「……クラサメ」
私は目を覚ますと同時に、名を呼んだ。
デュース。キング。クイーン。エース。ジャック。名をなぞって、続ける。
と、隣に座っていたクラサメが、私の手を強く握りしめた。
その目は見開かれ、私を見つめている。
「夢に、出てきた。みんな。あなたも、あの影たちも。この夢がなんなのか、私にはわからないけど、でも、きっと何か秘密があるんだと思う」
私は顔を上げ、夢の中とは違い口をマスクに覆われたクラサメの顔を見つめた。
「夢のなかで、私、あなたを騙そうとしてた。心当たり、ある?」
私が聞くと、クラサメは目を細めた。悲しそうに見えた。
なんだか悪いことをしてしまったような気になって、私は戸惑ったが、結局クラサメが立ち上がったので、手を引かれる私はそれに追従するしかない。
……一体、あの夢はなんなのだろう?
あの謎がわかる瞬間は来るのだろうかと、私はぼんやりした頭で考えた。
わからなくても、足は進む。クラサメに連れられて。
通ってきたホールの含まれる棟を背後に、私たちはまっすぐ前に進む。
外への出口はすぐそこだとわかっていた。
大きな木製の扉を二人で押し開くと、両側に芝生の広がる石畳が伸びている。その先には高い城壁と、真ん中に半開きの大きな鉄の扉。更にその向こうに、深く茂る森が見える。
「あれ、城門……だよね。ってことは、もう外?」
クラサメが頷く。私はわっと声を上げた。
やっとここまで来た。思ったより体力は消耗されていないが、息を吐くたびどこか喉奥がひりつくみたいに痛む。体も少し重い。気を抜いたら疲労が一気に襲ってきそうだと思った。
そう思って振り返り、クラサメは大丈夫か聞こうとした。
「ねえ、クラサ、……メ……?」
クラサメの顔は真っ青になっていて、辛そうに目が細められていた。そして、その更に向こうに……人影があった。
あの真っ黒な影たちではない。黒っぽい服を着てこそいるが、顔はひどく真っ白で、確かに人間に見える。長い黒髪が波打つ、彫像のように美しい女性だが、妙に生気が感じられない。
ぞっとするほど冷たい眼差しがゆっくりと動いて、クラサメを通り過ぎ私で止まった。目が合う。ひっ、と勝手に喉が鳴った。
なんだこれ。何、この人。
幽霊か、亡霊か、それとも悪鬼の類か。そう見紛うほど、この世のものとも思えない綺麗さと、恐ろしさがあった。武器を持っているわけでも、尋常でなく大きいわけでもない。ただ一人の女性が、世界を壊してしまいそうに恐ろしい。
彼女の指先が動いただけで、殺されてしまいそうだと思った。
動けない。
「……っ」
と、不意にクラサメの指が、握った私の手に籠める力を強めた。
それで一気に、正気に戻る。
こんなことをしている場合ではない!
「クラサメッ、走って!!」
おそらくは初めて、彼の手を引いて走り出す。クラサメに一体何が起こったのか、その体は鈍重として、私の速度にまるでついてこられなくなっていた。時折振り返ると、その顔色がどんどん悪くなっていくのがわかって私は先ほどまで以上の恐怖に苛まれる。
同時、嫌な音がした。石畳の上を引きずるような重い音。慌てて前方に視線をやると、少しずつ扉が閉まり始めているのが見える。
「い、急がなきゃっ……!」
あの女が何かしたのだろうか。わからない。それでもとにかく、ひた走る。
数秒程度の時間が永遠にも感じられた。なんとかたどり着いて、扉の間に体を滑りこませ外に出た、その瞬間だった。
しっかと掴んでいた指先が、向こうから解けるのを感じた。
「あっ、?」
即座に振り返る。クラサメは地面に膝をつき、荒い呼吸で肩を上下させていた。もう自力では立ち上がれないのだと、私にもわかった。
それを見ている間にも、扉は閉まっていく。クラサメを中に置いて。
全てはとっさの判断だった。
私は助かる。すでに外。森はすぐそこで、問題なく生きていけるとわかっている。
けれど、クラサメは中に残ったままだった。
だから。
とっさの判断だった。
気がついたら、地面に倒れそうになるクラサメを支えるために、体を彼の下に滑り込ませていた。
「クラサメ!クラサメ、しっかりして……!」
後ろで、扉が閉まった。その音を聞いても、私は絶望しなかった。
