頬を滑り落ちる涙が私を目覚めさせた。
うまくいかない。何もかもがうまくいかない。そんな思いが私の頭の中を占拠していて、目覚めてしばらく声が出なかった。叫びだしてしまいそうな気分だった。

「……」

クラサメが首を傾け覗い見てきた。私はそれでようやく覚悟を決め、立ち上がった。座った時よりだいぶ木の影が長くなっているから、このベンチに座ってから結構な時間が経っているのだろう。

光を受けて、涙を拭い、振り返る。クラサメは座ったまま私を見上げていた。

「クラサメ、……なんで私を守ってくれるの?」

クラサメは、あの世界の私を愛してはいないと思う。
そればかりが、明らかになっていく。それが辛いのは、あの世界の主人公に同調しつつある証拠だろうか?

いつしか私と彼女の間にある隔たりが削れきって、お互いの世界が完全に混ざり合ってしまいそうだ。
そもそも隔たりなんて、本当にあったのだろうか?
最初から。

「……」

「うん。答えられないんだよね。わかってるよ」

わかっている。わかっているし、わかっていた。
あの世界の中でも、このひだまりの中でも、私はきちんと理解していた。

「私もあなたも間違ってるんだろうね。でも行かなくちゃだよね。ここで諦めるわけにいかないもん」

足元に散ったヴェルヌの花を拾い上げると、手の中で花弁が解けるようにばらけた。

――叶いませんでしたね。あなたも、わたくしたちも。

その意味はまだわからない。探ろうと思ってベンチに座ってみたが、見えたのは一人で戦おうという覚悟のみ。

「ここを出ないと。……この城を……」

この封じられた場所に閉じ込められているのは私とクラサメだけではない気がした。あの影の子たちも、光も闇も、虫の羽音やせせらぎまでもすべてが囚われているのだと思う。
私たちがここを出なければ、それらもきっと解放されない気がしている。だから、逃げなければ。


来た道を振り返ることもなく、私たちは進んでいった。
風車から先は上り坂になっていて、いくつも階段を登った。時折振り返るクラサメの案じる眼差しは最初よりだいぶ険しく感じた。

“私”の世界が過去であるとするなら、影はあの世界にいた女王の子どもたちなのだろう。であるなら、十二人いるはず。
今のところ、ナイン、ケイト、エイト、サイス、トレイ、クイーン。まだ六人、半分しか出会っていない。

残りの彼らが全員襲いかかってきたら、どうしたって対抗手段がない。なんせ私には何の力もないのだから。
夢の中の“私”のように、魔法でも使えたらよかったのに。そう思うと同時、背筋がひやっと寒くなった。

――できやしないのよ。魔法なんて使ったら、それだけ寿命が縮むんだもの。

それは声であったか、己の思考であったのか、判然としない。ただ、どこか遠くから降り、私の耳朶を揺らした気がした。

「……え?」

「?」

立ち止まった私につられ、クラサメは振り返る。首を傾げる彼に、私はつい、背筋を凍らせたその声をなぞった。

「魔法なんて使ったら、私、寿命が縮む?」

「!」

私の言葉に、クラサメはさっと眦を吊り上げた。そして暫し逡巡するような沈黙を落とした後、ゆっくりと顎を引き頷いた。その硬い表情がすべてを物語っているような気がしていた。

「そうなんだ。私、魔法使うと死ぬんだね」

クラサメは俯いて言った私を見つめていた。なぜだか、慰めてほしいと思った。悲しいわけでも苦しいわけでもないのに、どうしてだろう。
そしてクラサメはそれに気づかないだろうし、慰めるために触れることもないだろうと思った。
彼がもたらす救いを愛と呼ぶことが許されるかどうか、私は知らない。きっと“私”はそうしたがったろうけど。

私の中に芽生えるもの。“私”が振り払おうとしていたもの。クラサメが今も抱えているもの。
それらが同一であることを願うのが正しいことであるか、私にはまるでわからない。
わかりようもない。私は、“私”がなにものであるのかすら知らないのだから。

