その日、私はクラサメの授業を部屋の外で聞いていた。
「……それで?エース、寝ていたのか、寝ているふりをして授業を聞いていたのか、真偽をはっきりさせてみろ。魔法を行使するのに最も必要なものは」
「えー……えー、そりゃ、魔力?」
「廊下に立ってろ」
「イヤデス!!」
くすりと笑う。クラサメは子どもたちと付き合いが長いだけあって、子どもたちの方に遠慮がない。聞いていて、楽しい。
羨ましいな。そう思ってから、私はすっと自分から表情が消えるのを感じた。
どちらを羨んでいるのか、わからないから。
「魔法を行使するのに必要なのは、意思、魔力、そして詠唱だ。慣れない魔法の場合、詠唱に気を取られて意思を忘れる。明確な意思を持て。どれだけの範囲に炎を及ぼし、温度は肉を溶かす程度か骨を焼く程度か。魔力の使用量もコントロールできるように」
「……先生!言ってる途中に二時の鐘鳴ったよ!終わりの時間だよ!!」
「それはそうだが全く話を聞いていなかったと言わんばかりの態度で報告されると腹が立つな。ジャックの課題は倍だ」
「うええええなんでぇぇぇ……」
眼の奥の涙が乾いて、頭の奥深くまで凍っていくみたいだった。最後に泣いたのはいつだっけなんて、どうでもいいことに思考が費やされる。昔は訓練が辛くて、いつもナギに泣きついていたような気がする。
ナギは男児のプライドが故か、私が泣くと泣けなくて、いつも顔をくしゃくしゃにして歯をくいしばっていた。それがわかっているから、また私は泣きついた。思い出すと、申し訳ないと同時に、少し笑える。
きいいと耳障りな音を立て、私の横で木製のドアが開く。中から出てきたクラサメは、驚いた顔で私を見下ろした。
「どうした?何をしている」
「あなたに監視されに来た」
「何を言っているんだお前は」
「冗談」
でもその呆れ顔を見に来たのは、少しだけ本当よ。
「あの子たちが、授業終わったら来てくれって言うから」
「はぁ?どうしてだ」
「わからないわ。教えてくれなかった」
「……またカエルを服の中に入れられるぞ」
「どうして嫌なことを思いださせるのよ!?」
「思い出したくもないならほいほい子どもたちに釣られるんじゃない!」
クラサメと私がそうして言い合っているところに、部屋の中からシンクが顔を出す。
「あっれぇー、せんせぇたちって、なかよしー?」
「どこが!!」
「誰が!!」
「なかよしだ!なかよしなかよしなかよし!……はいいとして、クラサメせんせはどっか行ってよぉ。クラサメせんせにもう用はないんだよ、きみは用済みなんだよ」
「……シンクも課題倍だ」
「恐怖政治だよぉー!?わたしたちに恐怖政治教えちゃダメだよ実行できちゃうんだからぁ!」
「わけのわからない理屈をこねるな!!……全く、お前たちときたら」
クラサメはため息をついて、さっさと引き上げていく。それをなんとはなしに見送っていたら、不意に隣を通り過ぎる気配があった。
「……あら?デュース、ケイト、どこ行くの?」
私を呼んだのは、シンクも含めた彼女たちなのに。
彼女たちはちらりと私を振り返り、さっさと走り去っていった。去り際の笑みの意味がわからず当惑していると、シンクが背後でくっくっくと不気味な笑い声をたて始める。
「ふっふーん。せんせ、スタンプ・ラリィって知ってる?」
「……いや、知らないけど」
「東だかどっかの港町のお祭りとかなんかそういうのなんだって」
「……つまりなんなの、それ?」
「よくわかんないけどリレーとかと一緒だよ、語感が似てるし。だから走るんだよたぶん」
「全部適当ね!?っていうか、だからなんなのよ!?」
「そんなわけで、スタート地点はここ、教室でーす!皆の衆、散れーい」
シンクがそう声を上げると、教室からいかにもけだるそうにキングとサイスが出てきて、その背中をセブンが急かしている。他の全員もそれに続いて出て行って、教室にはエースだけが残った。
「……まさか本当に、また服にバッタを……!?」
「ちっ、違うって!先生があんなに取り乱すとは思わなかったしもうやらないよ、芸がないだろ?」
「芸とかそういう問題じゃあ、ない」
「悪かったって……」
エースは腰掛けていた机から降りて、私の前までやってくると、ほとんど同じ高さの目線をしっかり合わせた。
