夜中、私は闇の中にいる。
持ち歩くべき荷物なんて大したことはない。それなりの金銭と、売れば金にできる装身具ぐらいなもの。服やら呪文書やらは邪魔になるから、いらない。
身一つで可能な限り、遠くへ逃げる。すべきことはそれだけだ。

逃げないと。逃げるしか。もうそれしか。
夜半の城を歩いて、外に出るために正門を目指す。海に囲まれた、天然の要塞みたいな城だから、正門を使わないと外に出られないのだ。

「おい」

急がないと、夜が完全に更けたら雪が降るかもしれない。ミリテスの生まれと言っても、雪の降る獣道が得意なわけじゃないから、それまでにどこか休めるところへ移動しないとならない。

「おい、待て」

馬でも盗めたらいいのだが、そんなことをしてルブルムでも指名手配されるなんてことになったら目も当てられない。地図は頭に入っているけれど、とりあえず南へ逃げるとして、一番近い集落はどこにあったか。

「待てって言ってるだろうが!」

「あーうるさいなぁもう!何でいるのよあなた!?」

クラサメが当然のように廊下で待っていて、私の腕を掴んで止めた。掴まれた腕が少し痛くて、それすら心臓を高鳴らせ、せっかく脳内で描いた逃走経路が一瞬に立ち消える。
全くもってふざけている。誰がって、私が。
本当にもう、人生の岐路にあって、愛だの恋だのに惑わされてる場合じゃない。生きるの死ぬのって問題の真っ只中だ。

「だから昼に言っただろうが!守るからどこにも行くな!」

「結構です!」

「待て、こら、話を聞け!」

「もう時間が無いの、ほっといて」

「だから!一人で行こうとするな!」

彼が耳元で、押し殺した声で怒鳴る度、私の腕を掴む力が増して、ついには骨のきしみを意識するまでに痛みが走り私は顔を顰めた。クラサメはそれでようやく力が強すぎたと思ったのか、「すまない」と言って手を離す。私はその隙に、腕を引き抜いた。

「……助けてくれようとしてくれなくて、いいの。これは私の人生だから、どうしようもないことなのよ」

「本当はそんなこと、思ってないだろう」

クラサメの声がやけに脳に響く気がした。距離の近さに唇が震えてしまい、暗闇であることに感謝した。

「助けてほしいだろう。それに、逃亡を人生だなんて呼ぶ気もないだろう。お前は」

だめだ。そう思う。もうだめなんだ。あんな言い方をして、クラサメには頼るまいと深夜に城を出ようとまでしたって、きっかけ一つで彼に溺れる。
恋って最悪だ。衝突する前に避けようとしているのは、終わりが見えるからなのに。

祖国なんかより執拗に、逃げる私を引き戻すんだ。

「なら私といればいい。私が守るから」

ずっと、そう言ってほしかった。
誰かにそう言ってほしくて、でも無理だから諦めていた。

――誰かに愛されれば、こんなどうしようもない自分のことを愛せるような、そんな気がしていたんだ。
けれどそんなのは勘違いだって、クラサメを好きになってようやくわかった。

そして、今、また一つわかった。
それでも、私はこの人に愛されたかったんだ。

涙が頬を落ちるのを止められない。そういうふうに想ってもらいたくて、でも無理で。
一生、無理だと思っていたのに。
言葉一つで、世界を敵に回そうと思ってしまう。恋は最悪。


私は、クラサメの手を取った。
いけないことだと思っていたし、きっとこれが踏みとどまる最後のチャンスだった。

ずっと後悔してきた。ルブルムに来たこと、クラサメに明かした全て。きっと酷い事態を招くってわかっていたから。何度も何度も悔いてきた。
それでもこの選択だけは、私は意地でも後悔しない。




