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前世らしきものの記憶があると言ったら、きっと誰もが顔をしかめ来週には職場だろうとどこだろうと変わり者として周知されるだろう。
だからナギは、この話を他人にしたことがない。
ナギはナツメという女を知っている。ずっと知っていた。長い付き合いだったし、後にも先にもナギが心を許した他人は彼女だけだろうと思う。
別段、女性として好んでいたとかそういうことではなかった。向こうも己にそういった関心は皆無で、色恋めいた雰囲気は一切ナギとナツメの間にはなかった。
それでもナギにとって、一番信用できる人間であったし(もちろん行動が予測可能であるから、だが)、ナギが身を粉にして働くのはいつだって彼女か、0組と呼ばれていた連中のためだけだった。それぐらいには、大切だった。
それがどうして男女の関係に発展することがなかったかと言えば、ナツメ側に理由があったのだと断言できる。究極的なまでに、彼女はナギに興味がなかった。いや、それがナギであるかどうかは関係なかっただろう。ナツメは、クラサメという、親であり兄であり師でもあったとある男を敬愛し偏愛し、更に言うなら彼に執着していた。
ナギとナツメの間にはいろいろなことがあったし、ナツメとクラサメの間にもいろいろなことがあって、そして当時の世界にもいろいろなことがあった。
そんないろいろの殆どが片付いた後のことは、いまいち記憶にない。ないのだが、それから何年後かはわからないある日のことだけを鮮烈に覚えている。
その日、ナツメが死んだ。
流行病か、歳の病かなんてことはわからない。ただともかく、記憶の中にあるナツメの顔でもっとも老けていたことだけは確かだから、一番新しい記憶だろうと思う。
ナツメは青ざめた顔で横たわっていて、周りに何人か人間がいた。その中に、クラサメもいた。
だが最期の瞬間、ナツメはクラサメでなく、ナギを見た。
「……、……、……」
そして、なにごとかを呟いた。
ナギにはそれが聞き取れなかったから、ナツメが何を思ってナギを見たのかわからない。
ともあれそのとき、痛烈に思ったことがある。
ああ、クラサメさえいなければ。
この男さえいなければ、もしかしたら、あるいは、ほんの僅かな可能性であったとしても。
ナツメは、彼女のどうしようもなくくだらない人生は、自分のものだったかもしれないのに。否、自分のものになるはずだったと思う。幼子がいっときの興味だけで欲しがったものを取り上げられて、地団駄を踏むようなもの。そんなに欲しいわけじゃない。でも、自分のものにならないはずがなかったと、苛立つ感傷。
だから。
願わくば次こそは、クラサメが彼女の隣にいませんように。
それは鮮明な願いとなって、祈りになって、罷り間違って叶ってしまうこととなる。
「(……別に叶わなくったって良かったんだけどなぁ?)」
そうひとりごちて、ナギは浅くため息を吐く。それを見咎めるように、彼女の眦が吊り上がった。
「ナギ!ロット数ミスってる、やばい、急いで工場行くよ!」
「ああ、……今行く」
この体に生を受けて早二十年と半分。
ナギが選んだのは、企業スパイという仕事だった。
さんざん忌み嫌った稼業だったけれど、なんだかんだと性に合っていたらしい。生まれ変わって、しがらみが消えても、結局似た仕事についてしまっていた。
「(あんな記憶があっちゃあ、まともな仕事につこうって方がどうかしてっかもな。俺は……どうしたって、嘘ばっかついて生きてくしかねぇんだから)」
それをどんなに、恐れたって。厭うたって。ナギはそういう人間に過ぎなかった。失望する代わりに、少し笑った。
ナツメに出会ったのは、企業スパイとしての仕事の一環で潜入した、小さな広告代理店だった。ナツメは今は恋人もなく、家族もなく、何よりクラサメが傍にいなかった。
そのことに驚きながらも、ナギは少しずつ彼女に接近していった。もしかしたら彼女もあの記憶があって、ナギに打ち明けてくれるかもしれない。そんな日が来るかもしれないと。
だが、そんな期待は長くは続かなかった。
ナツメの長い髪が、真横で風に煽られて揺れた。微かにいい匂いがした。
「(……違う)」
そのいい匂いに、吐き気がした。そんな自分に辟易する。
だって匂いの奥に、血の気配がない。
ナツメは容姿だけをそのままに、ただの女になっていた。
靴とバッグを愛し、洒脱で軽快、毎日の化粧にも僅かに変化のある普通の女。
ナンパを軽くあしらって、飲み方も心得ていて、多くはなくともまともな男性経験があって、どんな理由があろうと他人の頭をかち割ることのない……普通の女に、なっていた。
こんな女が突然、ナツメとしての記憶を語り出すはずがない。あいつがこんな別人に成り果てるなどありえない。
彼女は、ナツメではない。そう結論づけて、久しい。
「ナギ、道すがらまとめたいから資料もっかい見せてくれる?」
「ああ。……ほら」
ナギは彼女とふたりきりになると妙に無口になってしまう自分に気付いていた。性懲りもなく、かつての彼女の面影を探しているのだ。数秒後にはいつもがっかりするというのに。
ナツメはもうあの殺伐とした雰囲気を完全に失って、苛烈な愛情を失って、普通の女になってしまった。ナギが欲しがる価値などない、ただの女。
「(どうしようもねぇな)」
マスカラで遺憾なく伸ばされた長い睫毛を見下ろして、ナギは内心ため息をついた。見つかるのはいつだって相違点ばかりじゃないか。
そんなことを思いながらも、ナギは結局彼女の友人になっていた。彼女に手を出すべきか、より後悔するばかりではないかと恐れながら、少しずつ少しずつ距離を縮めた。
そして、これは先日ふいに気付いたことだが。
もしかして、この差は、違いは。
クラサメと出会わなかったが故ではないか?
