墓地を出て、遠回りになるとわかってはいたが、城の外縁部を目指して歩いた。正門を開ける方法がどこにあるのか、クラサメは知っているみたいだった。
しばし進むと、突如ぱっと視界が開け、軽やかな水音が耳に届く。

「うわ、風車だ……あんな大きいの見たことない」

風が大きな塔にくっついた風車をゆっくり回し、それによって足元の水車が動く。潅漑のための設備をここに来るまで見ていないから、少なくとも城の半分近くにたった一つの風車だけで水を運んでいるのだろう。

「……あれ?」

私は不意に、足元を咲く花に気付いて足を止める。その花に見覚えがあるような気がしたからだ。

故郷の村は寒くて、とても花が咲く気候ではなかった。農業だって、小さな水車をいくつも、時には人力で動かしてなんとか行っているという有様だったくらいだ。
だから花を見たのは、ほとんど初めてだった。春にはたまに、寒さに強い花が芽吹くこともあったけれど、その花も地中に種を残すことはなかったから、やはり珍しくて。

それなのに、私はこの花を知っている。

「この花は……確か……」

喉の奥で、誰かが囁いた気がした。

――ヴェルヌ。

「ヴェルヌ?」

知らない名だ。少なくとも、語感がミリテスのものではない。それなのに私はこの花を知っていて、白い六枚の花弁を懐かしんでいる。そんな感覚がある。
これは、一体どういうことだろうか。わからなくてクラサメを見上げると、彼は困ったような目で私を見下ろしていた。

「……」

「あ、ごめんね、急ぐよ」

私が突然足を止めたので、待ってくれていたのだ。私が止まれば、クラサメも立ち止まる。無理に引きずっていくわけにいかないから。
クラサメは優しい。所以無く手を引かれることが、時折申し訳なくなる。

『……お優しいことですね』

その声は水車の水音にかき消されそうなぐらい静かに響いたから、聞き漏らす寸前だった。どことなく怜悧さを滲ませるその声音に感情は混じらない。慌てて周囲を見やると、声の主は案外簡単に見つかった。
風車の足元からゆっくりと歩いてくる人影は、やはりと言うべきか真っ黒な影に縁取られており、その手に真っ直ぐな細い棒らしきものが握られているのが見えた。おそらくは剣だろうと思う。

『こんにちは、先生方。……クラサメ先生はともかく貴女はわたくしたちのことを覚えてらっしゃらないそうですから、どうぞお見知り置きを。わたくし、クイーンと申します』

「え、あ、よ、よろしく……?」

なんと答えればいいかわからず、私は反射的にそう答えた。と、影は僅かに会釈したように見えた。

『あの子たちが、ご迷惑をお掛けしているようですね。……全く、短絡的で困ったものです』

「え!?い、いやあの、迷惑とかそういうわけじゃ……でも、私たち、ここから逃げたいだけなの。だから、あなたたちが何を勘違いしてるか知らないけど、ここから出してほしくて……」

『……そうですね。お気持ちはわかりますよ。わたくしはこの世界に起きている現象について、わからないなりに考察いたしました。“あのとき”何があったのかわからないままだけれど、それでも、これからどうするべきかはわかります』

彼女は近づききる前に、足を止めた。剣先をこちらに向けるでもなく、ただ静かに立っている。

『しかし、……わたくしのきょうだいたちときたら、揃いも揃って脳みそにスポンジケーキでも詰まっているのかしらね?』

クイーンの言葉はつぶやくように、ひとりごととして落とされた。だから、私はどう答えたものかわからず、ただクラサメに視線をやった。
クラサメはしかし、私を見なかった。クイーンをじっと睨むように見つめ、警戒心を露わにしていた。握りこまれた手に、力が入る。僅かにぴりりと、痛みが走った。

『少なくとも、何も考えていなかったとしか思えないわ。やみくもに攻撃してばかりで。……せめても搦手を使うべきところで、直球勝負ばかりして。自信があることと、驕りがあることはまったく別のことなんですから、そこは考えて戦ってくれないと』

「え……」

『例えばそう、……』

彼女の立っている地点を中心に、風が吹く。ぐるぐると渦まいた風は、花を千切り白い花弁を巻き上げて私の視界を覆い隠そうとする。
クラサメが庇ってくれるけれど、代わりに視界がゼロになった。

そして轟音が耳を劈き、地面以外に世界と触れている場所がなくなったのを感じた。
何も知覚できない。何も見えないし聞こえない、クラサメの背中と地面しか存在すら感じ取れない。
この城にやってきて、あの小さな容れ物に放り込まれたときのような心細さが私を混乱させていく。

それなのに、彼女の声だけはいやにはっきり聞こえた。

『例えば、このように……』

透き通るような、綺麗な声だと思った。
思っている場合ではないと、わかっていても。

『策くらい立ててみませんとね?』

土煙を裂いて、迫り来る何かの正体に気がついた頃には、もうすでに遅かった。
私には見えてすらいなかった。反応できたはずも、なく。

強い力が私を、その場所から押し出して、ようやく知った。
風が持ち上げたのは水車で、塔から引き剥がされた水車は、土煙の中転がって、私たちをつぶしにきた。
クラサメがそれを理解して、私を突き飛ばしたから、私は膝が痛いくらいで……無事。