これは、猶予の終わり。
闇の奥から、低い金属音めいた靴音が連なって聞こえる。高品質なグリーブの音だと、私はすぐに聞き分けた。

「きた」

「お前はそっちに。私は背後に回る」

「……わかった」

作戦の提案は私だったが、クラサメの多大なダメ出しと手直しを受けてもはやクラサメの計画だと言っても過言ではない。

ミリテスの部隊は、最優先事項としてまず私の捕獲をもくろんでいる。独房にぶっこんで強烈なの二、三発打っちゃえばろくにしゃべれないし暴れらんないし。そう言ったら、彼は不意に、私の手を一瞬だけ握り込んだ。すごい顔をしていた。有り体に言えば、憤怒の表情だった。わーおと思った。
何を怒ってるの、と聞いたら、「二度とそういうことは言うな」と言った。「お前がそんな目に遭う話を聞いて愉快だとでも思うのか」、と。

ともあれすぐ殺される可能性は薄いので、囮になって敵をあぶり出すというのが私の提案だった。どうやって始末する、と聞かれて答えに窮したので、クラサメは眦を吊り上げて怒ったが。
結果、場所を地下に移すところから話は始まった。クラサメが床にいくつも魔法で罠を張り、私の逃走ルートも指定された。クラサメがタイミングをはかって兵を一網打尽にするためだ。

罠を張るくらい、私でもできるのに。そう言ったら彼は、所詮転ばせる程度のものだからと言った。
魔法を使えば命が削られると言っていただろう、とも。
その時は信じないなんて言ったくせに、覚えているなんて、この人は。

私は内心少し笑って、足早に廊下を進む。
そういうところが好きなんだって、生き残ったら言おうと思った。

「……違う」

私は一歩、深く踏み込む。コートの裾を翻して、重心を前へ。
罠の地点はもう見えている。

「生き残って、ちゃんと伝えるわ……!」

走り出す。罠の一つを、飛び越える。
背後で連なる足音は、けたたましく脳内を揺らして追いかけてきた。追われているという事実は本能を恐怖で占め、それらをやたらと近くに感じさせた。
と同時。ばちばちと跳ねる、雷に似た音が響く。

きた!

私はブーツの底で無理に足を止め、振り返る。罠に足を取られながらも私に手を伸ばさんとする向こうに、剣を構えたクラサメが見えた。
挟撃!私は部屋から厳選して持ってきた、秘蔵の呪文書を乱雑に開く。

「ファイガ・ボム!!」

魔力消費なしで使える呪文書はとにかく便利で、寿命の縮まる心配もない。
問題は非常に高価であるというところだが、私にとってはそう大きな問題にはならなかった。呪文書はいくつも持っているのだ。

先人の遺産。そう呼ぶのがふさわしいだろう。
私たちは、命をミリテスに搾取されながらも、少しずつ外の世界に武器を確保し、代わる代わる守ってきた。呪文書もその一つ。私が持つには立派すぎる装身具や衣服も、とどのつまりそういうこと。

……まあ、それを私が一人でほとんどかっさらって有効活用している点についても、そういうことだけど。次代の子供が救われるかどうかなんて知らない。私とナギには、ルシ信仰の洗脳だってかからなかった。

「はああああッ!!」

クラサメの容赦ない斬撃が、背後から兵を屠る。青く透き通る剣は闇の中で輝いて見えた。彼は思っていたよりずっと強い。恐ろしく速く、鋭く、的確だった。クラサメが一閃放つだけで、兵は悲鳴を上げてひっくり返った。夥しい血が舞う中で、部隊は明らかに混乱していた。
私だけを追ってきたはずなのに、背後から明らかに自分たちの力量を越えた相手が襲い掛かってきたのでは焦るだろうと思う。

でも、そこで焦っている部隊なんて、クラサメと私の敵ではなかった。

「ファイア・ライフル!」

大きな魔法は無理でも、小さな魔法ならなんとかなる。私は柱の間を駆け抜けながら、魔法を放った。追いすがられ切りつけられながらも、私は懸命に攻撃を続けた。
最後の最後、立っていたのはクラサメと私だった。兵の死体の海を見下ろして、深く安堵の息を吐く。

「クラサメ、無事……?」

「問題ない。お前は……結構ひどくやられたな。見せてみろ」

背中から襲われたので、背中がぱっくりいっていた。戦闘中は必死だったので痛みを感じる余裕がなかったが、少しずつ痛みが忍び寄るみたいに近づいてくる。それ以上に、恐ろしいほど身体が熱い。特に背中が。だらだらと血が流れているのは、確認しなくてもわかる。
がくりと膝から崩れ落ちる。クラサメが支えてくれて、壁際に倒れ込んだ。

