Flame you came to me.
(あなたの方から近づいてきたのよ。)



夢主の名前を入力し、変換をクリックかタップしてください。デフォルトだと“ナツメ”になっています。








彼と出会ったのは、悪夢みたいな夜だったことを覚えている。









「……クラサメ、なんで私の皿にだけやたらと載せるのよ」

「昨日何も食べてないだろう。知ってるからな」

「うっ……なんでバレて……」

一緒に住んでいるアパートはミドルタウンの、ダウンタウンとのちょうど堺のあたりにあって、喧騒も少なく過ごしやすい。ウエストビレッジだから交通の便もいい。ニューヨークには珍しく、シャワールームにバスタブがあるのが気に入り。
貯蓄に頼る暮らしは気楽でいい。この間の、インサイダー取引のための情報を手に入れる仕事はかなり実入りがよかった。半年は仕事をしなくても余裕がある。

ナツメがクラサメと暮らし始めてもうそろそろ一年にもなるか。ふと思い立って手帳をばさばさ捲ってみると、来週で一年だということに気がついた。

「クラサメクラサメ、来週で私たち付き合いだして一年だよ!」

「もうそんなになるか」

「なんかおいしいもの食べに行こっか?アッパーイーストサイドならそういうアホみたいに高くておいしいレストランいっぱいあるでしょ?」

「わかったから、もう、落ち着け」

下着姿で騒ぐナツメにクラサメが苦笑する。ナツメはクラサメに抱きついて、後ろからベルトを外してみたりする。朝から誘うなという渋い声に、ナツメは挑発的な笑みを返す。
一体どうして朝から勤しんじゃいけないわけ?Work,work,work.なんて、鼻歌を歌ってみたり。

二人でシーツの中に寝転んで、話をする。
今日はどうしようか、冷蔵庫がそろそろ空だから午後になったら市場にいこうか。
服も見たいな、ちょっと付き合ってよ。
それで、次の仕事はどうするんだ?

ナツメは熱の中にまどろんで、あの悪夢の夜のことを考える。
あれは最悪の仕事だった。


仕事は、ナツメの人生の長さと比較すれば、もう長いことやっていると言えるだろう。大学を中退したのが十九だけれど、それ以前から手癖は十二分に悪かった。それに、長さより密度の業界だ。長くやっているから、ではなく、どれだけ大きい仕事を上げたかが信頼になる。その点で言うなら、ナツメはもう立派に中堅どころ。
盗みの腕にかけてなら、いまニューヨークにいるほとんどの泥棒に競り勝つ自信があった。

そのナツメにとってさえ、ひどい仕事。
それは、例えばすでに解いたはずのセキュリティに何度も引っかかって、肝を潰す思いでくぐり抜けて、最後の最後に最重要のお宝を真横から掠め取られた一件だ。その男はナツメの獲物をあっさり奪い、ナツメに一瞥をくれさっさと自分だけ逃げてくれた。おかげでまたセキュリティにひっかかった。そんな、ナツメのキャリアに失点を刻み込んだ仕事。
いやそれについては、もういい。もういいのだけれど。

「……あー未だに気になるんだけど!あの仕事、どうやったのよぉ」

「まだ言うか。しつこいぞさすがに」

「だって!だって!」

私がやりこめられるなんて思ってなかった。ナツメは未だに、最悪の仕事の一週間後、あの夜のことを忘れていない。






その日、儲けを全額彼に取られて一週間、ナツメはひどく落ち込んでいた。だから、信頼の失墜をどうやって取り返そうか、仕事の計画立てるのには時間がかかるしと、見つけたばかりのダウンタウンのバーにふらふらと入った。
カウンターに座り、ブラッディ・マリーをウォッカ多めにオーダーして、口をつけて、薄いトマトと塩の匂いを感じながら視線を滑らせた。意図など何もなく。

そして、彼を見つけた。彼は壁際の席で飲んでいた。
最初の一瞬は、純粋に見とれた。綺麗な男だと思ったから。
けれど次の瞬間には視線が絡んで、お互いの正体に気付いた。

「あんた……!あんた、よくも!」

立ち上がってヒールをつかつか言わせながら彼に近づくと、彼はわかりやすく面倒そうな顔をした。

あんたよくも私の手柄を奪ってくれたわねどうしてくれんのよ汚名を濯ぐのに一体何年かかるかわからないわ!
まくし立てるナツメにクラサメは浅く息を吐いて、バーテンダーに何やら手で合図をした。すると、話のわかるバーテンダーだったらしい。彼はナツメのオーダーしたブラッディ・マリーをささっとクラサメの対面の席に持ってきてしまう。
後から聞いた話では、もう長いこと知り合いのバーテンダーで、壁際で会話も聞かれにくい席をクラサメのために空けておいてくれるような仲だったらしい。が、それはいいとして。