そして、「ほいっ!」という掛け声とともに、目の前に白い花が一輪突然現れる。まるで手品みたいだった。
「わ、なにこれ!」
「この花はヴェルヌっていうんだって。はい、先生にあげる」
「どうして?」
「さあ、これ考えたのは僕じゃないからなぁ。企画と発案はシンクだよ。時期に合わせて花を選んだりとかしたのは全部クイーンだけど」
「……?」
妙に要領を得ない会話に私は首を傾げる。と、花のがくの下辺りに、何かが括りつけられているのに気がついた。それは小さな紙だった。
「……び?って書いてある?」
「ま、それはおいおいわかるからいいとして、さ。次は講堂ね」
「え?」
「今日は仕事、もうないでしょ?クラサメ先生とか、いろんな人に頼んでおいたんだ。だから、早く講堂に行ってやってくれ。サイスは気が長いほうじゃないから」
「え、えー?よくわかんないけど、わかったわ……」
私は花を片手に、講堂へ向かった。春が近いとはいえまだ冬で、風が冷たい。
講堂に入るやいなや、サイスはじろりと私を睨みつけ、「次、食堂」とだけ言ってエースがくれたのと同じ花を押し付けてきた。同じように、小さな紙が茎についていた。が、書かれていた字は、字体が違った。
別人が書いたのかななどと考えつつ、言われたとおりに食堂へ向かってみる。そこにはエイトがいて、私を見ると困ったように少し笑った。
また花をもらって、次は給仕長室。中庭。給水塔。使用人室。裏庭。庭園。謁見室。図書室。そして最後に、水車小屋に行けと言われた。
「……ぜーんぶ、字が違うわね。……び・た・め・じ・お・と・で……だめだ意味わからん」
なんだろうこれ。花も。あの子たちったら、今度は何の遊びを思いついたのか?
私にはわからない。クラサメならわかるのだろうか?
「……ほんとうに、……羨ましい」
クラサメが?あの子たちが?
どちらでもない。たぶん、そのまっとうな年月と、まっとうな絆が羨ましいのだ。
そのどちらも、一生手に入らないと知っている。望むべくもない。絶対叶わない願いだ。
最後、水車小屋。その前に、シンクはいた。
甘い匂い。もらった花は、ここに咲いていたらしく、シンクの背後にちらほらと見える。
「シンクー?来たわよー」
「おおっとおー来てしまったねぇ?」
「来いって言ったのあなたでしょうに」
手の中の花は、十一輪あった。白い花は甘い匂いを僅かに振りまいている。
最後の一輪を、シンクがすっと取り出した。
「ふっふーん、なんだかわかった?この花」
「いやまるでわかんない。なぁに?これ」
「この花はね、今時期咲いてる花の中で、たぶんいちばんお祝いに向いてるからって、クイーンが教えてくれたの。はい、これ!」
差し出された花を空いた手で受け取り、確かめると、やはり小さな紙がついていた。
丸っこい字で、よ、と。
「……この文字、なんなの?」
「うそ、気づかない?」
改めて見てみる。
び・た・め・じ・お・と・で・う・お・う・ん・よ。
「……わかんない」
「なんでー?こんなの簡単なクイズじゃんっ、子供向け絵本にもよくあるようなクイズだよ!?」
「そ、そんなこと言われても!?」
子供向け絵本なんてほとんど読んだこともない。市場に流通してようが、育った地下にはなかった。
「これはね、並べ替えなんだよー。ほら、並べ替えてみてー?」
呆れたような声でシンクが言ったが、そんなこと言われても。
スパイのくせに暗号解読が苦手で悪かったな。その手の課題だけはいつも乗り越えられなくて、ナギがこっそり答えをくれていた。昔から。
「……んもおおおー!ほらっ、こうっ、並べ替えてっ」
とうとうしびれをきらしたシンクが、私の手を取りさっさかと並び替えてしまう。
手の中で、花は文章になっていく。
「お、た……ん、じょうび……」
「おめでとう。せんせ、おめでとう」
シンクの手が、暖かく私の手を包んでいる。少しだけ肌寒い、初春の季節に。
ほんとは他にも候補案はあったんだけどわたしたちってお小遣い制だからあんまり高いもの買えないし、せんせの趣味もわかんないし。
シンクが何かを喋っているのはわかったが、意味はまっすぐ心に入ってこなかった。
今日は、誕生日なんかじゃない。
そもそも私は自分の誕生日なんて知らない。効率化のために、一定期間内に生まれた子供は同じ年齢として扱いを受け、いつ生まれたか等区別されない。年齢も、本当のところはわからないし、今日を誕生日にしたのは私じゃなくて、諜報局の事務職員だ。