「……正体不明なのは、むしろ私だったね」

「……?」

「私ね、角が生えてたから。もうずっと昔に、そのための村に連れて行かれたの。角の生える子はそうする決まりで。だから母親が誰で、そもそもどこにいるのかすら知らないんだ」

「……」

クラサメはふと気遣うような視線をよこした。それに目を細めて答えながら、私は僅かに俯く。

「この城のこととか、わけわかんないと思ってたし、どうして私がこんな目に遭うんだろって思ってたけど。もしかしたら、本当は知らない因縁があるのかもなって、思ったの」

私は指先で己の角を撫でた。体から確かに生えていて、折れば血が流れるのに、自分の体の一部にはとても思えなかった。
どうしてこんなものがあるのだろうか。今更疑問に思う。全くもって不要だし、原因もわからない。

「でもどんな因縁があったって、ここから出たいよ」

「……」

「この城は……怖い」

クラサメが手を引いてくれなければ、走れもしないくせに。私はそんなことを思った。
あの黒い影たちに呑まれて、動けなくなりそう。同じ影になって、冷たい石の壁を這うだけの存在に……。

その恐怖が、足を動かす。さすがに足は棒のようにすら感じるし、陽も傾いてきたが、クラサメはためらいなく先へ進み続けた。だから私も、彼と共に前へ進む。













正門から西へ向かい、城壁の上の通路を突き当りまで行くと、私は左右に同じ形をした建物があるのに気がついた。

「クラサメ、これってなんなんだろう?出口につながってる?」

問うと、クラサメは首を横に振った。

「でも行くの?」

これには肯定。であれば、つまり。

「出口にはつながってないけど、出るために必要ってこと?」

クラサメは振り返り、手を強く握って頷いた。クラサメの言う事なら間違いないだろう。私も頷き返した。
向かって左側の建物に入る。重たいドアは二人がかりで開けたが、そもそも役に立てていたかどうか。

中に入り込むと、途端に私たちの背中から風が入り込んで、壁際の燭台に火を灯していった。突然のことに驚いて立ち止まる。

「ここ、何……?」

その広い空間は、私は一度も見たことがないが、話に聞いた帝都の劇場に似ている気がした。建物内部は外側からはわからなかったが円に近い形をしていて、中央部の広い部分が一段低くなっている。その周囲に低い柵があって、これを舞台と呼ぶらしい。舞台では踊り子や唄い手が歌うのだと、行きがかりの商人に聞いたことがある。
クラサメが腕をひいて、私を奥へ連れて行こうとする。ここに何があるのだろうかと周囲に視線をやりながらそれに着いていくも、不意に白い光が私の眼の前を横切った。

『ここは闘技場ですよ』

『舞台にもなるんだけどね〜』

『そうですね、たまに忍び込んでわたしの笛リサイタルなんてこともやりましたね。エイトさん対ナインさんの格闘術バトルとか』

『ああーやったねぇ!楽しかったねー!』

その光はくるくると回って、たったいま通り過ぎた舞台の中央に戻っていく。振り返るとそこには二つの黒い影が立っていて、一つは私よりずっと長身で、もう一つはむしろ私より小さいくらいだった。
声を聞いているだけで、なんとなくわかった。

「ジャック。デュース……」

『……先生、わたしたちのこと覚えてないって聞いていたけど。覚えてたんですね』

『どうしてそういう嘘つくんだよぉー。僕傷ついたよ』

二人の声は沈んでいた。表情は窺えないが、少なくとも楽しそうな顔はしていないだろうと思った。

「……!」

クラサメが警戒をあらわにし、私をその背に引いた。その一瞬、二人の視線がさらに翳るのを感じた。
そして思った。

あの夢の中の世界が全て真実過去だったとしよう。それなら、あの子どもたちはきっと、私などよりクラサメとの縁の方が深くて、強いはずだ。
だったらきっと、私なんかより、クラサメと戦うことのほうがずっと辛いはずで。クラサメだってそれに苦しんでいないわけがない。あの世界の彼は、子どもたちを守るために私を見逃したぐらいだ。苦しんでいない、はずが。

