ベンチで休み、顔を上げた頃には、私は気恥ずかしさでクラサメの顔を見られなくなっていた。
そういえば、なんだかんだと慌ただしくてきちんと聞けていないが。

「……あのね、私ね……600年前のことなんじゃないかなー?って感じの、夢を見てるんだけど……あのさ、クラサメも同じ夢を見てたりしないよね?」

クラサメはいっそ怪訝な顔をして目を細めた。私は暫し考え込んでから、質問を詳細にする。

「私の見てる夢は、とある女性が主人公みたいなんだけど。……だからね、その人の感情とか全部私に飛び込んでくるの。クラサメにもそれ、わかる?」

そう聞くと、クラサメは目を瞠り、慌てた様子で首を横に振った。どうやら違うらしい。
では見た夢に関して妙に話が通じやすいのはどういうことかと、質問を少しずつ変えて尋ねてみた結果、その夢の中に存在するクラサメの視点から夢を見ているらしかった。

「そっか、そうなんだ……」

よかった、あの世界の私の剥き出しの好意は知られてしまってはいないみたい。
私があからさまに安堵するので、クラサメは僅かに不機嫌そうな顔をした。私はその表情の変化に戸惑ったけれど、それを問いただしている時間はなさそうだった。

クラサメは立ち上がり、闘技場の奥に進んでいく。私の手を取ってはくれなかったから、慌ててその背を追って走る。

クラサメが時間をかけて開いた闘技場奥の大扉の先には、見たこともないくらいに大きな鏡があった。人が縦に二人並んでようやく直径に足りそうな、円い鏡が。
その鏡を、クラサメは押す。手伝うべきかと駆け寄る私を制止して、彼は一人で鏡を回した。
夕暮れの太陽の光がまっすぐ鏡に当たり、反射して闘技場の中を貫くように伸びている。

「わー……きれいだね」

私が初めて見たものに驚いて漏らす感嘆詞に、クラサメはしぶい顔をした。その顔の意味がわからなかったらよかったなと思った。
あの夢の中でクラサメと渡り合った女は、こんな安い感想を言わないのだ。おそらくは。

それでも、私はこう在るしかないのだ。私が彼女になれない以上は。


クラサメはどこか諦めたように私の手を握り、もう一度来た道を戻っていく。そうして闘技場の外に出ると、真反対の建物に向かっていく。
途中、ちょうど二つの建物の中間の辺りで光は消えている。

反対側の建物は、よく似ていると思ったことを裏付けるみたいに、闘技場と全くそっくりな建物だった。外見だけではなく、中までもが。

「……どうしてこんなにそっくりなの?」

問うてみても、クラサメはなんら返答をしなかった。声がないのは当然でも、肯定も否定もないのは初めてだ。

存在を無視されてはいない。彼は変わらず優しい。段差では振り返り、力を籠めずに手を引いて、努めて優しくしようとしてるのだとわかった。
その努力が窺えてしまうのが、どうしようもなく悲しくて悔しい。私はそんなにも、あの夢の中の彼女に似ているのか。そして……彼女と比べて、不足なのか。

そう問う暇も与えてはくれず、クラサメは先程の闘技場でそうしたように、奥の扉へ向かっていく。

『……まさかこんなやり方を知っているとは、思わなかったぞ』

『というか、あったんだなこんな方法が。俺は知りもしなかったが』

「……何でだまし討ちみたいに現れるの」

つい反射的にそう問うた声は随分拗ねた色をしていた。そのことに、振り向いた先の影が面食らったのを感じる。
影の声は、おそらくキングとセブンだった。

『驚いた。本当に先生に似てるな』

『というか、本人じゃないのか?マザーの言葉を思うにそれぐらいのこと叶いそうなものだが』

『そうは言ってもな……常識で考えたらあり得ないだろう。よく似た別人だと思った方がいいんじゃないか』

二人は私を指差して、あれやこれやと言っている。その口調を裏返せば、やはり今まで彼らは私とあの彼女を同一視しきってはいなかったということになる。
思えば何人か、それらしきことを言っていた。そこまで意識する余裕はなかったが、所詮その程度の認識だったのだ。

