「……ぅあっ……!」
目覚めは控えめに言っても最悪だった。
自分の呼吸が耳奥で響いている。
背筋が寒い。
「……クラサメ」
己の手を握ったまま隣にいるクラサメを見る。クラサメも今度は眠っていたのか、ゆるゆると目蓋を開いて緑の目に私を映す。
奇妙な寒々しさを忘れることもできず、私は手を握り返した。
「あれは、誰?……まさか私なの?」
頷く彼。
「でも、私はルシじゃないよ」
私は、ただの角の子。贄の小娘でしかない。
クラサメの、反対の手がそっと伸びる。グローブに包まれた指先が、私の角の先を撫でた。意図はよくわからなかったけれど、私は寒気が落ち着いていくのを感じていた。
あの夢が何であるにせよ、私はこの人と逃げなければならない。あの女王から、影から、城から。
それだけは変わらない。
私は立ち上がって、彼と共に歩き始めた。
数分も歩くと、風景の変化に気がつく。先ほどの正門前の広場とは違い、少しずつ寒々しくなってきているような気がしている。
少しばかり長い降り階段に差し掛かって、理由を知った。
「ここ、墓地……?」
整えられた墓石が、壁際に整然と並んでいる。村のそれとは眠っている人の地位もまるで違うのだろうが、死者の沈黙を尊ぶ雰囲気はよく似ている気がした。
クラサメが私の問いに頷いて、変わらず私の手を引いて歩く。その背を斜め後ろから見上げながら、あの夢の“私”と彼の関係について考えた。あの世界の“私”を私だとクラサメが思い込んでいるとして、だからって私を抱きしめたり、逃がすためにここまで連れてきたりする理由もわからない。だって仲が良さそうには見えなかった。
「……ねぇ、どうして私を助けてくれるの?」
どうしても知りたい、というわけではなかった。ただ、少し気になった。
あの世界の“私”は妙に淡白な女で、子どもたちのことも、クラサメのことも、まるで気遣っているようには思えなかったからだ。
それがどうして、クラサメのこの手に繋がるのか?
わからない。
わからないのに。
それを理解する間なんて無いと、直感が告げた。
「ッ!!」
突然に引かれた腕、クラサメが私を抱え込み庇う。寸前まで私が立っていた場所に降り注いでは消えゆくのは、黒い影を纏った矢。
はっと顔を上げた視線の先に、影が二つ立っている。
小さい方の影が一歩前に進み出ると、肩に背負っていたらしい大きな鎌をゆっくりと動かして、突如として一閃、風を切り裂いた。
風圧が頬を舐り、私はつい後ずさる。クラサメがそれを察してか、庇うように私を隠した。
『てめぇらッよくもマザーの城でまぁぁた暴れてくれやがったなァァァ!!』
それは、獣の咆哮に似ていた。
特に狼のそれに、とても酷似していて、だから私にとっては恐怖に直結した。狼はどんな村にとっても常に脅威で、その遠吠えの残響は骨身に染みているからだ。
クラサメもやはり、その殺気を感じ取ったのだろう。視線をさっと巡らせて、石柱に立てかけてあった棒の中から最も長いものを手にとった。
『……そして、やはり貴女なのですか。私たちを、引っ掻き回すのは……いつも』
長身の影が、私を見つめてそう言ったのを感じた。クラサメの後ろに隠れている私を的確に射抜く声音だ。
私がとっさに反応できず萎縮する中、クラサメが駆け出す。
『チッ、やっぱりてめぇから殺せってことかよ!!』
『援護します!』
「……ッ」
クラサメが駆ける速度は疾風のようで、目で捉え切れた自信がない。彼は瞬きの間に、二つの影の目前に迫る。
『ぅがッ……!!』
『くっ、接近戦では敵う相手ではありませんね……!』
『たりめーだろ、てめぇは距離を取れ!連携すりゃ倒せない相手じゃないはずだ……!』
砂埃で視認できなかったものの、小柄な方の影が闇を纏った大鎌を振りかざし、長身の影を庇ったようだった。
二人は誰だろう。……夢のなかの通りなら、思い当たる名が無いでもないけれど、でも確信は持てなかった。おそらく、小さい方が女性、大きな方は男性だろうと声から判断した。
「ど、どうし……どうしたら……」
小柄な女の攻撃は傍目にも重く、速い。クラサメは難なくついていっているように見えたが、はたして長身の男が距離を取って矢の雨を降らせはじめるとだいぶ事情も変わってくる。
『はぁぁぁッ!!』
「ッ!!」
『おらおらどうしたぁッ!踏み込みが浅ェぞクラサメェッ!!』
そんなの当たり前だ!私は心のなかで叫んだ。クラサメは頭上の矢も同時に防がねばならないのだ。足の踏み場は限られる。
そして相対する彼女は明らかに、攻撃を受けることをなんとも思っていない。肉を切らせて骨を断つ、を的確に狙ってきている。深く踏み込むということは、それだけ無防備になるということ。彼女の近くに行くのはとても危険だ。クラサメの一太刀からすら逃げようとしない彼女だ、クラサメを矢の射程圏内に留めおくためならなんだってするだろう。