どうして気付かなかったんだろう。私は何も見ていなかった。何も知らず、何も考えず、クラサメに甘えていただけだった。そのことに気付いてしまったら、もう立ち向かわずにいるわけにはいかなくなる。

「ごめんなさい」

ごめんなさい、クラサメ。
彼が僅かに振り向いて私に一瞬視線をやった。私はその隣をすり抜ける。

「ごめんなさい。私が何をしたのか知らないけど、きっと私が全部悪い」

あの世界で、私は悪者だった。生まれついての不幸に嘆いて、誰かを巻き込むことに心を痛めることもなかった。だから私が悪いはずだと思う。
どんな理由があったって、クラサメと彼らを戦わせていいはずがない。いいはずがなかった。

『何をしたのか、って……知らないの?』

『先生、いまさらそんな嘘を……!』

「嘘じゃない。嘘じゃないの。でも私が悪いのはわかる。あなたたちは、みんなとてもいい子だから……」

夢の世界で、私はあの子達に絆された。誰かに愛されることも、求められることも、全てが初めてだった。

『そんなこと言われたって、わたしたち、あなたを許せません……!』

『そうだよ。エースにあんなことして、許せるはずがない』

エース。夢の中でたびたびけったいないたずらをしてきた、金の髪をした少年。
そういえば、さきほどクイーンも、エースのことを言っていたような。

「エース……、私エースに何をしたの?」

『先生。僕、先生のこと、大好きだったよ』

ジャックが問いを黙殺して、こちらを見返してくる。
影なのに、顔が見える気がした。その向こうにジャックがいて、私を見つめているのがわかるのだ。

『でももう違う。エースのこと、あんなことをしておいて、忘れるなんて、許せないよ』

ジャックはいつも、どんなに辛いことがあっても、へらへらと笑っているような青年だった。悲しい出来事のさなかでさえ、しょーがないしょーがない!なんて、最初に声を上げるのは彼だったように思う。

彼が笑っていない顔を、夢の中の私は知っているだろうか?
おそらく、知らないに違いなかった。


そこからは速かった。なんせ私にはまるで見えていなかったのだ。
ジャックの腰元から斬撃が斜めに走り、クラサメは私を庇いながら瞬時に後退った。せめても彼の退路を塞ぐまいと斜め後ろに足を引いたあたり、少しずつ経験を得てきている自分がいる。
クラサメは退くついでに、近くに立てかけてあった火かき棒を拾い上げた。

『ジャックさん、二対一です!焦らず確実に攻めてください!』

私なんかよりずっと素早く後ろに体を退いたデュースが、棒きれのようなものを高く掲げてそう叫ぶ。どうやら彼らには、私がほとんど足手まといであるということが完全に知られてしまったらしい。救いようがない。
そして、私の想像と夢の中の記憶が確かなら、デュースの持つあの棒きれのようなものは、おそらく武器。

『参ります!』

彼女が短く叫んだ直後、高く音が跳ねた。
デュースの手の中にある棒きれは、影だからわからないだけで、笛だった。

音は高く、低く、暖かく冷たく、音程を自在に変化させながら空気を震わせていく。音が跳ねるたび、白い光のような何かの塊が空気に浮いた。それは先程、私の眼の前を横切ったものだ。
そのうちの一つが、私を目指して飛んだ。どうしていいかわからず、私は足元の消えてただの棒となった松明を掴み、飛んできた光が当たる寸前に叩いた。
その瞬間だ。

「きゃああっ!!?」

即座に襲った衝撃の正体は、すぐにはわからなかった。けれど、その衝撃にぶつかったはずの体の真正面ではなく、背中、とりわけ腰のあたりにするどい衝撃が走って、私は地面に崩れ落ちる。
ほとんど激痛にも近い痛み。目の奥がチカチカして、それが引く頃ようやく理解が及んだ。あの音の塊らしき光は私を弾き飛ばし、闘技場の柵に叩きつけたのだ。

