーンがキリリと眼鏡を押し上げながら、隣のキングに目配せする。と、彼は「そうだな」と相槌を打った。
「ナツメ一人簡単に助けられないなんて、それは隊長が悪い。どうせ寝惚けてたんだろう。色呆けかもな」
「クラサメがそれ聞いたら殺されかねないわよキング……」
「ああ。でも今は寝てる」
キングは肩を竦めた。寝惚けはともかく、色呆けしているクラサメなど想像できなくてナツメは少し笑った。表面上だけでも口角を上げてみると、重く沈殿した気持ちが僅かでも浮上した気がした。
0組の皆もクラサメのベッドを取り囲むようにして各々腰掛けたりした。どうやら、彼らもここでクラサメが起きるのを待つつもりらしい。脳震盪を起こしただけかもしれないのに、目覚めたら彼は驚くだろう……こんなに多くが、彼を囲んでいたら。
「はっ……アタシ今すごいこと思いついちゃった……」
「え、何です?ケイトさん」
「いっぱい花摘んでくんの。そんでクラサメの周りに撒いて目覚めないお姫様ごっこしよう」
「……ケイト、お前はいつもそんなことしか考えていないのか?」
「なによエイトー!クラサメのことだからなんかムカつくことすれば起きるかなって思っただけじゃないー!」
「ケイト……絶対に殺されますよいくらわたくしたちでも……」
私もそう思う。
ナツメは頬を膨らませて拗ねたケイトをなだめつつも、少しそんな風景を想像してしまう。確かにおもしろすぎて、クラサメも起きてしまいそうだ。
「……う」
そうやって悪ふざけしているナツメたちをよそに、クラサメが身動ぎした。彼の呻き声に肩を跳ねさせながら、ナツメはクラサメを見た。彼の閉じられた瞼に力が篭もり、ゆっくりと開いていく。
「クラサメ?」
「あ……?ああ、エースか……」
彼を一番近くで覗きこんでいたエースに離れろと合図して、クラサメはゆっくり身体を起こす。私はどうなったんだ、と聞く彼に、トレイが「階段から落ちたんですよ」と教えてやっていた。
「階段から?それはまた……ずいぶんと間抜けな理由だな」
「まぁあんたにしちゃー間抜けかもね。でもま、人を庇ったんだから上等なんじゃない?」
「庇った……?誰をだ」
クラサメの色素の薄い目が、順々に0組の顔を見ていく。そしてナツメの顔で止まり、目は怪訝に細められた。
その目が知らない色を孕む。……なんだか酷く、嫌な予感がする。
「クラサメ隊長覚えてないのー?副隊長を庇ったんでしょ?強く頭打って忘れちゃった〜?」
「……、副隊長?」
ジャックの問いに聞き返すクラサメの口ぶりが……まるで、始めて聞いた言葉を警戒するような声音で。
ナツメは自分の目が見開かれていくのを感じていた。手が震えているのも。体温が下がってゆくのもないまぜになって。
動けない。泥濘に足を取られて、前にも後ろにも進めない。
「副隊長……?お前は、誰だ?」
進めない。どこにも行けない。
羽根をへし折られるような、奇妙な感覚があった。
「隊長……?何言ってんの?副隊長だよ……?」
「だから、副隊長というのは何だ?」
「クラサメ隊長、一体何を……悪ふざけにしても悪質ですよ。ケイトが悪ふざけしようとしていたのは事実ですが、副隊長にやり返すなんて」
「お前らは何の話をしている」
クラサメの眉間に皺が寄ってゆく。苛立ちが浮かぶ。ナツメは自分が息をしているのかさえわからなかった。
衝動のままに立ち上がる。椅子が後ろに倒れた音を聞いた。
「ふ、副隊長、ふざけているだけですよ!クラサメ隊長が、そんなっ……」
デュースが腕を掴む寸前をすり抜けた。後退り、脳が膨張するような頭痛に耐えながら医務室を出る。心配そうにこちらに目を遣るカヅサと一瞬だけ目があった気がした。
でもそれより、この吐き気をどうにかしたい。
また強い血の臭いがナツメの鼻孔を吐き、えづいた。吐き気がする。何もかも全てが己を刺し貫こうとしているかのようだった。歩いて、時々転びそうになりながら、9組の教室に辿り着く。0組の前でこんな顔をしていてはいけないとわかっていた。そんな時頼れる相手は、いつも……。
「ナツメ?おい、どうした?」
「……ナギ」
「おま、え、泣き、ちょっと待ておい!大丈夫かよ一体どうし……」
「吐くぅ……」
「はああああ!?」
ぐらりと傾く身体が重い。
辛うじてナギが受け止めてくれたことに感謝しつつ、ナツメはぐったり倒れこんだ。もう動ける気がしなかった。
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