それから。
何かにつけ、クラサメに監視されるようになった。とはいえ元々危険な行動は取っていなかったし、クラサメが今までより近くにいたとしてもなんら問題なく日常は続いていた。
そのうち、私がそこまで危険人物でもないと判断したらしく、目が合うことも減った。実際、私はあまりスパイとしての仕事をしていなかったから、クラサメにも探る理由などなかった。

が、それだけで済むわけもない。
いつか、仕事はしなければならない。

「(……あれ)」

潜入中のスパイには日課がある。
たとえば、毎朝同じ店でパンを買う。午後必ず公園に立ち寄る。夜半に数分の短い散歩をする。
これらはよほどの理由がない限り必ず毎日繰り返される。雨だろうと雪だろうと。

そんな中私は、早朝、下働きが起きだすまだ薄暗い時間帯に、城の裏にある小さな薬草畑に必ず立ち寄る。
薬学の授業に必要だから、とそんな建前で。

そして私は数多くのスパイたちと同じように、特定の行動を取る。私の場合は、ローズマリーの根の傍にある大きな石を一度ひっくり返す。

これは一日一度の連絡手段。ミリテス側の人間から来る、仕事の指令。
毎日、何も無いことを確認して安堵するのに。

「ちっ……」

それが、今日はそうはいかなかった。
石の裏に貼り付けられたメモはうっすら湿り、字は辛うじて判読できる程度に掠れていたが、誰が書いたものかはわかっていた。

――朝食を一緒に。表通りの、赤いはたごの店。奢ってやる。

「……どういう風の吹き回しよ?」

私は手の中でそのメモを燃やしながら、首を傾げる。ともあれ、朝食をと言うのなら、早めに向かうべきか。指定された店は、職人向けだから朝が早い。
持参した籠に適当にハーブを摘んで、城に戻ることにする。久しく会う知己に、みすぼらしい姿は見せられないと思った。

化粧をして、服を着替え、静かに城を出る。街に出れば、案の定もう人々は起きだしていた。一瞬前まで静まり返って、どことなく湿気と肌寒さを感じさせていた街が、ふっと息を吹き返すみたいに暖かさを取り戻していく。
ミリテスにはあり得ない光景だ。どちらが良いとも、思わないけれど。

赤いはたごの店は、まだ開店して間もなかった。私はドアにつけられたベルを極力鳴らさないよう中に入る。店の一番奥に、知った顔を見つけ、彼の正面の空いた椅子に音も立てず座った。すぐさまやってきた店主に注文をして、温かいミルクとパンが運ばれてきてからようやく、私たちは口を開いた。

「よう」

「よう、じゃないわよ。何かあったの?突然ルブルムに来て、朝食に呼び出すなんて」

「なんだよー何かなくちゃ呼んじゃいけねぇのかよーう?」

「ええ、まぁ、それはもう」

「社交辞令でいいからせめても否定しろや」

ヘアバンドをした金の髪の男は、何時も通りどことなく軽薄そうに笑った。それを見て、私も頬が緩む。

「ま、いいけどね。まさか本当に朝食に呼び出したわけじゃないんでしょう?ナギ」

「んー……まぁなぁ。そらそうだ」

物心ついた頃からともにいた彼は兄弟のようなもので、気心知れた気安さがあった。

だから直後に起きたことは、青天の霹靂だったと、思う。

一瞬。
振りぬかれたテーブルナイフが、勢い良く、テーブルに置かれていた私の右手を刺し貫いた。

全く反応できない速度。喉の奥で干上がる悲鳴。あまりの痛みに、私は硬直する。

「お前は何をやっている」

「あ……ぐ……ぅぅ」

「あんな城一つ調べるのにいつまで掛かっている。なぜ何の報告も寄越さない。叛逆を疑われても文句は言えない。わかるか」

「は……う、わか……ってる……わよ……!」

私は全身に鳥肌が立つのを感じながら、震える左手で、右手に刺さったナイフに触れる。そして掴み、一気に引きぬいた。ごぽ、という音でもしそうな勢いで溢れ出る血を無視し、唱えるのは回復魔法。