なんとかクラサメを探す先で、彼が私に何度も視線をやるのがわかる。だめだ。理由はともかくとして、彼は私を優先して守ってくれている。もしかしたら彼自身のこと以上に。
だから、私はこんなところに存在しているだけで足手まとい。こんなことでは、いけない。

「クラサメ、私のことは気にしないでいいからっ!!」

そう叫ぶ。そして、手から落ちた松明を探す。見つけ、拾い上げ、デュースに向かって掲げる。彼女を、睨む。

『……わたしと戦うんですか』

「私の咎なら私を責めるだけでいいはずよ!クラサメは関係ないはず……!」

『本気で言ってるんですか……っ!?』

彼女の声は怒りに満ちているように思った。

『あなただけじゃない!わたしたちは、クラサメ先生だって十二分に恨んでる!!』

「えっ……?」

『エースさんもきっと恨んでるからっ……!だからわたし、あなたたちを倒さなきゃいけない!』

デュースは叫び、その声が浮かんでいる音塊を揺らした。
否、揺らしたなんてものじゃない。激しく揺さぶられた音塊は凄まじい速度で跳ね上がり、一気にクラサメと私を目指す。
私は魔法を使えない。やり方なんて“覚えてない”。

でもその鋭さを、肌を切り声を焼き命を焦がすあの熱を、“魂が覚えている”。


「あ、ああああ、あああぁあああああッ!!!」


叫ぶ声は光に眩む視界を切り裂くみたいだった。芽生えたものは、きっとこの世界の住人が“魔力”と呼ぶ何か。

それは、量としても質としてもおそらくは大したものではなかった。それ一つで何かを変えることはなかっただろう。
けれどそれは、例えるなら、闇の中に投じた一石。

凄まじい速度で行き交う音塊の中に突然現れた異質な魔力は、音塊の壁を打ち破った。

後から思えば、それだけで充分だった。ジャックの集中を叩き壊して、デュースの視線をかっさらった。その一瞬がクラサメにとっては充分な勝機になった。
デュースは懸命に私を突き飛ばし、私は転がった。だから決定的な瞬間は見ていない。それでもクラサメが振りかぶった一撃がジャックを弾いた。

『……はーははは、なんでだろ、なんでいつもあんたなんかに敵わないかな』

『ジャックさんっ……!』

『デュース、先に戻ってるよ。……ああもう、本当痛いんだからなぁ』

彼はそう言って、砂の城が崩れるみたいに消えていった。
最後の呟きはひとりごちるようで、悲しんでいるようで、昔を懐かしんでいるようだった。
何も知らないのに、妙に胸を突かれるのは、あの夢のせいだろうか?

『……どうしてこうなるんでしょう』

デュースが俯いて言った。
なんとなく、彼らは好き好んで私たちを止めようとしているのではないのではないかと思った。
本当になんとなくで、何の根拠もないけれど、私たちを疑うことも嫌うことも傷付けることも嫌がっている気がした。

『わたしたち、幸せになりたかったんです』

デュースの声は、闘技場で空虚に響いた。

『それだけだったのに。……内側から壊されたから、きっともう無理なんです』

デュースはもう何も言わなかった。がくりとうなだれた後、風もないのに、風に吹かれるみたいに影はかたちを失っていく。
それをクラサメはじっと見ていた。その目が耐えるような色をしていたので、私も堪える。
事情を知らない私が先に悲しんでいいはずがない。

「……クラサメ」

彼は振り返った。どうか彼を呼ぶ声に感情が混じらないよう、私は祈る。

「もう一回。……もう一回、あのベンチ探させて。私、思い出したい」

思い出したい、なんて。
明らかに言葉の選択を間違っている。

それなのに、クラサメは長い逡巡ののち、確かに頷いて見せた。

まるで全てわかりきった、長年の恋人みたいな態度だったので、あの夢の中の女性に少し妬けた。




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