……そんなわけだから、潜入中に他人の誕生日を祝うふりならしたことがあっても、身内を祝ったことすらないしましてや自分なんて。
「……せんせ?」
「……あ、あの……ありがとう」
「どうしたの?せんせ?」
眼の奥が熱くて、頭の芯が冷たい。泣きそうで、裂けそうだ。
私という存在がいくつかに分裂しそう。感情が多方面に、棘々しく咲いている。
誕生日を普通に祝えるこの子たちが羨ましい。
不公平で妬ましい。
彼らとずっと一緒にいられるクラサメが恨めしい。
でもそれ以上に。
こんなふうに、存在を認められることが、嬉しい。
私は今初めて、世界に存在している。そんな気がしていた。
この子たちが、私という存在を認識して、一瞬でも守ってくれている気がした。
涙が出た。
頬を滑り落ちる熱の正体に気付いて、恥ずかしくて仕方なくなった。大人のくせに、こんな小さな花だけで泣いている自分が。
けれどシンクは笑わなかった。
彼女の指先が、私の頬を撫ぜ、涙をそっと拭った。
「せんせ、おめでとう」
……。
愚鈍なようでいて、賢い彼女のことだから、きっといろんなことを感じ取っただろうと思う。
けれど一つも、口に出さなかった。その優しさを、ありがたいと思った。
そして、同時に。
どうしても私は、ここを離れたくなくなってしまった。
ここを出たくない。ずっとここにいたい。ずっと、ここで、この子たちと……あの人の近くにいたい。
私だって、その絆がほしい。その年月がほしい。
不可能だって、わかっているのに、一度思ったら止められなかった。
そのせいだ。私がそんなこと、望んだせい。
だから、この後起きた出来事は、間違いなくすべて私の咎である。
背筋がざわざわと、寒気にも似て私を脅かす。指先が震え、手に持った瓶を落としそうだ。
心が嫌だと言っている。
けれど。
ここに来たばかりの頃適当に見繕った男どもは、私を守るためには使えない。それに、子どもたちのことを調べ始めてからあまり接触もしていないから、私のことはもう忘れてしまっているだろうし、何よりもともと脱出のために用意した駒だったから、用途が違う。
私を守るために必要なのは、力だ。単純な強さ。
そしてその条件を満たすのは、身近では彼……クラサメだけ。
あれからクラサメのことを調べて、知ったことがある。
彼は兵士上がりだが、どうも最強の一角とまで言わせしめた対人格闘の精鋭であるとか。魔法を使わなくても充分すぎるほど強いのに、魔導学校で学んでいた時期もあるとか。
これを知った時は正直鳥肌がたった。0組に魔導学校にいたなんて嘘をしれっと言ってしまったことがあるのだが、あのときすでにミリテスのスパイだとクラサメにバレていなかったら、聞きつけたクラサメによってどんな面倒に巻き込まれたかわからない。
と、それはいいとして。
ともかくクラサメは現状頼りうる中で一番強いだろうということがわかった。そういえば、体術なんかも子供たちに教えていたな、と今更思い返す。私には関係ないことだと思っていたが、そういうわけにもいかなそうだ。
私は深夜、クラサメの部屋の前に立っている。酒を片手に。こういうときの手土産は酒だと聞いた。誰にだかなんて覚えてない。そういう色事を仕込まれた時だったと思う。
でも絶対こんなの、きっとクラサメには効果ない。わかっている。けれど、深く息を吐いて、覚悟を決めなければ。
心がどんなに嫌だと騒いだって、ここに残るためには守ってくれる誰かが要る。クラサメを選ぶことになるなんて思っていなかった。けれどもう時間がない。
ナギが来たのは、意味がある。
あの後、一度だけ、メモが仕込まれていた。急げ。そう書かれていた。
その時思い出したことがあった。
昔一度聞いた噂だ。逃亡を疑われるプラントは、まず身内が見に来る。幼少からのパートナーだったり、姉妹だったりが。
それでも戻ってこなければ、きっかり一ヶ月経つ頃には、プラントは無理矢理にでも連れ戻される。普通ならただ独房に入れられるだけなのが、無理に鎖で繋がれるのだと。
真実だとは思っていなかった。それが希望的観測だったのかどうか、いまさら考えても無意味だけれど。