「これだけの傷はケアルでは塞げないな」

「や、焼いて……!」

「本気で言ってるのか!?」

「責任とってくれるでしょ?」

そう言って、滲む脂汗をごまかして笑うと、彼こそ痛みを感じたみたいに目を細めて視線を落とした。
それから、一瞬の空白があって、後。

「舌を噛むなよ」

「わかってるわ」

私は震える手で、持っていこうとしていた高価なレースのハンカチを取り出し、分厚くたたみ直して咥えた。壊れた服の留め金をクラサメが壊し、背中があらわになる。
直後、強い熱が私を襲った。

「っぐううううう……!!」

「耐えろ、すぐ血は止まる!」

目を強くつむって、痛みに耐えていると、そのうち許容量をオーバーしたのかふっと痛みが消えた。がくりと頭を投げ出して荒い息をしていると、クラサメが支えるように抱きとめてくれた。
泣きそうな気分だった。

「……やった、やったよクラサメ……私、生き延びたよ」

「ああ、生き延びた」

「生きてる……」

今日を生きたからって、明日は約束されない。
わかっている。これまで捕獲部隊から逃げ切ったルシがいないから、この後どれだけの追手がくるかわからなくなった。どれだけ殺せば逃げ切れるのかなんて定かではない。明日にも、新たな敵が襲ってくるのかもしれない。
それでも、きっと私はもう、あの独房に閉じ込められることはない。

クラサメが背中にケアルをかけてくれて、焼かれた痛みが溶けるように消えていくのを感じた。
私はゆっくりと、彼の腕にもたれかかる。

「あのね、クラサメ」

「ん?」

「私ね、あなたのこと……」

唇を彼の耳元に寄せた。
伝えたいことを、クラサメだけに伝える。

クラサメはむっつり黙り込んで、私の手を握り込んだ。熱が伝わって、嬉しかった。


しばしそうしていたが、痛みがほぼ消え去ったことに気付いて、私はゆっくり立ち上がった。クラサメが、つられて私を見上げる。

「どうした」

「どうした、って……どのみちここにはいられないわ。場所ばれちゃったし。いっそ海を渡って別の大陸に移れたらいいんだけどね、それは難しいかな」

「ちょっと待て、おい」

さてどうしようかなと考えを巡らせ始めた私を、まるで信じられないとでも言いたげな顔でクラサメは見た。どうしたの、と問うより早く、彼は何度もかぶりを振って、言うことには。

「ここまで守ってやったって言うのに、私の前でよくもまぁそんなことを……」

「クラサメ、何怒ってんの?」

「お前は、本当に……!ああもう!」

何やら言ってはいけないことを言ってしまったらしかった。
彼は舌打ちしかねない表情で、「守ってやるから」と言った。

「守ってやるからここにいろと言ってるんだ」

「……え?」

「一生守ってやるから、ずっとここにいろ!」

暫時の空白があった。
私はその意味をなんとか耳から頭に入れ、内容を分析し、咀嚼し、反芻した。ただの思考の割におそろしく時間を要して、結果。
なんとか、理解はした。

「で、でも、私何もできないんだけど!?魔法はそりゃちょっと使えるけど、他には何もできないよ!?薬草知識とかぶっちゃけ人に教えるレベルじゃないし!?」

「お前まだ嘘があるのか!?……しかしそれは確かにまずいな……教科を変えるか……」

「そういう問題じゃなくない!?」

理解はしても、納得なんてとてもとても。
私は必死に、否定の理由を探す。探さなくてもいいぐらいはっきりとした理由に思い至るのに、むしろ時間がかかった。

「それに、私は……私は、きっと執拗に追われるし、クラサメだってきっと狙われちゃうよ……」

子どもたちにも迷惑を掛けるだろう。クラサメと彼らは、私に人生を与えてくれた。ルブルムに来る前は、逃げる以外の自由意志など、私にはなかったのに。
だから、嫌だ。あなたたちにだけは、迷惑を掛けたくない。