「ナギ、どうかした?」
「……いや、別に?」
そう思ってしまってからこっち、ナギはナツメと仕事をこなしながら、一日の大半をこの思考にあてている。
「どうしたのよ?さっきからぼーっとして。電柱にでもぶつかって転ぶよ」
「さすがにそこまで間抜けではねぇよ」
「どうかなぁー?」
彼女の声は、聞いたことがないくらい楽しげに跳ねている。別段上機嫌というわけでもない、これが“彼女”の普通。ナツメではありえなかった、優しい声音だ。
……こんなのつまらない、元の彼女に会いたい。あれがクラサメと生きたが故の結果であるなら、クラサメと出会ってでもあの彼女に戻って欲しい。
ナギは今、彼女にも本心を晒せない。晒せるはずの相手が目の前にいるのに。
「(でもなあ……)」
予感がある。
クラサメと出会った瞬間、彼女は悪い夢から醒めるかのように、みるみるうちにあのナツメに戻るだろうと、確信めいた予感がある。さながら真実の愛が呪いを解く、そんなありがちなお伽話みたいに。
そして彼女はもう二度とナギを見ることはないし、彼女だけが持つ苛烈な愛情はただただクラサメに向けられ続けるのだとわかっている。
ナギが欲しがっているのは、ナツメではない。
否、ナツメを欲しがっていた、それも端的に言えば事実なのかもしれないが、そうではない。
クラサメだけに向ける、偏りすぎた愛情が欲しかった。誰だってそうだろう。特にナギは、あんなに全力で愛されたこと、親にもないから。
欲しかったあれが、ナギとナツメでは生まれない。だからといって、クラサメが現れたら、ナギに敵う余地はない。
最悪のジレンマだ。どうしようもない。
この日もそんな憂鬱な心を引きずって、ナツメとの距離をまた僅かに縮めていく。
その関係が急加速するのは、それからまた数か月が経ってからのことだった。
その日は、仕事が押しに押していた。
ナギはといえば、企業スパイのお仕事が大詰めで、もうすぐ対象の企業の情報を集め終わるだろうというところだった。
このまま順調に仕事が進んだなら、ナギはあと一週間もしないうちにこの会社を去る。覚悟を決めねばならぬ頃合いだと、わかっていた。
仕事をようやっと済ませ、否済んではいないのだがとりあえず帰ってシャワーを浴び着替えなければ、そういった有様で二人なんとか会社を出た。
二徹目に突入していたこともありいまいちふたりともまともな状態でなくて、このまま別れたらふたりとも帰路で事故にでもあって死にそうだということで、とりあえず軽く食事を取ろうと二人、二十四時間営業のファミレスに向かった。そこで、夕飯のはずなのにモーニング限定の定食を口にしながら、妙に薄いコーヒーと客のいない店内を見つめて、ナギはナツメにこう問うてみた。
「なぁ、ナツメ、お前さ」
ナツメは眠気のせいか半開きの目をこちらに向けた。胡乱なその目があの世界のナツメによく似ていて、だからこんな質問をしたのだろうと、思った。
「もしこいつさえいなければ、もっとうまくいったのにって、思ったことある?」
ナギの意味の通らない問いに、ナツメはしばし考えこむように沈黙した。それからゆっくり口を開き、彼女が言うことには。
「そこに誰が居たって、至る結果は己の選択だと思ってるわ。だから、何かが叶わなかったなら、自分の力が……望む力が足りなかったんじゃない?」
「望む力?」
「そうよ。強く望みさえすれば、案外なんでも叶っちゃうでしょ。叶わないことは、強く望んでなかったり……望んじゃいけないって、セーブかけてたりするでしょ」
そう言って、かつての彼女ならあり得なかった微笑みをナツメはうかべた。
あの頃のナツメなら、そんなこと言うはずがなかった。努力したかどうか、望んだかどうかなんて問題じゃない。所詮は運が足りなかっただけだと、きっとそう言った。
けれども。
この彼女は、望めば叶うと言う。
この会話が彼女の命運を決めたことに、彼女は気付いているだろうか?