「……“ケアル”」

緑の光が僅かに舞って、傷を塞ぐ。痛みのせいで集中もゼロの魔法では跡を残さないなんてこともできやしない。
それは、もうどうでもいい。

「……報告できることが、見つかってない。これは本当よ……!」

「お前もヤキが回ったか。……それが何を示すかわかってるよな」

「あんたに、あんたに言われなくたって……ッ!」

思った以上に、怒っている声が出た。凍り付きそうに、冷たい声が。

「あんたに言われなくたって……もう、もう限界なのはわかってる。私はもう、国には帰れない。どのみち……次帰れば、成果に関わらず、独房行きよ」

「……そうだな。もう、そういう年だ。お前が外で一年生きるたび、収穫が一つ減る」

「あんたまで、私をプラント扱いする?」

冷たくなった声は、今度は震えていた。
ナギのことは嫌いじゃない。ずっと一緒に育ってきた。どんな悪夢の上にさえ、友情らしきものを築いてきた。それはきっと変わらないけれど。
けれどナギにまでも、プラントと呼ばれたら、私は。

陰鬱に翳る視界の中で、不意にナギが手を伸ばし、私の手のひらにできたばかりの傷痕に触れた。

「そんなわけ、ねぇだろ。お前を犯す瞬間にも、お前の味方でいてやるよ」

「笑えないからねそれ……ぜんぜん面白くないから……!」

「笑えねぇけど事実だし。……にしたってどうすんだ、このままじゃ連れ戻されるしホントに独房に叩きこまれんぞ」

「……そうね。まぁ、そこは自分でなんとかするわ。私の問題だから」

私はなんとか口角を上げて笑ってみせた。こんなことを話していてまずいのはナギだ。私はどんな裏切りをしても、独房に入れれば役に立つけれど、ナギは違う。プラントになりうる私とは、あの国では命の価値がまるで違う。
だから、この先私がどうなるとしても、こいつを巻き込んではならない。
私はそっと、己の手を取る彼の手を外した。テーブルに残る血をナフキンで拭い去って、私は結局食事をろくに口にすることなく立ち上がった。

ナギは仕事を済ませた。おそらくは上の命令で、私に最後通牒を告げにきた。
私も仕事を済ませるか、あるいは別の生き方を見つけるか。なんにせよ、身の振り方を決めないと。

店を出ると、眩しい朝日が目に刺さるようだった。冷たい空気に、時折熱が混じる。

「……参ったな……」

「何がだ」

「ふおぉうッ!?」

ひとりごとに突如、予想だにしなかった人物から返事があった。
正直びびりながら視線を斜め後ろにやると、そこには平然とクラサメが立っていた。

「な、何、なんでいるの……!?」

「そんなことより……手を見せろ。……お前、これ、放置したら神経が腐るぞ」

「えっだってちゃんと塞いだのに、……あれ痛いかも……」

「表面しか治せていない」

クラサメは私の手を取ると、すっとケアル魔法を唱えた。その瞬間手の中の傷が癒えたのを感じる。見れば傷痕すらほとんど消え去っていた。
それを見る間に、じわりと、体温が。
クラサメの体温が、手のひらに伝わったのを感じた。

私は戸惑って、手を彼のグローブから引っこ抜いた。
困る。惑う。

「こんなのっ……自分でだって、ちゃんと治せるもの。あなたに助けてもらわなくたって……!」

自分の手を自分で握りしめて、私は彼を睨んだ。なんだか、胸の奥がざわつくから。
そんな風に助けてもらう所以はない。あってはならない。

「……それで?何でここに?」

「お前が城から慌てて出て行ったんでな。尾けてきた」

「うそ、だって、そんな、流石にあなたがいたら気付くわよ!?」

「実際気づいていなかっただろう。インビジ一つでまるで気づかないとはな」

その言葉に、私はぽかんと口を開けて硬直した。

「……え、待って、インビジって……なんであなたが、そんな魔法を使えるの?もしかして、ルシ……?」

この世には魔法体系がいくつかある。
攻撃、回復、補助とあり、その中で細かく枝分かれもしているのだが、多くの人々が才能だけで行使できるのは攻撃の初級と回復の初級、それぐらいなもの。女王の子どもたちだって、その範囲を大きく逸脱してはいない。
そんな中で、インビジは補助上級魔法だ。クラサメがルシでもない限り、おいそれと使えるものではない……。