「そんなこと完全に承知の上だ。当たり前だろう?」

この手を振り払う、強さがほしい。
一緒にいたいって単純な欲求を殺す剣を求めなければ。
でも結局、欲には勝てないんだ。

私はクラサメの腕の中で、伸ばした手をクラサメの首の後ろに回した。首を伸ばして、キスをする。
彼は驚いた顔をした。

「クラサメ、私のこと好きなんだ?」

返事はなかったけれど、頬にさっと朱が指すからわかりやすい。
嬉しすぎて笑ったのに、さっきはこらえた涙が目の端から頬を滑り落ちていった。幸せなんだか、それとも不幸になろうとしているんだか、わからなかった。







とりあえず今日はもう大丈夫だから部屋に戻ろうとクラサメが言って、私は腕を借りて立ち上がって、部屋がある階に戻るため地下を出た。
ミリテス兵の死体が地下に山積みになっていても、騒ぎにはなるだろうが犯人探しが激化するとも思えない。知らぬ存ぜぬを突き通すぞとクラサメはまるで簡単なことのように言い放った。

そうして二人、会話もなく廊下を歩いていると、少し先の壁の隙間から光が差し込んでいるのが見えた。
もう日が落ちて久しく、朝日の方が近いような時間帯だ。見回りの兵以外、起きているはずがない。

「クラサメ、あれ……」

「ホールだな……」

壁の反対側は、大ホールだった。式典やパーティが行われるための、城にはお決まりの大広間。かなり広いし、豪華なシャンデリアはあるし、中二階にあたるバルコニーまである。普段はほとんど使用されず、召使だって普段の掃除は一週間おき。そんな場所から、深夜に灯りが漏れる?
そんなはずない。あり得ない。

「……いるかもしれないわ」

殺しきれなかった兵が。もしかしたら、そこを拠点に城を探し回っているのかも。
可能性は低くない。私は魔法の詠唱の用意をし、クラサメは剣の柄を握った。薄闇で視線を絡ませ、軽くうなずき合って、早足で向かう。大広間の入り口に立って、数を数える。
機を計って、大きな扉を押し開けて中に飛び込む。

そして、言葉を失った。

「エース……!トレイ、シンク!」

「どういうことだ!?」

そこには、十二人の子どもたちが倒れていた。
私たちの、守るべき生徒。優しくて、強い子たち。それがどうして。

「……あらあら、こんな深夜に騒がしいこと……」

その声は決して大声ではないのに、やたらとよく通り、私とクラサメの肩を飛び上がらせた。弾かれたように声のした方を見ると、式典のときに使われる玉座のある、部屋の奥の一段高い場所に黒衣の女性が立っていた。黒い髪、眼鏡、艶やかな相貌、細長い煙管。
私でもクラサメでもおいそれとは顔を拝見できない、女王陛下だった。

「二人してどうしたっていうの?そんなにぼろぼろで。まるで殺し合いでもしたみたいじゃない」

「こ、これは……、そんなことより陛下、子どもたちが!」

「……ふふ」

女王は、クラサメの問いには答えず、長い袖で口許を隠して笑った。たおやかな仕草が、生まれ育ちを感じさせる。けれど、この人が昔ただの王女だった頃があるなんて信じられそうもなかった。

「まぁ、……見られてしまってはね?効果を試す意味もなくはなさそうだし」

女王の白い指先が虚空を滑り、光が走った。クラサメは目を見開いて困惑した様子でそれを見ていたが、私にはわかった。

ルシの魔法だった。色、威力、気配すべて。
その魔法は私たちの目の前に倒れていたエースに降り注ぐ。慌てて手を伸ばすより、エースが起き上がる方が早かった。

エースは目も開かないままで立ち上がり、ゆらゆらと揺れて、それから大きく目を見開いた。
その顔といったら、普段のエースとはまるで違った。血走った目なのに、眼球が真っ白。血管が首にいくつも浮き上がり、操り人形のように足を引きずって動く。

「え……エース……エース……!!」

「これはッ……どういうことだ!?陛下、あなたの子供に何をした!?」

女王はくすくす笑いで、石の玉座に腰を降ろす。そして薄く微笑んだまま、私たちを見ていた。
エースはどこを見ているんだかわからない顔で、そのくせまっすぐ私たちの方へ向かってくる。その手の中に、雷を見た。

