「……」

雨が降っている。
春の雨は冷たく、大きな雫になって、私の頬を打つ。

「……叶った」

不思議と痛みはなかった。あれだけの高さを落ちたというのに、丈夫なものだと内心驚く。見上げた先、崩れている橋は千年樹の天辺より遠くにあるように思えた。頭が潰れていても疑問には思わないぐらいだ。

「叶った。やった……戻って、こられた……」

私が私に混ざっていく。幼い子どもの中に、私が溶けていく。そのことに違和感はない。ただ記憶を失っていただけ、そんな感覚。
けれど実際、痛くも苦しくもないし、呼吸が妙におぼつかない以外問題はないように思う。それでもゆっくり、深呼吸を意識していると、酸素が脳に届き始める。

「何で落ちたんだっけ……ああ、いや……そうか。橋が……崩れたんだったわね」

何がトリガーになったんだかわからないが、私は多分最後の術式に“奇跡”と記載したはず。なんでもいいから奇跡的な出来事が起きれば、それを引き金に記憶が戻るように。正直、懸けだったが、それぐらいに重いトリガー設定でないとこの術式は背負えなかったろう。なんたって蘇りの儀式だ。
魂に刻まれた記憶が、六百年を越えて蘇るように。悪夢にきちんと果てがありますようにと、祈った呪い。

「で、落ちて無傷なのが奇跡?それともあの城の門を開いたこととか?……ま、奇跡的なのは確かかもしれないけどね」

ゆっくり立ち上がる。私が倒れていたのは、餓死牢の上だった。海辺であることを利用した、二度と出られない牢だ。城から太い鎖で吊るされた樽のような形の檻からは、二度と外には出られない。街や城の喧騒を遠くに聞くだけの地獄だ。
私は、その上に落ちたようだ。……そうか、そう思えば奇跡なのかもしれない。城の標高を思えば、海に落ちていたら即死だったろうから。

「しかし、揺れるわね……急ぐか」

なんせ、体が無事なはずはないから。家二つ分くらいの距離は落ちてきているのだ。痛みがくるまえに可能な限り進んでおかなければ。こういう痛みはたいてい遅れてくるものだと知っている。
私は頭を打っていないことを確認しながら立ち上がり、周囲に何度も視線をやる。雨のせいで視界が悪くほとんど何もわからないながら、私はこの身体が奥から三つめの牢の上にいることを認識した。

「さて、若いだけあって身体能力は良くなってるだろうし」

顔にへばりつく髪を払う。驚くべきことに、指の長さ、髪の質感までもが、六百年前の身体とそっくりだった。

血筋に限定した魂継の呪いは想定以上にうまく運んだ。吐き気がするほど。
クラサメのことも思い出せず、平然と生きてきた十六年もの月日を思うと、吐いても吐いても足りそうにない。

なんでもっと早く。それがどんなに無理でも、私は彼を助けに来られなかったんだろう。
息が苦しい。雨が強くなる前に、早く。

「……よっ、ととと」

助走をつけて檻を飛び移る。雨のせいで滑って肝を潰す思いがした。潮風のせいで錆びきってなければ、滑り落ちるところだった。
そうやって牢の上を渡り、私はなんとか城の下に辿り着く。岸壁の、城から牢へ至る道について、ようやくひと心地がついた。道もだいぶ朽ちているように見えるし、六百年前だってこんなところには来たことがないから、道がわからない。

ふと私は、彼を見つけた。
もしかしたらずっとついてきてくれていたのかもなと思う。どうしよう、こっ恥ずかしいところを見られていないだろうか。
寒さに震えた私が深く息を吐くと、彼は近づいてきて、私の顔を覗き込んだ。

『大丈夫?』

「ええ。平気」

『悪いな。僕、こんなだから。上着も貸してやれない』

「気にしないで。問題ないわ。今日死ぬとしても、それまでに勝てばいいのよ」

どうせ時間などない。女王は私の存在を知っているし、もうクラサメを捕まえた。目覚めが遅かった。悔いても遅いけれど、せめて落ちる前に術が作動していればと思わずにいられない。
早く、もう一度助けに行かなければ。踏み外しかけた足場が崩れ、海になだれ落ちるのを見ながら肝を冷やした。また数百年後に望みを託すわけにはいくまい。城がそれまでに朽ちてしまうだろうから。

