私はまた、早朝の空気の中で一人、裏庭の畑にいる。未だに少し体力が戻らないような気がするけれど、大きな魔法を使ったらいつもこうなるので慣れている。

いや、これだけ体が重くなる以上、慣れるほど使ってはいけないのだろうが、それでもいつもおちおち使ってしまっては、しばらく体の重さと戦うことになる。
とはいえ後悔はない。少なくとも、望んでしたことだ。いくらとっさのこととはいえ。

僅かに震える指先でそっと、ローズマリーの根本の石をひっくり返す。そこには、何もなかった。
なかったのに。

背後に息衝く気配を感じて、私はとっさに振り返る。そこには誰も居ない。

「……」

ほっと息を吐いて、私は畑へ向き直ろうとした。その瞬間、冷たい金属が喉元をなでて硬直する。
そして、次の瞬間だった。

肌だけが違和感を感じ取り、風が勢い良く舞い上がった。
私の目の前を、木の葉の切れ端が通り過ぎていく。

息遣いは三つ聞こえた。私、それに二つ。一つは、見知ったもの。兄弟のように育った男の息。そしてもう一つは、そいつと私の間に体をねじ込んだ一つの黒い影。

「な……に……?」

状況を理解するのに、だいぶ時間がかかった気がする。実際のところ、二、三秒だったはずだったが。
そこにはクラサメがいて、ナギがいた。ナギが振りぬく途中のナイフを、クラサメの繰り出した青く透き通った剣が止めている。

ゆっくり理解したところによると、つまりはナギが私に忍び寄り喉に当てたナイフをクラサメがあの剣で弾き、そのまま鍔迫り合いに近い状態へ持ち込んだというわけだ。私は完全に蚊帳の外である。
戸惑いながらも、私は慌ててクラサメの名を呼んだ。