「よく似た別人だと思うなら、私のことなんて放っておいてくれればいいのに……!」

『あー……そうだな。アンタからしたら、きっとそう思うんだろう。その点についてはすまなく思うよ』

セブンがためらいと遠慮の入り混じった声で言う。が、隣でキングが銃を回す。

『だが、今見逃して、やはり後で殺すべきとなったら七面倒臭い。お前が別人だと言うのなら生きている価値があるわけでもなし、殺しておくのが得策だ』

「どうしてそんなに、私を憎むの?エースに何があったの」

夢の中では辿れていない、秘密の最奥。
エースという少年に何があったのか、それがわからないからこの話は決着しない気がする。

『やはり、よく似た別人なんだろうな。あいつのことを知らないなんて。……エースは、お前と同じ顔をした女と……そこにいる、クラサメ先生に殺されたんだ』

「え……」

『寒い冬の夜だった。私たちが目を覚ましたときにはエースは死んでいた。クラサメはもう逃げた後で、アンタは死んでいた』

「ちょ……ちょっと待ってよ、それじゃあエースが殺されたとは、」

『マザーが言っていた。エースは、お前たちに殺されたとな。マザーは俺たちに嘘はつかない』

『エースが死んだのは、もしかしたら過失だったのかもしれないと思うよ。けど、殺されたのは事実なんだろう。私たちはここで生きていくしかないから、アンタたちには死んでもらわないとだめなんだ』

『クラサメは牢獄塔に逃げたって、マザーは言ってた。王族の俺たちはあの塔の階段を登れないから、良い逃げ場だったろう』

牢獄塔。
その言葉が指す場所が、きっとクラサメと出会ったあの塔のことなんだろう。思えば、クラサメが入っていたのはきっと、懲罰のための吊るし牢だったんだ。
私は彼の横顔を見る。あの世界の“私”は、600年前、彼に何をしたんだろう。彼らに何をしたんだろう。
考えても考えても、どうせわからないのに。

『でもチャンスがやっときた。これでみんな、ゆっくり眠れる。……エースはもういないけど』

セブンの手の中に、光が煌めく。蝋燭の灯りなんて比較にもならない強い光は、どんどん渦巻いて大きくなるような気がしていた。

「く、クラサメ……ッ!」

クラサメは私の腕を掴み、私を遠くに押しやった。転んで、腕や膝を擦りむいて、顔を上げるのに時間がかかった。
見上げた先、そこにはクラサメがいたけれど、異変にはすぐ気がついた。武器になるものがなかったらしいクラサメは、攻撃を避けることに終始していた。

「な、なに、あれ……!」

断続的に降り注ぐ銃弾の音。それに加えて鞭らしき黒くうねる武器がクラサメに迫る。
クラサメは間一髪避けているけれど、長く続かないことはわかっていた。

「どうし、どうしよう……っ」

トレイとサイスが襲ってきた時も、同じような状況だった。けれどあの時は、階段が多い変則的な場所だった。私でもトレイを押さえることができたし、何よりあの二人は本気じゃなかったように思う。後から思えば。
この子たちはいつも、諦めるのが早い。……そう、後から思えば。

後から思えばの範疇を出ないけど、この子たち。

「……本当なの?」

私の問いはきっと彼らには届かないだろうと思う。声を荒げたって、聞いてもくれないと思う。
でも、この子たちは。

「“私たちを殺したいなんて、そんなこと、思ってないんじゃないの?”」

いつだって殺すことはできたはずだ。なんたって、私は何もできない女だ。いくらクラサメが守ってくれると言ったって、殺すことはまるで難しくなかったはずだ。
でも彼らはいつも私を見逃してきた。

もしそうなら、まだきっと……600年前の償いは、できるんじゃないのか。
足が震える。でも、戦わなくちゃ。クラサメのためにも、彼らのためにも、あの世界の私のためにも。
私なりにできることを考える。とっさに思いついたのは、先程クラサメが反対側の闘技場で動かした、あの鏡。

あのためにクラサメがここへ来たのなら、それさえ終わればここを出られる。逃げられるはずだ。


私は走って、闘技場の反対に抜けていく。彼らは気づかない。私が役に立たない人間だと、知っているのだろう。
奥の円い大扉を開けようとしたが、全力で押してもまるで動かなかった。反対側で何かが引っかかっている気がした。