「……ねぇエース、もし私が戻ってくるまでに城が崩れたらどうなってた?」

『その時はきっと、“望み”が叶って、世界が消し飛んでたんじゃないか』

「はは、間に合ってよかった……」

『世界を救うのに、か?』

透き通った白い肌の少年が、隣で問うた。答えに窮する一瞬の間を、彼はどう受け取っただろう。

「勘違いしないで。私はあなたたちを助けたくて、クラサメを守りたかったからまだ生きてるの。世界を救うためなんかじゃない」

『……嬉しいよ』

「助けにきたのが私なんかで、悪いけど。この身体が滅びようと、あなたたちは助ける」

『いや。待ってたから、すごく嬉しかったんだ、本当。崖の下に、馬に乗せられた先生の姿が見えたとき、僕はそれだけで救われた気がした』

私は振り返る。今にも消え去ってしまいそうな彼は、比喩でなく本当に透き通っている。彼は、崖の外に立っていた。

「ごめんね。遅くなった」

『それはクラサメ先生に言ってやりなよ。僕らには互いがいたけど、クラサメ先生はたぶんずっと……』

「……そうね。あの夜に閉じ込められていたでしょう。でも、あなただって。あなたのことはきっと、あの子たちは知覚できないんでしょう?あなただって相応に孤独だった」

『でも、僕にはみんなが見えてたから、孤独って言うのとは違った。いや……なんにしても、もういいんだ。今日悪夢は、終わるから』

エースの横顔を横目に見ながら、私は足を急がせる。
六百年、彼もまた私を待っていた。








六百年前に作った術式は、クラサメの呪いが果てるその日に必ず私がこの城に居合わせるというものだ。蘇りと魂縛の術の融合で、どちらも最上級に難しい魔法だった。死に際の私にとっては分の悪すぎる賭けだったが、その賭けはクリアできた。

術式の基本は、できるだけ単純にすることだ。自動スクリプト処理の背面にはどうしたって煩雑な構造がつきものだが、オプションを追加すればするほどセクションキーのロード順が狂いやすくなる。つまり、正常に呪いが動作しない可能性が高くなるのだ。
私の作った術は、“クラサメが目覚めるその日に”“戦闘に耐えうる程度の肉体を持って世界に存在し”“奇跡的トリガーを引き金に魂を覚醒させる”こと。これ以上セクションを増やすことはできないし、“ただし―but”も追加しなかった。

ただしその間この城は眠りにつき、誰も立ち入れないように。
だとか。

ただしこの戦いに無関係な人間が、いたずらに死ぬことのないように。
だとか。

そんなこと、書き込む余裕はなかった。だから。

私の呪いが作用したことは、この世界をある側面で支配した。即ち、角の生えた子の伝承を生んだ。ただでさえミリテスの街々から遠く、不気味で崩落の危険のある城に何も覚えていない私がやってくるのにはそれなりに重厚で信憑性のある物語が必要だったのだろう。そこまでは私の術の指定ではないが、おおむね理解できている。

角の生えた子。弾丸が貫いたこめかみのやや上のあたり、ぽっかり開いた穴から生えた角。その角は、私と同じ母より生まれた血族であるという証明。同じ母より生まれた子が成した子、連綿たる血筋の中に私は己を閉じ込め、適切なタイミングで芽吹くように新たな母の腹に宿ったのだ。


私は崖をよじ登ると、そこで舌打ちをした。城へつながる入口が朽ちていた。どうしようもない。
せめて魔法が使えればと思うが、この身体にはまだ魔力が無いにも等しい。ルシの血は六百年をかけて相当に薄まった。爆発を起こすどころか、マッチの先ほどの炎ですら出せないだろう。

『先生、先生』

「なぁによエース、先生今すごく考え中で」

『あっち。下っていけば、入れる』

エースが指差したのは、来た道とは逆の下り坂。こちらは確か城の動力部につながっているはずだ。
見れば、歯車や水車の類は止まっているようだ。当然か、六百年の使用に耐えうる構造ではない。