「エースやめて!!」

私は悲鳴を上げながら、クラサメの前に滑り込んで魔法障壁を張る。サンダガ魔法は鋭い稲光になって、魔法障壁を叩き割った。なんとか防げたが、ルシの魔法を破る魔法だなんて。
そんなものを放つなんて、もしかして、エースは……。

「嘘でしょ……?エースも、……」

ルシ。
そんな馬鹿なことあるわけないと思うから、言葉にはできなかった。

「……ミリテスだけが、ルシを集めていると思ったのかしら?」

女王は至極不思議そうに私を見て、問うた。

「ルブルムはルシの血を継ぐ国なのだから、私がルシなのは当たり前よ。そして子どもたちがルシなのもね」

「そ、そんなことよりも!あなたがエースに何をしてるのかの方が問題よ!何よこれ!?」

「ああ、うるさいわねぇ……」

女王はうんざりだという顔で煙管を振った。その目の動きでわかる。
彼女はエースに、命令をしたのだ。おそらくは、私たちを排除せよと。

「クラサメッ……!」

「ああ、わかってる!」

何が最悪かって、相手がエースであることだ。エースを傷つけるわけにはいかないが、私の魔法を破れるほどの威力の魔法を軽々と放たれては手加減なんてできるわけがない。
私一人だったら、命を使い果たしてでも彼を殺そうとしなければならない。そうでなければ、殺されてしまうから。

私は慌てて、クラサメにプロテス魔法とシェル魔法、アボイド魔法をかけた。耳の奥がきりきり痛んだが、構っていられない。

「魔法を使いすぎるな!」

「言ってる場合かな!?いいから戦うよ!」

その上で、ウォール魔法までかけてクラサメの前に魔法障壁を築く。目眩がしたけれど足で踏ん張った。これでクラサメは、一歩引けば防衛だってできる。そのほうが私だって安心に決まってる。

クラサメは剣を抜かず、鞘のついたままでエースに向け構えた。なんとかエースを無力化しないといけない。

「脳震盪くらいは覚悟しろ、エース……!」

それぐらいで済むなら充分すぎるほどに快挙だろうと思う。私は背筋が粟立つのを感じながら、考える。一番軽傷で済むのは何だ?冷気よりは炎の方がマシだろうか。
雷は論外だ、だって。

「うぐぁおおおおッ!!?」

「なッ!!?」

エースが奇声を上げて、クラサメの鋭い一撃をかいくぐった。そして後援でファイア魔法を錬成する私に向かって、人間とは思えない尋常でない動きで襲い掛かってくる。
その手の中には、最初そうだったように、雷があった。私が前提で弾いた、サンダガ・ライフルが。

雷は論外よ。仮に、大事な人を傷つけなければならない時があったとしたら。
だって雷は。

「っひ、あッ……!」

喉からは絞られたみたいな音がした。声ではなかった。
エースの左手に籠められたサンダガは、私の腹部を間違いなく強打し、全身に紫電が絡みつくのがわかった。
声が出ない。痛みよりずっと強いのは痺れだ。でもきっと、この痺れが治まったら、次に来るのは痛みだとわかっている。

内蔵が焼けている。雷は人の内側に潜って、焼いてしまう。

「    !!」

クラサメが何事か叫んでいる。私の名前のように聞こえた。

その瞬間だった。エースの白く濁った目が、至近距離で間違いなく私を見た。

縦にひび割れてだらだら血を流す唇が、目の前で動く。

「こ……ろし……」

いっそ金属音にも似た高い音。声だと後からわかった。
エースは唸るように、たしかに言った。

ころ。
し。
て?

「エー、ス……ッ?」

正気が戻ったのかと、私は彼に手を伸ばす。だがその瞬間、エースの目はまた焦点がかっとズレた。
まずい!