これはまずい。放っておくわけにはいかない。少なくともあの弓を持つ男、そちらくらいは私がなんとかしないと、クラサメを助けないと。
ずっと救われている。見当違いでも、彼の勘違いでも、守られている。それに甘えてばかりでは、きっといつか後悔するから。
「行かなきゃ……!」
とはいえ、彼らが戦っているところに闇雲に突っ込んだって、何の役にも立たないだろう。人質に取られるぐらいしか、できることがなさそうだ。
それなら、と私は視線を彷徨わせる。そして、不意に活路を見出した。
男の背後に、使用人の通用口らしき小さなドアがある。そして私は、その建物に繋がるドアが、正門前広場からここへ来る途中にあったことを思い出す。
慌てて踵を返し、そのドアに手をかけるも、内側からかんぬきがかかっているのだろう。ぎしぎしと鳴るばかりで開きやしない。
「……ルブルム王国なんてものがあったのは、もう六百年も前のこと、なんだから……」
この城はもうかなり脆くなっている。六百年もの時が隔たれば、当然だと思う。
きっと打ち破れる。
かんぬきくらい、きっと。
「あ、あああああ!!」
全体重を載せて、私は扉に体当たりした。体に反動が返ってきた痛みに混じって、抜ける感覚もあった。やはり、かんぬきはもう腐っている。
力には自信がない。それでも、今止まるわけにはいかない。
私は再度の痛みを覚悟して、もう一度扉に体当たりした。とうとう、扉は重い音を立てて開いた。
「っは、はぁ、はぁ……」
急いで扉の中へ進むと、見覚えがある気がした。ああ、そうか、夢のなかで。
私はかつての荘厳さなどかけらもない、朽ちかけた廊下を走った。ところどころ壁や天井が崩れている。六百年、途方も無い年月だ。クラサメは、一体どうして……。
「……今は、そういうの考えちゃだめだ」
いいから早く、行かなくちゃ。
私は男の背後に繋がるドアにたどり着いて、そっと開いて外の様子を窺う。男はこちらに気づいていないし、クラサメと女の攻防は依然として続いており、こちらに注意が向く可能性は低かった。
深く二度深呼吸。覚悟を決めて、飛び出した。
忍び足で近づき、私は後ろから男に飛びつく。
「やーっ!!」
『ん、なッ!!?』
背中から押し倒された形になった男はろくに動くこともできず地面に倒れ伏す。
『離しッ、離しなさい!!……離してくださいッ先生!!』
「嫌よ!!トレイ、サイス、やめなさい!!」
叫んだ名は、口から勝手に出たものだった。確信などまるでなかったし、言った後でさえ彼らが夢の中の二人なのかなんてわからなかった、それでも私は二人の名を叫んだ。
その瞬間、彼ら二人の体が完全に静止したのが私にもわかった。そして直後、クラサメの浅くも速い打撃が、彼女の……サイスの右肩を叩き、彼女を壁際まで吹き飛ばしていた。
『サイス!!』
『……嫌だ』
私の下でトレイが慌てて身じろぎし、私を押しのけてサイスに駆け寄る。トレイに助け起こされたサイスは、じっとこちらを見ているような気がした。
彼女はゆらゆらした闇で、影で、顔なんて見えないのに。
『あんた、本当に先生?』
「……それは、」
『いいよ、答えなくてさ。あたしは……嫌なんだ。あんたがたとえ何者だったとしても、その顔で、その声で、あたしの名前をあんな風に読んでおいて……そんな風に、親の仇みたいに、睨まれるのはさ……』
答えに窮した。
だって私は、彼女らの望む“先生”ではないから。
戸惑う間に、私の目の前で、二人が消えていく。
「あ、ま、待って……!」
二人は答えず、空気に溶けた。その後を追おうと駆け寄ったが、残滓ひとつ残らない。
クラサメが傍らへ来て、私の手をとった。感情の滲まない目に、彼が一瞬だけ悲しみを湛えたのがわかった。
私はクラサメを見上げ、彼女たちが教えてくれたことを問うた。
「マザー……って、女王のことだよね。……クラサメ、あなたは、女王に……何をしたの?」
クラサメは答えない。ただじっと、私の目を見つめている。
お前だってわかっているだろう、そう言いたげな視線。
「……あの“私”と、あなたが……女王を倒そうとした?」
女王の言葉と、サイスの言葉。二つが指すのは、そういうことだと思う。
でもどうして?あの世界では、クラサメは間違いなく女王の臣下だったのに。
クラサメが、繋いでいない方の手を持ち上げて、墓場の隅を指す。教会らしき建物の入り口の横に、石のベンチ。
あの世界をもう一度見て来いと、言われている気がした。否、まさにそう言いたいのだろう。
私は戸惑いながら、視線を上げた。もう一度クラサメの緑の眸を見つめる。
その目には逆らえないと、思った。
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