「私はルシではない。だが、……血族にかつてルシがいた。その血が濃く出たらしい。」

「……そう、なの。珍しいわね」

ルシの里を脱走するルシというのは、ごくまれにいる。そしてそのまま、人間と結ばれる例も。
だが、実際にその末裔なんてものに会ったのは初めてだ。たいていは身分を隠すから、という事情もある。ルシは見た目だけではわからないが、膨大な魔力はいくらでも悪用されてしまうから。
戸惑いに視線を落とした私の顔を、クラサメが覗きこむ。

「それで?先ほどの話はどういうことだ」

「え……」

「成果を報告していないのか?というか、お前は確かに最近何もしていないが、どういうことだ?それからプラントとは何だ?独房がどうのと言っていたが、お前は罪人なのか?」

「……ちょっといくらなんでも聞きすぎよ、そりゃ」

「聞こえたものは仕方あるまい」

城へ戻る私の隣を歩いて、素知らぬ顔で彼は言った。
ナギがついてきていたら危険だと思ったが、どうもそんな気配はない。そう思ってから、自分がクラサメの心配をしていることに内心苦笑した。

「その辺は、まぁ説明が難しいから、聞かないで。……罪人ではないけれど、私はミリテスに戻ったら、もう生きて出られない場所に入れられるのが決まってるの。だから……私は、これが最後の機会」

「……どういうことだ」

「あのね。私は……亡命、したいの」

彼に真実ばかり明かしていることに、私はまず恐怖した。
それから、奇妙な高揚感を覚えた。

「亡命……だと?」

「ええ。ミリテスに帰れない以上、私はここで新たな価値を見出さないと」

実際のところ、私の価値などミリテスが認めるもの以上でも以下でもなく、プラント足りえるということだけだ。ルブルムに逃げ込むことができたとしても、結果として同じ生き方をさせられることになるのかもしれない。
けれど、……それでも。
ほんの少しでも、可能性さえあれば。

「死ぬ場所だけは、自分で決めたい。私が望んでるのは、それだけだわ」

「……それ以外に、何かないのか」

「あった。昔はね。でももう、望むのに疲れてきたから。……ほら、城についたわ。この話はおしまいね」

二人で城門をくぐり、授業の用意をするため教室のある棟へ向かっていく。小さな螺旋階段を登り、教室の階に出たときだった。
ぱたぱたと、廊下を走る音がする。

「……エイトとジャックか?」

クラサメは目を細め、そう呟いた。直後、私たちの目の前に飛び出してきたのは、彼が言ったとおりエイトとジャックだった。
どうやら靴音だけで聞き分けたらしい。化物かこの男は。

「ああっ、先生……と、クラサメ先生も!」

「よかったぁぁぁ〜!来て、お願いこっち!」

二人はひどく狼狽していて、慌ててこちらへ駆け寄ってきた。エイトとジャックは私たちの腕を取ると、そのまま走り出す。

「コラ廊下を走るな!!」

「言ってる場合じゃないんだってばぁぁ〜!!早くしないとっ、デュースが!」

滲む焦燥にただならぬものを感じ、私たちは一瞬視線を交錯させた後、腕を引かれるのではなく自分たちで走り始めた。彼らについて走り、辿り着いたのは外壁工事の真っ最中の工事現場だった。地面からは相当距離のある高さなので、基本的に子どもたちは立ち入り禁止の場所。
まだ早朝なので、職人さえ来ていない。そんな中に、女王の子どもたちがいた。

「お前たち、一体何が……!」

彼らの間から、彼らの焦燥の理由は知れた。彼らより少し先、デュースが見えた。
彼女は工事現場の孤立した足場の上にいて、腕の中に子猫を抱き、青ざめた顔で怯えている。
これは。