「クラサメ!なに、突然、どこから!?いやナギもどこから!?」

慌てすぎていることに気づいたのは叫んでからだった。せめても冷静になろうと考えた結果、私が収めさせられるのはナギのナイフだけであろうと思い直す。

「ナギ、私をからかいに来たんでしょうけど、危ないからナイフしまって」

「お前な、今まさに剣を向けられてるのにナイフしまえるワケなくない!?」

「あんたが攻撃しなきゃクラサメは刺したりしないから!……しないよね?」

「こいつは立派な侵入者だ、約束はできん」

私は暫し悩んだあと、一歩進み出てナイフと剣の間に体を差し入れるようにしてナギを見た。ナギは苛立ちを隠しもせず、クラサメを睨んでいる。

「ナギ、一体どうしたの?もう用はないはずじゃあ……」

「きょうだいに別れを言いに来て何が悪いんだ、クソ。こんな風に邪魔されるとは思わなかったぜ」

「城に侵入するからだ」

「てめぇこいつについてくるんだからどこでだって邪魔すんだろ、クソ。……ああもう、台無しだぜ」

空気がとても冷たい。居づらい。私抜きでやってくれないかという気持ちになったりもしたが、そういうわけにもいかないだろう。

「しかしお前、いっちょまえに情夫作ってるあたり余裕だなおい?心配してきてやってんのに損した気分だぜ……」

「誰が情夫なんざ……え、何クラサメのこと?違う違うものすごく違う!私は見張られてんのよこの人に」

私がクラサメを親指で指すと、クラサメは不機嫌そうな顔で私を見遣り浅く頷いた。こっちが不機嫌になりたい……。
私はため息を落とし、腰に手をあてナギを睨んだ。

「そんなことより、一体何をしにきたの?見つかったらどうするのよ」

「いやもう見つかってっけどな……まぁ、俺を捕まえようとするんなら殺すだけ。さっきも言ったが、きょうだいに別れを言いに来たんだよ。見張りナシでな」

今度はナギがクラサメを睨む。そうなるとクラサメも睨み返す。収拾がつかない……私はもう一度だけため息を深く吐いた。

「やっぱり、あの時は見張りがいた?」

「俺一人でお前に会うなんて、信用されるわけがねぇだろ。俺らは問題児コンビだぜ?もう二十年もな」

「そりゃ違いないわね」

私がつい喉を鳴らして笑うと、怪訝な顔でクラサメがこちらを見た。つい表情を取り繕ってから、この間手を刺されたことを言いたいのだろうと思った。
ナギは構わず続ける。

「お前にどうしても、伝えたいことがあったんだ」

「……なぁに?」

ナギはもうクラサメを見てもいなかった。

「これが……これが最後になることを祈ってる。もう二度と、俺とお前が出会うことのないように。お前が今回できちんと死んで、もう戻ってこないように」

ナギはクラサメの横をすり抜けて進み出、私の手を取り、己の心臓に当てた。互いに一歩近づいて、額をぶつけて、髪が一瞬混ざる。
これは私たちの、たったひとつの願いの言葉。切り立った崖のような前途を言祝ぐ、幸いの呪い。
帰ってなど来ないように。人としての尊厳を守って、死ねるように。

どうか、独房へ至ることなく。

「私も、あなたの死を祈る。あなたが独房へ至りませんよう」

その言葉にナギは笑って、踵を返した。どこから入ってきて、どこから出て行くのか。知らないし興味もない。もう会えないつもりで、私だってナギの死を祈るべきだから。

クラサメが隣で訝しむ目を向け続けていることには気づいていたが、私は暫し、見えなくなった背中を見送った。冷たい風が一陣吹いて、僅かに身震い。もうこの年が終わる時期、暖かなこの国でも早朝ばかりは冷たい風が東から吹く。
その冷たさの中にあって、私は足元の薬草籠を見つめたまま肩を竦めた。

「それで?あなた、ナギを見逃してよかったの?」

「そうすればお前も敵対行動を取るだろう。ルシと真っ向から戦うのは得策ではない」

「……なぁんだ。そんな理由か」

私はつい苦笑して、彼に向き直った。「しないよ」そんなこと。

「なぜ?ルシなら、適当なところで私を処分すればいい。なぜ私を放置する。所詮敵ではないと侮っているのか?」

「違う違う……私はルシだけど、……あんまり魔法に適正がないの。回復魔法とかはまだ少し使えるけど」

「……ルシなのにか」

「ルシなのに、魔法を使うと……魔法を使うとね、命を削ることになるの。人を殺せるような大きい魔法は特にね。寿命が縮んでるのを感じるわ」

こんなことを話してどうする。話して……どうなる。
そう思っている。思っているのに、どうしようもないほど簡単に私は彼にすべてを話してしまう。めいっぱいブレーキを踏んでいるつもりなのに。

「だからまぁ、気持ちはわかるけど、あんまり見張ってても無駄だよ?元々暗殺任務とかじゃないし、ていうか亡命したいって言ったばっかりじゃないの」

「そんな言葉を信用するわけがないだろう」

「まぁ……それはそうかもしれないけどさあ……」

「私は女王の子を預かっている立場だ。彼らに危険が及ばぬよう守る義務がある」

「……ふぅん」

それはまた、羨ましいこと。
信じてもらったことどころか、守ってもらったことなんて一度もない私は、その言葉に心が冷えるのを感じた。

なんて羨ましいこと。
……普通の人間として生まれてさえいれば、私だって、もしかしたら……。

「どうした?」

クラサメが眉を顰めて問うた。どうも、私はぼうっと立ち尽くしていたらしい。

「……なんでもない。ごめんなさい」

考えても無駄なことを考えて、ごめんなさい。
分不相応なことを望んで、ごめんなさい。
羨ましがってごめんなさい。
謝ることばかりだ。生きているだけでも。

どこに生まれたって、きっと苦痛は降る。ルシだったぶん、そして独房のある場所に生まれたぶん、少し多いだけ。
悔やんでもどうにもならない。少しでもマシな場所で死ねるよう、祈るだけ。