「やかましい。店にも迷惑だ、座れ」

「んなっ……」

世界でその瞬間一番憎い相手からそんなことを言われて、ナツメは口をぱくつかせて反論の言葉を探したが、それが見つかるより早く、周囲の自分に向けられた奇異の視線に気付いた。
男女の修羅場だなんて思われるのも心外だったので、ナツメは渋々ながら己のブラッディ・マリーの前に腰をおろした。

「なんであんたこんなとこにいんのよっ……」

「それは住んでるからだ。……いや、正確には住んでるのはミドルタウンだが、ミドルタウンのバーは鼻持ちならない店主が多い」

ナツメはさっと片眉を上げ、微かに頷いた。あまりにも、自分と同じ理由だったからだ。ナツメもそれが理由で、アッパーウェストサイドの端に住んでいる身でわざわざダウンタウンまで降りてきている。

「それで?恨み言が言いたいのか?」

「そりゃそうでしょうよ。挙句囮にまでしやがって」

「だろうな。……だが、あれは仕事だ。私は自分の仕事をしたまでのことだ。そこにちょうどいいカモがいたから囮にした。お前だって同じことをするだろう?」

「……それは」

そう言われてしまうとぐうの音も出ない。
……というか、こんなのまるで正当性のない怒りだってことくらいはナツメにもよくわかっているのだ。やるかやられるか、それだけの話だ。
ただ感情の部分で、怒りが収まらなかっただけ。

それでも口の端を歪めて悔しがるナツメに、クラサメも思うところがあったのか、バーテンダーを呼びつけた。

「どうしました?」

「テキーラボトルで。面倒だから潰す」

「はーい」

「ちょっと待て。その面倒なのって私のこと?」

「他に誰がいる」

ナツメは低く唸って、すぐ並べられた二つのショットグラスとテキーラの瓶を見遣り、彼がややぞんざいに注ぐのを見て、ブラッディ・マリーのグラスを手に取る。
躊躇いならあった。あるはずだ。飲めるはずがない。
会ったばかりの男が注ぐ酒など、飲めるはずが。
なのに、脳がいつもどおりの警鐘を鳴らさない。平衡感覚は狂わない、恐怖はない、冷や汗もない。

ナツメはブラッディ・マリーを飲み干す。血塗れの女王が喉に消える。
なぜだかわからない。でも、飲める気がした。それはつまり己が普通の人間になれるかもしれないチャンスで、最悪の危険である。

ナツメは指先で、グラスを手繰り、手に取る。そして、ぐい、と一気に飲み干すと、ウォッカの強いアルコールが喉を焼くような気配がした。

「言っとくけど私だって他に狙ってる奴がいるって知ってたらもっと早く確実に盗んだんだから」

「終わってから言えば負け惜しみだな」

「ぐ、……2009年シンガポールは私だって一枚噛んでた」

「2014年ロンドン」

「今年のロスの強盗は私が計画書作った!」

「去年のヴェネツィアは私の仕事だ」

「……嘘」

「なぜ嘘だと」

「だってあんな仕事する人間が……何でニューヨークでテキーラ飲んでるのよ」

ナツメとは格が違う、大規模な仕事ばかりを例に上げた男は、クラサメと名乗った。今はほとんど休業中で、知り合いに頼み込まれでもしなければ仕事はしていないのだと言った。
妙に打ち解けて、というのは言い過ぎだったかもしれないが、明らかな格上であると知ればきゃんきゃん喚くのもあまりにみっともない。そういう思いが怒りを鎮火させ、結局ナツメは過去の仕事を大概暴露してしまって、言葉少なに語られる彼の話に聞き入ってしまっていた。
そのうちに、酒もよく回る。

客がほとんどいなくなって、閉店するとバーテンダーに追い出されたとき、ナツメは一人ではまっすぐ立つこともままならなかった。さすがにここまで限度も知らず飲むバカはそうそういないぞとクラサメは渋い顔をして、ナツメに肩を貸して店を出た。ちなみに、このときの支払いは全てクラサメ持ちだった。ナツメはそれを後で知って、返そうと思ったのに、じゃああれが最初のデートの代わりで、なんて雑なことを言うものだから結局そのままになっている。

彼はタクシーを捕まえて、ナツメを乗せ、運転手に100ドル札を渡し、住所は言えるかとナツメの肩を揺すった。呆然と見ていたナツメは、アッパーウェストサイドの、リンカーンセンターの近く。とだけ答える。