「まさか、あれにまだ動かせる可能性が?」

『たぶん動くんじゃないか?動けば、城の地下の方に跳ね橋があるからそっちから入れるだろ。先生が昨日入ってきた方』

「本当!?お手柄エース、偉い!」

私はついエースの頭を撫でようとして、手がエースの顔をすかっと通り過ぎてしまってから、自分の失態に気付いた。
エースはもう、誰にも、触れることなど。

雨が額から落ち、目に入りかけて瞬きをした。エースはその雨の感覚すら羨ましそうな目で見た。
彼は濡れることも当然、無い。

あの日救えなかったエースは亡霊になった。誰が望んでも、もう元には戻らない。

エースは私の前を通り過ぎ、先に歩き始めた。私もそれに続く。

『先生。蘇りの術ってどうやるんだ?』

「ああ……あれは、肉体が滅びる前に次の肉体を指定して、その身体に魂を移動させる根拠を示すのよ。私の場合は、血のつながりを利用した。……だから、まぁ、言ってしまえば賭けだよね。次の肉体って言ったって、まだ存在しないものしか指定できないから。肉体が母胎に存在し始めた瞬間、そこには魂も新たにできてしまう。それを退けて入り込むことは、蘇りとは違う。殺意を含む呪いになる」

『へぇ……じゃあ運もあるんだな』

「というかほぼ運。私も術式をきちんと知っていたわけじゃないわ。いくつまでのセクションなら正常に読み込まれるかなんてわかんなかったし、本当、よく叶ったって思う」

『そうまでして、クラサメ先生のこと助けたい?やっぱり好きなんだ』

ぶふっ、と噴き出してから、困惑を極めた。何で知ってんのこの子?
そう思って、わなわなと彼を見ると、それはもう楽しそうに笑っていやがった。

「エース……!」

『ごめんごめん、なんか新鮮で!まさかクラサメ先生にそんな話があるなんて知らなかったから。なぁなぁ、どこまで進んでるんだ?なぁなぁなぁなぁ』

「うるっさいなもう!?何でそんな興味津々!?」

『暇だったんだ、娯楽を提供してくれよ』

「う……そう言われると、弱いなぁ……。っていうか何もないのよ?そういうことになった、……というか、なりそうになったのも、あの最後の夜が最初で」

そう、あの日。あれがすべて。
それまでのことは茶番のようなものだし、彼とて私をそういうふうに見たことはなかっただろう。そういう人だ。それくらいは伝わってる。

私の口数が減ったので、エースが両手を首の後ろにやって、ふむと考え込む仕草をする。それから、「ま、いいや」と言った。
気を使われている。

『それじゃとにかく、がんばろうか。僕もできる範囲で助けるよ』

「ありがとう。本当は……あなたのことだって、きっと間に合いたかったのに」

『それはもういいよ。先生のせいじゃない』

二人で下る坂の途中、動力部の操作盤を見つけた。エースはどうも何度かここで遊んでいたことがあるようで、操作を知っていた。

『そっち、左のレバーを上げて。次こっち』

「詳しいわね本当」

『何度も歯車の上に落ちて死にかけるくらいここには通いつめてたからな!』

「エース!!」

なんて危ないことを!
私はひっくり返りそうになりながら唇を震わせた。

『そんなわけで、あの後、先生たちがいなくなってからはずっとこの辺をうろついたりしてたんだ。だから道も詳しいよ、ついてきてくれ』

「あなた本当肉体があったらもうお説教だからね、何時間でも正座させてやるから」

『クラサメ先生よりは優しく怒ってくれるんだろ?』

「命の危機があった場合はその限りじゃないわよ……」

もう死んでる、なんて理由で収めてやるほど優しいわけじゃない。それは確か。
坂の突き当り、エースの言うように確かに跳ね橋があった。

「これね?」

『ああ。そのレバーで橋が掛かるはずだけど……』

「……うわ。ものすごく錆びてるわ。これ、動くかしら……」

雨が直接当たる場所なのがまずかったのか、それとも海に近すぎるのが原因か。海面はすぐそこで、時折波が足元をさらうように靴にかかった。こんな場所では、木でも金属でもすぐダメになるだろう。
たぶん昔は、こまめに点検と交換をしていたはず。