「あ……あ……」

『……あら、まぁ』

私は無事だった。
けれど、そんなことどうだっていい。
私は地面を這って、クラサメに近づいた。

「ああ……あああ……あああああああ……!!」

水車の端が、倒れ臥したクラサメの上にのしかかっていた。彼の顔は真っ青で、指先が痙攣し、見えないけれどきっと唇も青ざめているに違いなかった。

『……これは予想の埒外ですね。そちらが倒れるとは、いっそ好都合だけれど』

「く、くら、くら……くらさ……あ、あああ……くらさめ、くらさめ、くらさ、め」

故もなく、私を守ってくれた人が、今、縁もなき私を庇って、地面に倒れ臥している。慌てて水車をどかそうとしたが、私の力ではびくともしなかった。

背筋が凍るのはなぜだ。
もう守ってもらえないから?……そうかもしれない。
いや違う。
守ってほしい、けれど。


私は、あなたに守ってほしいけれど。
他の誰でもないあなたに守ってほしかったけれど。

でもやっと、こんなに時間をかけて、ようやくあなたにもう一度――……、だからもう、……たくないのよ。



頭の奥がじりじりと痛い。もう何も考えられない。
手は何度も宙をかいて、ようやくクラサメの頬に触れる。金属のマスクは冷たくて、彼の肌はとても温かかった。
涙が眼の奥からじわりと浮き出てきたのを感じた直後、それは雫となってこぼれクラサメに向かい落ちていく。
透き通って落ちた涙は、クラサメの目の下を叩いた。

『…………そんな……』

彼女がまだ、何かを言っている。でもそんなこと、どうだってよかった。
涙の雫はクラサメに触れて、光った。ほんの少し薄緑色に輝いて、硝子みたいだった。

『そんな、バカな、ことがっ……!』

涙の周りに、何かが撒かれた気配がした。それは言葉のようで、針金のように思えたが、直後、これは魔法だと思い直した。
しかし私に使えるはずがない。魔法を使えるのは、今この世界ではルシさまだけ。どんな小さな子供だって、それくらい知っている。

――魔法に必要なのは、意思、魔力、詠唱。

クラサメの声がした。夢のなかでしか聞いていないから実態を伴わないくせに、やけにはっきりと。
夢の中では、確かにクラサメは魔法を使った。ではこれも彼の魔法?

そんなことを、思った刹那。

「……、……?」

クラサメの指先が、はっきりと意思を持って動いたのがわかった。土を掻くように動いてから、水車の端を後ろ手に掴む。
私も手伝おうと手を伸ばして、一緒になって力を篭める。と、さきほどびくともしなかったのが嘘みたいに、水車はゆっくりとだが確かに浮いた。クラサメは空いた手で体を前に滑らせるように這い、水車の下から抜けだした。

クラサメは真っ直ぐ、クイーンを見る。その目はどこか怒りに燃えているように思えた。

『……ち、違うんです。あなたたちを分断しようとしただけです。別に狙ってません。本当です』

「……」

『信じてませんね!?本当に違うんです、違いますから!わたくしは、ただ……ああ、でも……』

クイーンは早口になにやら騒いで釈明らしきことをしていたが、不意に私に視線を留め、浅くため息を吐いた。

『……でも。まさかこんな、想定外のことばかり起きるなんて思わなかった。わたくしには……エースを奪ったあなたたちをもう一度信じるなんてこと、できそうにないけれど、でも……』

「……エース?」

『記憶がないあなたには、分かり得ない話ですよ。……でもね、少しだけ……少しだけ、あの頃を思い出して、懐かしくなってしまうから。六百年は、恨むには長すぎるのかもしれないわね……』

彼女は最後、消え入りそうに言った。
わからない。言葉の意味も、感傷めいた声音も、私たちに追いすがるように代わる代わるやってくるその理由も。
わからないけれど、悲しくなった。

私がさっき見つけた白い花は、風に荒らされ、花弁は千切れて散っていた。クイーンが足元の花弁を見つめ、『この花、覚えていますか?』と聞いた。
私は、ついとっさに頷く。

『この花は、ヴェルヌと言って……他にも色はあるのですが、とりわけ白には、はかない恋だとか、叶わぬ恋といった意味があるそうです。神話からきているのだとか。……恋ではありませんが、叶いませんでしたね。あなたも、わたくしたちも』

このこどもたちを置いて、私はこの城を出ていいのだろうかと。
自分より明らかに年かさのこどもを見て、思ったのだ。
レムとマキナを置いてきた、もうずっと昔に思えてしまう、ほんの三日か四日前のあの瞬間のように。
自分が寂しいから、だけではなく。この子たちが、きっと寂しい思いをするだろうと、そう思って。

クイーンはさらさらと、これまでの影と同じように、風に溶けて消えていった。後には私とクラサメだけが残った。

「……」

「クラサメ、怪我は……痛みとか、大丈夫?」

「……」

肯定を表す首肯。私はそれを見つめ、私の方から彼の手をとった。彼が驚くように僅かに目を見開いた。

ああ、私は、もう私なのか“私”なのか、それすらどうでもよくなってきている。ただこの手を握りたいと思ってしまっている。理由はわからない。彼に恋でもした?“それならきっととても健全で、つまらない話で済んだでしょうにね、ねぇ私。”

「私、あなたといるとおかしくなる。もうぜんぶわけわかんない」

「……」

困り顔。
微妙な表情の変化を感じ取れるのはどうしてだろう。それだけの時間を過ごしたわけじゃあ、ない。十年来の恋人というわけじゃ勿論ない。
いやそもそも、あの“私”だって、彼と恋人などではなかった。

「でもね、あなたと一緒にいたい。あなたと遠くに逃げたい」

彼は何も言わず、私を見つめていた。

「一緒に、逃げてくれる?」

六百年、待った。
彼がそう言ったような気配すらしていた。







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