他に出口はないかと、私は必死に周囲を見回す。と、梯子が壁に沿って伸びているのを見つけた。視線を滑らせ、見つけた道の順路を調べる。
梯子の先は、壁の模様にも見えるほど細い壁の出っ張りにつながっている。出っ張りはところどころ崩れているように見えた。おそらくは、点検や非常時にのみ使用するための道だったのだろう。
登ったとて、その出っ張りを歩いた先に何があるかわからない。反対側に抜ける道があるとしても、たどり着けるかどうか。

「でも……」

背後で響く、戦闘による金属音が、私を急かした。
足を滑らせたらただでは済まない高さだ。私は靴を脱いだ。
梯子に手をかけ足をかけ、おそるおそると、だが確実に登っていく。

なんとか出っ張りのところまで来た。近くで見るとなおさら狭い道だ。私は片足をひっかけて、なんとか出っ張りの上に載った。

「っは、は……」

下を見ると、落ちそうになる。視線は高く保ったまま、壁に沿って私は少しずつ進んでいく。暗かった天井は近くに寄れば見えてくる。出っ張りが少しずつ広くなっていき、行き止まりには小さなドアがあった。
私は逸る気持ちを抑えて、なんとかドアの前に辿り着く。南京錠がぶらさがっていたが、腐食が激しく、何度か叩いたらヒビが入った。手に走る痛みも無視して、私は鍵を壊す。

扉を押し開けた瞬間、眩しさに目が眩んだ。橙色の光に踏み出して、掛けられていた梯子を下る。「ああっ!?」こちらも腐食が激しく、途中で足が抜けてしまった。滑り落ちて、尻もちをついてしまう。あまりの痛みに暫し悶絶したが、立ち止まっていられない。私は立ち上がると、先程開かなかった扉に閂がかかっているのに気がつく。それを外して、強く引くと、少しずつだが円い扉は開き始める。

「もうちょっと……!」

扉が開くと、光がクラサメたちを照らした。遠くからでもわかる。と、セブンたちが戸惑ったように私を見て、慌ててこちらに進路を変えた。

『させるかッ……!』

『セブンはクラサメを止めろ!あいつは俺がッ』

私はすぐ翻って、鏡に手を掛ける。扉よりずっと重く、けれど動かし始めたら勢い良く回って、光を強く反射した。
そしてつんざく光はまっすぐに闘技場の真ん中を突っ切って、反対側の闘技場から放たれた光に混ざった。これで、二つの光が闘技場と闘技場の間で合わさっていることになる。

光はずっと遠くにいる私の目すら焼く強さで輝く。

『ぐっ!?』

『うわぁッ……!!』

強い光が影を消し去ってしまうのは当然のことだ。私とクラサメを残して、光は二人を消してしまった。
後には私たちだけが残された。

強すぎた太陽光は、ゆっくりと輝きを失い、落ち着きはじめる。なんとか私はクラサメと合流して、二人で闘技場を出て外に向かった。
そして、私は驚きに目を瞠ることになった。混ざったはずの二つの光の収束点は、また新たに光を発し、その光がまたもまっすぐ伸びていたからだ。
記憶が確かなら、きっと城門の方向だろうと思う。

「も、もしかして……これで城門が開くの?」

クラサメは浅く頷いた。

彼はまた私の手を引いて、走り出す。その速度は先程までの、私を気遣うものではなくて、まるで私の腕が抜けても構わないとでも言いたげな速さだった。
クラサメに見放されたのだ。今はただ、この城から出ることだけを彼は考えている。


……。

……?


いや、そんなはずはない。だって、もう城門は開いたのだ。私を見捨てるのなら、捨て置いたっていいはず。私なんていなくたって、外には出られるのだから。
じゃあどうして、彼はこの手を離さないのだろう?