そう思うより早く、衝撃で数メートル吹き飛ばされて私は大広間の地面に転がった。痺れが痛みに変わるのを感じながら、それでも立て直そうとする。

と、私がケアルを唱えながら立ち上がる視線の先で、クラサメがエースを背中から殴打した。
エースは潰れるような悲鳴を上げて、ぐったり地面に倒れ臥す。クラサメはエースを見下ろしていたが、気づいたように私に駆け寄ってきて助け起こしてくれた。

「起きられるか」

「平気……エースは?」

「気絶させただけだ。できるだけ早く、治療はせねばならないが……」

「……クラサメ」

クラサメは気付いていない。
エースが、“震えている”。

「クラサメ!!」

クラサメはエースを振り向いて、目を見開いた。エースの身体は上下に痙攣し、びくびくと跳ね。
私の目には、ルシの魔力が濃く深くなるのが見えていた。否、あれは、エースの全身に満ちていた魔力が、身体の中心に集まっている?

こんなの見たことない。
何が起きるのかわからないけれど、ひどいことになるのは肌が感じ取っていた。

「エース!!」

「ダメ!!」

飛び出そうとするクラサメの腕を掴んで、止めた。渾身の力を篭めて、クラサメを天井を支える柱の影に引きずり込んだ。それとほぼ同時だった。

破裂音に、近かった。そうだ、あれに似ている。農村部の子どもたちに、年に一度だけ菓子をつめた人形が王都から送られて、子どもたちはそれを木の棒で叩いて破る……。
あの、人形が割れる音に、近かった。

嫌な予感しかしなくて、私とクラサメはふらつきながらまろび出る。
エースのきれいな、白い顔は無事だった。それしかわからなかった。彼の身体は爆発して、四肢が切れて散っていた。


クラサメの悲鳴は、唸り声に近かったと思う。喉が割れそうに痛くて、私自身もまた自分の悲鳴を止められなかったから、よく覚えてはいない。



「……ああ、悪い子ね。エース」

彼女の声は、あまりに平坦すぎて。
むしろ、よく聞き取れず、わからなかった。

「こんなに脆いんじゃ、まだ実用には耐えないかもしれないわ。仕方がないわねぇ……」

女王は浅くため息を吐いた。庭師が誤ってポピーを枯らしたと聞いた時と、同じ仕草だった。

「女王、貴様、なんてことを……!」

「立場をわきまえなさいクラサメ。君主に対してひどい口の利き方」

そう言いながら、そんなことは至極どうでもよさそうな女王。
私たちはいよいよもって、大混乱していた。

それでも、私は問うた。

「子どもたちをどうするつもりなのよ!?」

「……?あなたはそもそも、魔法兵器を探しに来たんでしょう?ミリテスのルシの娘。そして子どもたちがそれだと気付いた。違ったかしら?」

「何で知ってっ……そうじゃないわ、そうじゃない!そんなこともうどうだっていいの!エースはどうしてこんなっ……!!」

「だから、そのために連れてきた子だって。わかってるでしょうに?」

話が通じているのかいないのかわからなかったが、しかし。
それで妙に、腑に落ちるものがあった。

そのために連れてきた。そうか、それじゃあ最初から、ミリテスのしてきたことと彼女のしていることは同じなんだ。
どちらがよりひどいかは考えないように努めた。どうだっていいことだから。

何が起きたのかも、わかってしまった。
女王は、エースを間違いなく爆弾にした。そして、破裂の瞬間の気配は。あの感覚は……。

「エースは……私たちを殺さないようにしたんだ」

「クラサメ……」

「最後、魔力の収縮を感じただろう……あれは、エースが己の中に魔力を封じ込めようとしていたんだ」

クラサメもルシの血を持っていると言っていた。だから、私ほどではなくとも感じ取ったのかもしれない。そう思った。

女王は退屈そうに首を傾げ、困惑を極めながらも必死に適応しようとする私たちを笑った。

「さて、どうしようかしら。まだ十一あるけれど、もう十一しかないとも言える。けれどあなたたちをこのまま生きて帰せば、面倒なことになるわね」

「女王……!」

「でもま、あなたたちを殺せばこの子達も悲しむでしょうし。……そうね、しばらく黙っていてもらいましょうか」

女王は煙管を口許に寄せ、吸って、吐いた。ふっと揺蕩う紫煙は、ゆらゆらと天に立ち上ったが、不意にどすぐろくその色を変えた。
そして、突如勢いを得て、凄まじい速度で黒い煙は私たちにまっすぐ向かってくる。