否、気付いているはずがない。ともあれこのとき、ナギは決めたのだ。
「……俺、来週で契約切れ。更新望んでねぇから」
「うそ。なにそれ、突然ね」
「ま、派遣会社のほうでいろいろと。他に俺を欲しがってるとこがあるみたいで」
「なるほどね……残念、私あんたのこと結構好きだったのに」
彼女の冗談めかした本音を、ナギはきちんと嗅ぎ取った。
決めた。
「なら、やめる前に付き合っちゃう?」
この女を、手に入れる。今のうちに、クラサメの現れる前に。
見開かれる目を見つめながら、ナギはナツメの手を取った。これが始まり。
クラサメと出会って、また“あの”ナツメに戻らせること。
そちらを選ぶべきだったかもしれない、そう思いながらも、もう迷いはしない。
ああ、迷ってなんかいないさ。
「やめっ、ナギ……!!」
「やめねぇよ、誰がやめるかよばぁか」
ナツメが出て行くなんて言い出すから、ナギは驚いたし戸惑ったし恐怖した。
しかも理由を言わない。そんなの、心当たりがありすぎる。
クラサメか。
ついに出会ったのか。
出会わないように閉じ込めておいたのにどうして。
仕事もやめさせて、家にいるようにしさせたのに。
呪いがとけるみたいに、命が求める使命めいたあの恋に出会ったのか。
もう何がなんだかナギにもわからない。
あのナツメに戻ってほしいのか、このまま己のものでいてほしいのか。
クラサメの存在に気がついてしまったらきっとナギのことなど忘れ去って、もう戻ってこない。
友人で、仲間で、同僚で、姉で妹で母で相棒だった女。
ただ、恋人にはなれなかった女。
全部を手に入れなければこの嫉妬は収まらない。
恋人の座を得る代わりに、己は何を失った?
本当に、己はこんなものが欲しかったのか?
わからない。
ナギは薬を水道に流して、笑って、ナツメをもう一度閉じ込める。
世界にナツメしかいないならナギは作り笑いなんてしなくていいのに、ままならないものだなぁと思った。
翌朝も変わらず、ナギはナツメの作った朝食を食べ、ナツメを一人置いて部屋を出る。
ナツメはクラサメに出会ったわけではなかったようで、従順に戻ったから、しばらくは逃げないだろうと思う。もちろん油断はできないけれど、ナギのことを愛してくれている。少なくとも今はまだ。
時期に見合わないほど強い日差しに辟易としながら、ナギは仕事に向かうため最寄り駅のホームに立つ。
反対の路線に電車が滑り込んでくる。女声のアナウンス。一分もしないうちに、電車はまた走り去った。
その直後だけは、ホームはほぼ空っぽになる。
だから、その男はいやに目立っていた。
紫紺を滲ませる黒い短髪、黒いスーツ、マスク。
怜悧な双眸、均整の取れた体、武道経験を感じさせる立ち姿。
男はゆっくりと視線を彷徨わせ、ナギに気がついた。
見開いた後で細められた、射抜くような視線がじっとナギを刺した。
「う……そ、だろ……」
ナギがつぶやくと同時に、こちらのホームにも電車がやってくる。目の前で開いた扉から人が溢れ、ナギは後ろから押されるようにして電車に乗り込んだ。
電車の窓に押し付けられながら、必死に反対側のホームに視線をやる。
果たして、男はもうそこにはいなかった。
「うそだ……」
見間違いであれと祈りながら、それでもその冷たささえ覚える眼の奥に、ナギはナツメの眼を思い出していた。
よく似た双眸が、涙で滲む様を。
すべて not 事実
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