何でこんな話を思い出したのか。それはきっと、あの人を思い出したからだ。……小さな鉄格子から必死に覗き込んだあの人は、たしかに鎖で繋がれていた。
「ナギがあんなに何かを伝えたがってたのは、きっとそういうことなんだろうな……」
いよいよ本格的に時間が足りない。逃げ場などないし、救いもない。この世界に生きている限り、変わらず。
死ぬまで足掻くなら、そのために、誰かに守ってもらわなくては。
嫌だ。嫌だ。……嫌だ、けれど。
連れ戻されるわけにはいかない。それだけは絶対にだめだ。それぐらいなら、死んだほうがずっと……。
「……ああもう」
こうなってしまうから。最低な結末から選ぶなら、それしかないと。
私は震える手で、クラサメの部屋のドアをノックした。いかな深夜とはいえ、彼なら起きているだろうと思った。
予想は的中した。ややあって、返事の声があった。名乗ると入室を促され、ドアを開けてみると彼は机に並べられた書類をまとめているところだった。
傍らに、剣が置いてあるのが見える。不思議な剣だった。透き通った青色をした、まるで青い氷をそのまま剣にしたみたいに見えた。綺麗だなぁと一瞬視線を取られた。
「何の用だ」
「え?あー、えっと……」
しまった口実すら考えてなかった。
「あーっと、その、子どもたちのことについて。そろそろほんとに調べないといけないかと思って」
そう言った瞬間、クラサメの眉間が怪訝と歪んだ。あ、やっぱり理由としては弱いか。私の口は早くなる。
「き、聞いた話ばっかりだけど、やっぱり子どもたちに魔力を貯めてる可能性はあると思うの。ちょっと前に聞いたんだけど、あの子たち、ここしばらく女王と会話した記憶がないらしいの。毎日会っているはずなのに、よ?おかしいでしょう?」
「それがどうして、そんな大騒ぎする話につながるのかがわからん」
「……魔法を使うためには、魔力がないといけないの。それはわかるよね?」
「喧嘩を売っているのか」
「真面目に聞いてよ、もう。……それで、それでね、魔力って自分で貯めるのはそんなに大変じゃあないんだけど。他人に流し込まれるのは、そう簡単にはいかないんだよ。眠ってる人間に水を飲ませるみたいなものなの。簡単には入らないし、水瓶に注ぐようにはいかない。魔晶石に魔力貯めるのとはわけがちがう。知らないでしょう?普通はそんなこと、しないもの」
「……」
クラサメは目を細め、じっと私を見た。
「される方も辛いし、する方だって簡単じゃない。だから、みんな会話の記憶が無いって言うなら、やっぱり魔力を注ぎ込まれてると思って間違いないと思う」
「だが……そうであるとして、どうやって調べる?」
「え」
大体、この話がもうほとんど出たとこ勝負の口からでまかせだ。いや、全く考えてなかったわけではないし、それもやらねばならないことなのだが、それでもまだ考えは纏まっていなかった。
だから、もう私から提案がないと見ると、クラサメは呆れたように肩を竦めた。まるで話にならないと言いたげだ。
……呆れた顔は嫌いじゃなくとも、そういう呆れは嫌だ。少し悲しいから。
「それで、こんな時間にわざわざ来たのか。大した話でもないのに」
「あ……う、それは……悪かったわ……」
二の句が告げない。言いたいことはあるのに、うまく言葉にならなくて。
もう直球で口説いてみようかと思ったけれど、それもできそうにない。どうすればいいか、想像もつかない。今まで何人口説き落として捨ててきたと思ってるんだかと自分で自分が情けなくなった。
「……用がないのなら、もう戻れ。こんな時間に、仮にも婦人が一人で出歩くものじゃない」
「……」
「何か誤解でも受けたらどうしてくれる?私だからよかったものの、勘違いする馬鹿もいるだろうから、罷り間違っても子どもたちのところなどには訪ねていくなよ」
唇が震えた。
あからさますぎるほど、それは他人行儀な忠告だ。私は目を閉じる。
私のことなどなんとも思っていないから、ここに間違いは起きない。そう言っているも同じ。
悔しいんだか悲しいんだか、目をゆっくり開いた時には、あれだけ長く燻っていた覚悟が完全に決まってしまっていた。
私は酒のボトルをテーブルに置いて、頭を軽く振って髪を空気に波打たせる。それに揺られて、薄手の羽織ものが床に落ちた。
「あんまりにも、酷い言い草だわ」