いや、私たちに、じゃない。
それは私に向かってきていた。

「どちらかと言えばあなたの方が厄介だわ。魔法の解除方法でも考案されかねないものね」

女王はつぶやくように言った。私は覚悟を決め、それでも反撃のために魔法の詠唱を始める。
そして、直後。

「ぐっ……」

しかし、私の魔法が発動することはなかった。

「……クラサメ?」

黒い影だ。彼がコートの裾を翻して、私の前に滑り込んだ。
私を隠すように、抱きとめて庇って。

「逃げろ……!」

最後にそんな声が聞こえた。
一瞬だけ、体温が混じった気がした。

「クラサメ」

彼の名前を重ねて呼んでも、返答はもうなかった。服ごと彼は、石になっていた。

女王がかけたのは、あの黒い煙は、石化の呪いだった。存在は知っていたが、使用できるルシなど知らない。それぐらい高度な魔法だから、解き方など当然わからない。わかっていても、私にできるものとも思えない。

なんてこと。

「クラサメ!!クラサメ、クラサメ、どうして、クラサメ、うそ、うそ……!!」

彼にすがりついて、揺すろうとして。
彼がまるで動かなくて。
本当に、石像みたいで。

吐きそうになった。

「……あら、あらあら……。そういうことをしそうな男には見えなかったわ」

「……てめぇ……何を、何をしてッ……!呪いを解きなさいよ!!」

「そう言われて解くなら、最初からかけないと思わないの?愚かな娘」

本当に、私をただ馬鹿にしたような声音。もう腹も立たない。
ただ、異様な喪失感と絶望があるだけ。

「…………」

詰んだな。
いっそ冷静になって取り戻した思考は、ただ静かにそう告げた。

私は死にかけ、クラサメは石化させられてしまった。石化の呪いを解くのは私には不可能だし、時間経過を待つにしてもどれだけ時間がかかるかわからない。相手がルシで、こんな呪いをかけられるほど強大ならなおさら。数百年だってかかるだろう。
ここを生き延びたって、クラサメが目覚めるまで生きていられないわ。
だからあなたの命令は聞けない。

詰んでる。笑えるくらい見事に。

「……はー、最悪」

全く恋は最悪だ。
何を考えてるの、私。

「セツナ様、慈悲を」

石になったクラサメを抱きしめて、転移魔法を発動させる。狙ったのは王家のための牢だ。塔の天井近くに吊るされた牢は、女王には下ろせない呪いがかかっているはずだった。王家に連なる者全て、その呪いに縛られる。
これで彼は安全なはずだ。そう信じよう。

そして私は、私を呪いで縛る。

「慈悲を……!」

叶うかなんてわからない。
それでも挑もう。どんな結果になっても、恨みはしない。

クラサメが目覚める数百年後、その日に必ず“私”が居合わせますように。
枯れゆく命の殆どを使って、私は呪いをかけた。

心臓がどくりと、嫌な音で鳴った。不整脈を正してる時間はない。


奇しくも、母と同じ言葉を吐いた男を放っておけないから、私はここに戻ってこよう。
私が私でなくなっていても、どんな老婆でも子供でも構わないから、きっとここに戻ってこよう。
あなたを置いて逃げられないから、この想いを恋と呼ぶのだ。


私は顔を上げる。

「……またお会いしましょう、女王陛下」

笑う。顔の筋肉が引きつるけれど、構わず笑う。

睨む。全ての怒りを見せつけるように。

「約束よ陛下。そしてそのときは、私たちが必ず、あなたを……」

殺すから。




生まれ変わるための呪いに全てを使い果たして、残り滓の命はきっと数分保つまい。
私は指先に、身体に残った枯れかけの魔力をかき集める。
そこで精錬される魔力は、どこまでも透き通りながら、炎の煌めきを映し出す。

その鋭いファイア・ライフルの弾丸を、私は自分の頭に押し当てた。

プシュ。そんな奇妙な音がして、こめかみの両方から風穴が開いた。
クラサメがいなくなった後の広間、床に倒れ臥す、その瞬間に私の意識は途絶えた。






……その後のこと?
私より、あなたの方が詳しいんじゃないかしら?




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