考えている間に、私たちは城門へ至っていた。やっと見えてきた城門は確かに大きく開いていて、今なら外に出られるとわかっていた。
クラサメは私の手を引いて走る。いつの間にやら、時間帯は夜に差し掛かり、月明かりだけが世界を照らしていた。

ぐいぐい引かれて腕が痛むも、クラサメはお構いなしに進んでいく。そして最後、扉の眼前に至って、ようやく彼は止まった。

クラサメは私を振り返る。

「……」

「く、クラサメ?」

言葉はない。クラサメは私の両肩を掴み、扉の方へ追いやった。
真剣な目が恐ろしくて、私は竦む。

「クラサメ……?ねえ、一緒に行こうよ?外の世界に、一緒に……」

クラサメは首を横に振る。

「どうして?……外に行けない理由があるの?」

また否定の意を示す。

「どうして?私が役に立たないから?」

否定。

「……私が、“彼女”じゃないから?」

クラサメは、まるで慣らいであるかのように首を横に振ろうとして、止まった。
それが答えだと思った。

「じゃあ、私がもし」

ああ私は何を言おうとしているんだろう、言ってどうなるんだろう誰がどうなるんだろう私は救われるんだろうか彼女はどこにいるんだろうか。

「私が、彼女なら……」

ざあっ、と嫌な風が吹いた。突風は扉を強く押して、またゆっくり閉じようとしていた。
私は慌ててクラサメの手を引いたが、彼はあっさりそれを振りほどき、私を突き飛ばした。

「きゃあっ!?」

体が一瞬だけ宙に浮いた、その瞬間だった。
強い風が、私を押し出した。傾ぐ体は、門の外へ倒れ込み、門から伸びる橋の上に落ちた。
大陸から海へ張り出すようにして存在する城の、大陸へつながる唯一の橋だ。私は一瞬、海面からのあまりの高さに身震いした。

「クラサメ!」

彼の名を呼ぶが、彼はこちらを見ていなかった。私とは反対側、夜闇からゆっくり迫りくるあの“女王”を見ていた。

まずいと思った。私は慌てて手を伸ばす。クラサメの腕を取った。さあ早く。
必死に体重を掛けて彼を引っ張ったのに、なのに私は。

「きゃっ……!?」

クラサメは勢い良く私を振り払う。弾かれて落ちる私、痛み。女王が翳す手の中には、魔法らしき黒い何かがあった。その何かはゆっくりと大きくなり、クラサメを染めていくように見えた。
嫌だ。これじゃ逃げられない。
私ひとりじゃきっと、逃げたことにならないんだ。

その直感はきっと正しい自信があった。けれどクラサメは振り返ると、首をそっと横に振った。

もう諦めているから、お前も諦めろ。
そういう意味だと、言われなくてもわかった。

「……嫌だ」

扉が閉まり始める。世界が私を閉め出そうとしている。
置いてはいけないかのひとを置いて、私だけが安全圏に追い出されてしまう。

「嫌だっ……」

彼に出会ったのはあの鳥かごの前。
彼に出会ったのは春の貴賓室。

彼に出会ったのは今日の朝。
彼に出会ったのは、六百年前の夜。

「“六百年待ったのは、あなただけじゃないのに!!”」

私の口を借りて叫ばれた言葉にクラサメがもう一度振り返った。その目が見開かれる前に、扉は完全に閉まってしまう。
その扉が、外からでは開く術がないことはわかっていた。けれどそれじゃあ、もう手段もない……。

どうしていいかわからず拳を握りしめて震える私の耳に、奇妙な音が届いた。ピシピシと、何かが割れるような音。
それは足元から聞こえ、私は橋に視線をやる。

見れば、細かい亀裂が何十と走り、橋の寿命がすでに尽きかけていることを感じさせた。「逃げなきゃ、」そう思った。
けれどそこで戸惑った。

亀裂は城の門を出てすぐの辺りにも走っている。逃げるなら、城と反対の森へ向かうべきだ。そうでないと、橋が落ちたら私も死ぬだろう。
でも、と城を振り返る。彼を置いて逃げるわけにはいかない。逃げてしまったら、城へ入る手段が。

「……あれ……?」

待てよ?
私は考える。

この城に入るとき、確か私は、地下を通ったはずだ。じゃああの道をもう一度たどれば中に入れるし、……神官たちが通った出口があるのでは?

そう思った瞬間だった。
同時に響いたピシ、という音は、それまでのものよりずっと決定的な音だった。まずいと思うより早く、足元が抜ける。

「あ……っ!!」

クラサメ。

彼の名を呼ぶ間もなく、私の体は傾いで落ちる。
叩きつけられる刹那、彼の声が聞こえた気がした。



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