一歩踏み出して、私はクラサメを見つめたまま至近距離に迫る。彼は目を見開いて、僅かにたじろいだのが私にもわかった。
少しだけ胸がすくような気になりながら、私は手を伸ばしクラサメの頬に触れた。
「おい、ふざけるな」
「ふざけてなんかないよ」
「なら頭でも打ったか」
「……違うってば」
私は何度も首を横に振って、身じろぎするクラサメに追いすがった。
クラサメの目に動揺が滲んでいる。
「勘違い、してよ」
変な勘違いして、私を襲ってでもみなさいよ。なんでもいいから、ここから救い出してほしい。
「お願いだから……」
一瞬だけ、視線が手繰った糸のように絡み合ったのを感じた。そんなことは初めてだったのに、噛み合った視線がお互いの意思を包み隠さず伝えるみたいだった。
もう自分でわかっている。
私はこの人のことが好きなのだ。
守ってもらったのは初めてだった。一緒にいてほしいと思ったのも。
喉の奥が干上がりそうなくらい、緊張している。
そう思うのに、ややあって、噛み合った視線は外された。
クラサメの胸元に触れていた手を掴んで外され、諌めるように肩を押される。
「いい加減にしろ。悪い冗談だ」
「……」
「子供じゃないんだ、そんなことを言ってる場合じゃないのはわかっているだろう。それとも何だ?私を誑かせば諜報の仕事に有利に働くとでも?」
私は後退った。見上げるクラサメの目には僅かに嫌悪が覗く。自分で言いながら、きっとそうだと確信したみたいに。
「なによ、それ……わ、わた、私が……いまさら、そんなことすると思ってるの?」
「思うも何も無い。そもそもお前はミリテスのスパイだろうが、信用するほうがどうかしている……」
私から目を逸らして言う彼の横顔を見つめながら、私は背筋が震えるのを感じた。
その通りだ。信用するほうがどうかしている。今までも何人も騙して、クラサメのことだって騙す気でいたのだから。それなのにどうして、私は変な勘違いをしていたのだろう。
城仕えを始めて一年。クラサメに事が知れて数か月。
大した時間じゃない。私とナギの時間にも、クラサメと子どもたちの時間にも到底及ばない。
それでも何かがあると、無意識に信じていた。私とクラサメの間に、何かがあるはずだと。親を信じる子供みたいに無邪気に、無防備に、この男に心を晒していたから。その無条件の感情が絆らしきものを築いてくれると、信じきっていた。
……愚かにも。
「……そうね、そうよね」
頬を滑り落ちるものは、昼にシンクの前で流したものと同じはずなのに、あの熱を失って冷えきっていた。私の涙に気付いたクラサメの目がぎょっと見開かれるのを見やり、私はかぶりを振って顔をそむけた。
ここにいても無駄だ。私は足元の羽織ものを拾い上げ、踵を返す。
「お、おい」
「急に来てすみません。もう戻ります」
無風の室内。暖炉に火はなく、夜半によく冷えるのは当然のことだった。
私はクラサメに最後に視線をやって、寄る辺無く伸ばされた手に目を止めた。
つい引きとめようとしたのだろうけど、引き止めてどうするのだと内心苦笑する。
「また明日。クラサメ先生」
救いようのない愚かな女を、誰か笑いでもしてくれればいいのに。
きっとクラサメは頼まれてもそんなことしないから、ただじっと痛みに耐えるしかない。
廊下は暗く静まり返っていて、私を否応なく心細くさせた。背後で足音が続かなければ、きっともっと泣きたくなっただろう。
「おい、待て……!」
「どうして?」
問いながら振り返ると、目が合った。困惑しきった、緑の目。
「あなたは私に何もしてくれないのに?」
思っていたよりずっと冷たい声が出た。
クラサメは戸惑いを隠しもせず一応私を追ってこそ来たが、それだけだ。
でもこれで良かった。そう思いながら、私は闇に紛れるように一歩大きく踏み出して、彼の傍を離れた。
これで良かったのだ。クラサメのことが好きだから、彼が賢明であったことに感謝しよう。
彼を巻き込むところだった。自分の身を守るために。
もうやめよう。……諦めないとしても、一人で戦うべきだ。
結局最後、私は一人なのだから。あの独房に至らぬ道を見つけたとしても、きっとそれだけは変わらない。
シンクの指先がなぞった頬の熱を、私は思い出していた。
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