私は無言で薬草の採取に戻った。クラサメは知らぬ間に、立ち去ってくれていた。
少しだけ感謝した。










「先生、先生!」

「あの魔法どうやって使ったの!?」

教室に入るやいなや、子どもたちに囲まれた。もちろん全員ではない、キングだとかサイスだとかはいつもどおり外やらに視線を投げている。
が、ケイトやデュース、ジャックなど人懐こい性質の子たちは目をきらきらさせて私の顔を覗き込んでいる。

「え、ええと……」

「あれってエアロ魔法の最上級だよねっ?」

「エアロガって言うんでしょ?まだ誰もできないんだよ、風魔法は扱いが難しいんだ」

「先生はあれをどこで習ったの?どうしたら使えるようになるの?」

怒涛の勢いで四方から言葉が飛んでくるので、どれに答えていいか戸惑う。ええ、ああ、うん、と適当な相槌を繰り返していたが、どうもすべてはたったひとつの質問、どうしてあんな魔法が使えるのかに集約されるようだった。

「ええと……あのね、魔導学校ってあるでしょう?あそこで学んだのよ」

嘘である。

「あ、知ってる!入るのもすっごく難しいところだよね」

「クラサメ先生はあそこの主席卒業生なんだよー!」

ケイトとジャックがそんなことを教えてくれた。なるほど、あの男やはり尋常ならざるエリートか。
城で女王の子供の専任教師をしているあたり、それぐらいの経歴は持っていそうだと思ったが、やはり。

ルシの血縁というだけじゃない。彼はおそらく、普通に戦っても自分よりずっと強そうだ。

クラサメに言った通り。己には、魔法の適正がない。
本当ならもっと早く独房送りにされていておかしくなかった。この幸運を、やはり有効に使わなくては。

「まぁ、なんにせよ、今日も授業よ。今日は量の調節で薬にも毒にもなる調合の勉強をするからね。……ああもちろん薬になるほうの調合しか教えないから、そのつもりで」

「えーつまんないよー」

「毒なんか作って何に使うのよ?」

私は笑って教卓の前に立った。授業を始める。子どもたちの集中がまばらに集まり出すのを肌で感じながら、授業用の少し硬い声を出す。





あの後。
自室で目覚め、クラサメに詰問され、私はルシであることを白状してしまった。
だが。

「そうか、逃げてきたルシか」

クラサメはあっさりと、勘違いをしてくれた。

「それはっ……」

つい否定しようとしたのを、すんでのところで踏みとどまる。
相手が勝手に誤解しているものを訂正してまで正体を明かしたいだなんて、どうかしている。

「つまり、ミリテスに逃げた結果、諜報員として使われていると。そういうことだな」

「……」

まぁ当たらずも遠からず。本当に、そう遠くもないのが困る。
間違っているのは、逃げたというところだけ。私はどこからも逃げていない。生まれた瞬間にはもう囚われていて、どこで死ぬかさえ決められていただけ。

「なんにしても、私、あそこにいたくない。もう帰りたくない。このまま、ルブルムにいたいの」

私のその言葉に、クラサメは何も言わなかった。答えてくれなかった。
わかっている。彼はそれを許す立場にも、拒否する立場にもない。
だから彼は、私を見張るだけしかしない。

私はたぶん、このとき、彼に何か言って欲しかったのだろう。浅ましいことに。




授業時間はいつも、矢のごとく早く過ぎていく。

「……はい、今日の授業はおしまいね。課題を出しておくから、明日までにやっておくこと」

そう言うと何名かのブーイングが起きたが、私は笑ってやり過ごす。
課題を配って教室を出ようとすると、デュースが駆け寄ってきて返す踵の右手をつかむ。

「あの!先生!」

「ん?」

「すみません、さっき言いたかったのに、魔法のこと聞いてばっかりで言えなくて」

彼女の顔はうっすら赤く上気し、目は信頼一色に染められているように見えた。

「助けてくれて、ありがとうございました!」

「……いえ、その、えっと、当然のことを……しただけ、だから」


――もう帰りたくない。このままルブルムにいたいの。

誰にも感謝などされたことのない私の中で、最初から嘘ではなかったその言葉が真実として彩られていく。

私は、ここにいたい。
あなたが許してくれるなら。





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