じゃあ、とクラサメはドアを閉めようとした。
ナツメはそれを見咎めて、彼の腕を掴み、酔っぱらい特有の馬鹿力で彼を無理矢理に引きずり込んだ。

「おい、私はミドルタウンに戻るんだ。徒歩で帰れる……!」

「運転手さーん出しちゃって。痴情のもつれって扱いで、もういいから」

こういうことに慣れきっているニューヨークのイエローキャブは、ナツメの言うがままクラサメをナツメの部屋まで連れ去ってくれた。

このときは何もなかったが、このときから組んで仕事を始めたのは事実だ。
そしてそのうちに、ナツメはクラサメを好きになったし、クラサメもたぶんそうで、こうやって一緒に住む仲になって、一年。


結果的にあの仕事はナツメを幸せにしたかもしれないが、実際この一年は長かった。自分でも言っていた通り、汚名を濯ぐのは簡単なことじゃなかった。




「……だからさぁ、あの仕事どうやって私を出し抜いたのかだけさぁ……」

「しつこい。自分で考えろ」

「あん、酷い」

ナツメはベッドから立ち上がって、椅子に投げっぱなしの服を拾い上げる。クラサメにも彼の服を投げ、ナツメは食事の終わった食器をシンクに置いて水を掛け、ジャケットを羽織る。

「そろそろ次の仕事の下見も始めよっか?」

笑って言うナツメにクラサメは一瞬肩をすくめたが、結局「わかった」とだけ言った。











そして、一週間が経った。

ナツメはいま、クラサメと出会った夜のことを思い出している。
繰り返し、繰り返し。

悪夢みたいな夜だった。でも終わってみれば、それがあってよかったと思えた夜だ。そんなことは初めてで、そんな自分に驚いて、その変化に戸惑って、でも幸せという名でラベリングした人生だ。


でも、ナツメの手の中には、FBIの刻印がされたバッジと支給品の銃がある。
示す答えはただひとつ、クラサメが潜入捜査官であるということ。

視線を上げれば、ついさっきまで小さな額縁が飾られていた壁に開いた小さな穴に行き着く。これらはそこに隠されていた。足元に転がった額縁には、クラサメが昔撮った写真が入っている。顔はよく見えないが、ナツメの写真だった。付き合ってしばらくした後、ナツメの持っていたポラロイドカメラで彼が撮ったもの。

幸せだった。間違いなく、ナツメの人生でもうこれ以上はないって思うくらい。

疑ったことはなかった。一度として。
彼は仕事を急かすことも、口を出すこともほとんどなかった。危険があるときだけはうるさかったけれど、それだけ。

一年、か。
それでもどこか、やっぱり、と思うのは、自分がそういう人間だからだ。疑ったことはなくっても、自分は裏切られ続けるべき人間だと思った。
まともな人間になれるかと思った。彼が作った食事は躊躇いなく口に運べた。吐き気はなかったし、実際吐かなかった。こんなの初めてだったのに。

「……特別捜査官、クラサメ・スサヤ……名前は本物、なんだね」

妻子の写真なんてものが一緒に入ってなかったことに感謝するべきか?……それともそれはドラマの見すぎで、本当は家族がいてもわからないよう写真とかは禁止だったりするのかな。
もう涙も出てこない。

「全部嘘だったのかな。全部……全部……」

最初、好きになってくれたのは、きっと嘘だ。
でも、だったらその後の、二人で生きた時間も全部嘘なの?

ナツメにはもうわからない。今疑う愛はこれまでずっと厳然たる真実で、もしかしたら己はこの人を一生愛するのかもしれないな、なんて思っていた愛だった。そしていつか、この人が私の人生そのものになるのかもしれないと。
でも全部嘘なら、最初からそんな日が来るはずもないから。

外からドアが開く音がした。
情報屋に会うと言って出ていったクラサメが帰ってくるまでに終わらせるつもりだったことが、結局一つも終わっていない。

ナツメ?どうした、電気も点けないで」

ナツメは顔を上げる。彼が点けた照明がまばゆくナツメの目を眩ませた。
そして光に慣れるまで、クラサメが一言も発することはなかった。ナツメがようやく彼と視線を絡ませた、その瞬間にようやく、彼は「それ」と言った。
彼が指差していたのは、ナツメの手の中の。