「デュース、これは……っ!」

一瞬困惑したが、すぐわかった。
足場に入り込んでしまった子猫が降りられなくなったのを見つけ、デュースがつい助けようとしてしまったのだろう。その結果、デュースも戻って来られなくなってしまった。
上から吊られている足場の、一番外側に彼女はいる。そこと城を結ぶ足場はと思ったら、下、遠い地面に落下していた。

「デュースが行ったときに変なところ踏んじゃったみたいで、踏み抜いて落としちゃったんだよ……!」

「困りました……足場を組み直すしかないのですが、材料も足りないし、なにより知識がありません。それに、職人が来るまでデュースが耐えられるかどうか……!」

確かに、デュースがうずくまる足場はとても不安定で、体重の掛け方が少し狂うだけで彼女は見る間に落下するだろう。風に晒されたまま、彼女が体勢を維持するのは不可能と言っていい。
このままではまずい。クラサメが慌てて手を伸ばして足場を引き寄せようとしたが、遠い。材木を集めて、彼が次の対処をしようとした瞬間だった。

強い風が吹いた。

なんてことはない、ただの風だ。だが今だけは、そんなに簡単な話ではなかった。
デュースがあっと悲鳴を上げ、体が傾く。

その瞬間考えたことはたくさんあった。

助ければクラサメが信用してくれるかなとか。
魔法を使うとまた命が縮むなとか。
助けてもなんにもならないとか。

けれど、結局全てはないまぜになって、私の中で溶けてしまった。

「デュース、猫を離さないで!!!」

追い立てる旋毛風、展開する歯車、零時の円環。
始点は彼女、透き通る緑色、嘘と竜巻。

最上級風魔法、エアロガ。
命を削って放つ魔法。人一人巻き上げて重力から解き放つのなら、この魔法しか思いつかなかった。

「デュース!!」

私は必死に手を伸ばし、デュースを捕まえる。その小さな手を掴み、確かな体温を感じる。
腕の筋など千切れても構わない。私の全力がデュースの軽い体をこちらへ強く引っ張った。

「きゃぁっ」

小さな悲鳴が僅かに響く。デュースが私の隣をすり抜ける。そして入れ替わるように、私は己の体が傾ぐのを感じた。
おそらくは、支点にするには私の体重が足りなかった。それから、思ったよりデュースの体が軽かったことも理由。
否、なによりも、強すぎる魔法を使ったことで、一気に命を削ってしまい、私の意識が途絶えてしまったのが、一番の原因だ。

「■■■!!」

名を呼ばれたのを確かに感じて、私の体は投げ出されていく。
完全に重力から解放される直前、誰かが攫ったのだけを感じていた。











「……?」

目を覚まし、そこが知った天井であることにまず驚いた。さすがに死んだな、とちょっと思ったのだけれど。
部屋は僅かに薄暗く、私はベッドに寝かせられていた。不意に顔が覗き込んで、一瞬呼吸が止まる。

「起きたか」

「……待って何でクラサメがいるの」

「質問は私がする。具合はどうだ」

戸惑いながらもゆっくり体を起こし、私はクラサメに答える。

「問題ないわ。貧血のようなものだから」

「そうか。では、あの魔法について説明してもらおう」

思ったより端的に問われている。そういえば彼はルシの血を継いでいると、今朝聞いたばかりだ。

「あんな魔法を撃つには、特殊な要件が関わってくる。私のようなルシの血縁でも難しい。あれはいくらなんても……」

「……私は……」

真実を彼に明かして、弱みを握らせて。
それは男を操るうえでは意味のある行動だったりもする。けれど、これはもうそれどころじゃない。

言ってはならない。
心臓の奥で警鐘が鳴っている。

「私、は……」

だめだ。これはもう弱みなんてものじゃない。
命綱の端を握らせてしまっては。

「私は……っ」

けれど今、彼に全てを話したい。

右手が痛む。ナギが突き刺した傷が。
もう痕もない手の中に、何か。

それが、じわと重なった、体温の残滓であることに気がついた。

気がついたら、もう止まらなかった。

「……私はね、……私は……ルシなの」

クラサメの目が見開かれていくのを、私は見ていた。




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