なんとかレバーを掴んで、無理に反対側に押し込む。けれど、うまく動かなくて。
全体重を掛ける勢いでなんとか押し切ったが、掴むレバーの根本で、嫌な音がした。

「……」

『……バキっていった』

「……」

『先生、折れてる』

「私が一番わかってる……」

どうしようこれ。
困り果ててエースを見るも、彼も厳しい顔でこちらを見ていた。

「……他に、出入り口は……」

『ここを除くともう、城の反対側なんだ。つまり……ここから辿り着くのは……』

「無理なのね……」

私は一瞬沈黙し、立ち止まった。クラサメの声が聞こえた気がした。
彼のことを考える。

クラサメはどうして、私を逃がそうとしたんだろう。それにどうして、彼は城から出ないんだろう。
彼はどうして。私にばかり、逃げろと。

「……エース、あなた宙浮いてるわよね」

『そりゃ……身体ないしな』

「じゃああなたは、普通に渡ってちょうだい」

私は対岸を睨む。私の身長で言うと、数人分の隙間か。大した距離じゃない。
靴を脱ぐと、片方ずつ掴んで、反対側に放り投げる。

『先生!?どういうつもりだ!?』

「泳ぐのよ」

『ここの海がどれだけ荒れてるかわかってて言ってるのか!?無茶だって、先生がどれだけ泳げるか知らないけど、』

「聞いて驚け、こちとら北国生まれよ。一度も泳いだことなんざないわ」

『!?』

海を泳ぐのはまた難しいという。特に、陸に近い沖だから、潮の流れがよくない。エース曰く、着衣で泳ぐのも難しいという。

「やぁだ、脱がないわよ」

『先生……!』

私はそれ以上何を言うつもりもなく、飛び込んだ。呼吸法なんてよくわからないし、慣れないから前に向かってとにかく手で水をかく。

ひどく冷たいし、身体が重い。指先から凍りそうだ。海ってこんなに冷たかったのかと思う。夜なのもきっと理由の一つだろうけど、とにかく冷たい。

時間がだいぶかかった。それでも、エースが心配していたよりはずっとマシな結果だろうと思う。

「っはー、う、はああ、さっむ……!」

『無理するから』

「だって、行かないと」

対岸に這い上がって、靴を拾った。震えるけれど止まれないから、エースに笑いかけて、私は前に進む。
歩いていると、たしかに、昨日神官に連れてこられた場所に出た。私は歩いて、あの剣を探す。

「あれってクラサメの剣よね?どうしてこの城の封印が開くんだろう?」

『それはたぶん、この城の封印をしてるのがクラサメ先生だからだな』

「えっなにそれマジで」

『マジだって。知らなかった?先生は元々そういう家系だよ。ルシの血が入ってるって、それも知らない?』

「それは言ってたけど、何代か前にいただけだって……」

『なんだ、もう話してるかと……ああでも、そんな時間もないか。いやさあ、これ一応秘密なんだけど。クラサメ先生の家は王族の守護を専門にやってて、その関係でルシの血を定期的に入れてるんだ。クラサメ先生の祖母がルシだったとか言ってたかな』

「……なるほど、私がルシだって言っても慌てふためかないはずだわ」

『やっぱり先生もルシなのか?この城は今ルシだらけだな……』

私は神官の歩いた通りの道を歩いて、あの剣を見つける。青く透き通る刀身は、たしかに最後の日彼が使っていたものだった。
重たいそれをなんとか持ち上げて、私は城へ足を踏み入れた。エースを伴って。
エースを時折、振り返る。

「ここから先は、あなたには辛いかもよ。それでも大丈夫?」

『先生が頑張ってるのに、僕が無理だなんて言えないさ。大丈夫。それに、多分だけど……マザーが、……女王陛下がかけた呪いが解ければ、僕にも変化があると思う。今度こそ消えるか、もしくはみんなからも見えるようになるかもしれないし』

「……わかった。一緒に行きましょう」

そんなこと本当に起こるだろうかと思いながら、エースが望むなら断る理由もない。ただでさえ辛い道のりだから、本当はいてくれるなら助かるのだ。
隣にいてくれるだけで、私は自分を信じていられる。

昇る床の名前は知らないが、扱い方はわかっている。神官がそうしたように剣で像をどかし、テクノロジに頼って上層階へ運ばれていく。
クラサメと女王を見つけなければ。私たちはそうして、城の内部に足を踏み入れた。




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