「どうして見つけた」

「模様替えしようと思って。……びっくりさせようと、思って」

普通のカップルみたいでしょう、バラとかキャンドルをたくさん飾ろうと思ったの。
そこまでは言葉にならなかった。

「私なんかを標的にしてたわけないよね?」

「……ああ。お前がよく仕事をもらってくる、窃盗団だよ」

「そっか、私はそのための道具だったんだ……」

クラサメはどこか言い辛そうに言ったけれど、悲しいのはそんなことじゃない。
そんなことじゃない。

「そんなこと、どうだっていいの……」

ナツメはゆっくり立ち上がり、リビングの戸棚からフライパンやら鍋やらを放り出す。そしてその奥、板を爪で引っ掻いてずらし、外す。
そこから出てきた小箱を、テーブルの上に投げる。カラン、と高い音がした。間違いなくナツメの意図を受け取って、クラサメは手を伸ばしてそれを開く。

「これを予見してたよ。……あなたがいつ裏切っても……逃げられるように……この稼業じゃ当たり前のことなの。誰と組んでも、必ず予防線は張っておくの。私は、あなたを信じてなんかいなかった」

クラサメは目を細め、妙に、ショックを受けたような顔をした。箱の中にはパスポート、社会保障番号、行きつけの店のメンバーズカードまで入ってるんだからそれも当然か。もちろんそれら全てに、今使っているものとは違う名前が記されている。逃げるための準備だ。

本当はもうずっと前、一緒に暮らし始めた頃に用意したものだ。彼を信じ切って、ほとんど忘れ去っていたもの。
ちゃんと信じてたよ、なんて惨めすぎて言えないから。
ナツメは笑う。こんなところで強がってもなんにもならないのに、泣きそうだから、ごまかしたくて笑う。

「もしさぁ、もし、……もしも私が、犯罪者じゃなくて」

彼を見る。

「ただの、ふつうの、どこにでもいる女だったら」

彼の険しい顔の意味がわかるくらい、一緒にいた。

「本当に……好きになってくれた?」

けれどもう、それが本当だったか、わからない。


クラサメは何度も言葉を吐こうとして、結局言葉にならなくて、ひたすら言いよどんでいた。ナツメは目を伏せ、首を横に振った。
何を言わせても、ナツメの心は変わらないだろう。

「いいよ。忘れて。私はどうせ一人でだって生きていけるから、もういいんだよ」

ゆっくりクラサメの前に進み出て、バッジと銃を渡す。クラサメは首を横に振った。

ナツメ、待て……待て、頼むから」

「何で?」

ナツメは純粋に笑って、彼とすれ違う。彼が腕を掴む。熱がそこで混ざっていく。

わかっているのだ。もう全て。

きっとこの話の悪いところは、クラサメがナツメを愛してなかったわけじゃないんだろうということ。そんなに器用な人でないこと、ナツメはもう知っている。
でもそれが最悪だ。せめて嘘だったなら、ナツメはクラサメをおおいに恨み、それで終わりの話だった。でもそうじゃなかったから、お互いをこれまで通り愛したまま離れなければならない。

そしてここからがもっと酷い話。

クラサメが腕を引き、ナツメを抱きしめて、ナツメは腕を回して応える。糸が絡まるようにもつれ合って、ナツメは背伸びして彼にキスをし、クラサメがナツメを抱き上げるようにするからキスはより深くなる。
二人でソファに倒れ込んだ。間違いなく情事の気配を感じながら、ナツメはクラサメの肩を押して体を起こす。

ここには何もない。自分たちの間には、もう、何もないのだ。
ぽっかりと穴が開いたのがわかった。ギロチンの刃が振り下ろされる瞬間みたいに、あっけなく一瞬で、誰の目にも明らかに。

「じゃあ、一緒に逃げてくれるの?」

できないことを、ナツメは問う。
わかっているのだ。……もう、全て。

ここで全て裏切ってナツメのために生きてくれるほど、彼は己を愛してなんかいない。
彼の愛は非常に健全で、優しい愛だ。彼自身を燃やすことのあり得ない愛情だ。ナツメのそれとは、違うのだ。


だってここにあるのは、二人の間に残っているのは、愛だけだ。愛だけを信じて、それ以外全て捨てる道を選ぶなんてできるはずがない。
12時の鐘が鳴って、魔法が解けてこの愛が消え去ったら、ナツメとクラサメの間にはもう何も残らない。互いを燃やし合って、煤けた灰だけが散る。そういう末路が待っている。

愛だけに身を委ねるなんて、そんなことしてくれるはずない。たった一年、ナツメと一緒にいただけで、彼には本当の生活がある。
犯罪に手を染める必要のない、普通の日々が。全く真逆の人生が。

ナツメは彼を置いたまま立ち上がり、部屋を後にした。

どうしたってうまくいかない、そういうことはある。
それがたまたま、離れがたい幸福の中にあった。ただそれだけだと、ナツメは自分に言い聞かせた。




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