クラサメを残して行くより、よっぽど。
不意に、クラサメと私を影が覆った。顔を上げれば、すぐそこに、あの女が立っていた。
揺らめいて翳る黒い服、真っ白な顔。私を見ているようで見ていない、それなのに見ている。空虚で凍てつく、慈悲なんておよそ持ち得ないだろう冷たい気配。
その唇が、薄く開いた。
『ミリテスの……ルシの、娘。約束を守りに来た?』
私が言われた意味もわからずにいると、ふっと酷薄に微笑んで、女はこちらに手を伸ばした。指先が私の頬をなぞるようにかすめた。そこから切れて、私の中身が全て流れ出ていくような錯覚を覚え、のけぞる。
間近で見ると、いよいよ人間とは思えない女だった。肌は陶器のように白くつるりとしていて、纏う黒い服は端が空気に溶けそうに揺らいでいる。
『けれど、約束は果たされない。私は死なない。ルブルムが滅ばない限り……』
そう言った女は、突風にかき消されるようにふっと消えた。まるで人間の存在のしかたではなくて、私は戸惑い、恐慌し、震えた。クラサメがぐったりと私にもたれかかってくるまで、その恐怖から逃げることができなかった。
「あっ……クラサメ、クラサメ、大丈夫?ああ、汗が……!」
クラサメの額はぞっとするほど冷たくて、私は慌てる。が、クラサメは私の肩に掴まり、ゆっくりと立ち上がった。
「クラサメ、平気なの?」
「……」
首肯して答えたクラサメに手を引かれ、私も立ち上がる。クラサメは扉を振り返り、何度か力を込めて押したが、びくともしなかった。
どうやらクラサメが動けなくなったことで外に出られなかったことを気にしているらしく、クラサメは額を片手で支えるように押さえて頭を振った。
「あ、しょうがないのよ?クラサメがあんな、突然具合悪くなったのだって外に出るために今まで頑張ってくれたからとか、そういうことでしょう?ちょっと休んで、他の出口を探そう?」
私がそう言って笑うと、クラサメは面食らったかのように表情を硬直させ、暫時その空白は続いた。彼は我にかえると、私の手を引いてまた歩き出そうとする。
なんだかそれが怖くて、止める方法を考える。だって一分前まであんなに体調が悪そうだったのだ。今、無理をして、またあんな風になるのを見たくなかった。あれは、見ている方も心臓に悪すぎる。
「待って、ねぇ、ちょっと休もうよ」
「……」
「ち、違うの!私も疲れちゃったし、だから」
石のベンチがすぐ傍に見えたが、そこに座るとまた意識を失ってしまう。それがわかっていたので、クラサメの手を引いて草むらに座り込む。
そして、まだ半分残っていたパンとミルクを取り出し、パンを更に半分に割ってクラサメに差し出す。と、彼はそっと己のマスクを指先で軽く叩いた。
「あ……それ、外せないの?」
「……」
クラサメは頷いた。
それでは何も口にできないではないか。
「そんな……っじゃあ、飢え死にしちゃうでしょう!?なんとかしないと……!」
「……」
クラサメは首を横に振った。「でも、」食い下がる私の腕を掴み、小さくなったパンを取ると、不意に私の口に放り込んだ。
「むぐッ?」
「……」
「うーん……しょうがないか……でも、脱出経路もだけど、そのマスクを外す方法も考えないとね……」
私はパンを食べながら、ふと気になったことを聞いてみることにした。
「あ、ねえ、そういえば。さっきの女の人、誰だかわかる?……って、答えられないんだよね……えーと……」
「……」
「じゃあ、クラサメの知り合い?」
肯定。
「あの影みたいな子たちと関係ある?」
また肯定。
「……ねぇ。もしかしての話、なんだけど……」
私は考える。
これまで夢に出てきた人たち。クラサメと、あの子たち。あとひとり、夢の謎の渦中にいるのに、夢で見ていない人間がいる。
「あの人は、女王?」
クラサメの目が、みるみるうちに見開かれた。弾かれたように、彼は突然私の両肩を掴んで揺らした。何か言いたいことがあるのは伝わってくるのに、その言葉がわからない。こんなにもどかしく思うこともない。
「女王なのね?」
首肯。
しかも、一等苦々しげに。
「……ルブルム、って言ってた。聞き覚えがあるような気がする」
私は木の枝を拾い上げ、地面にがりがりと地図を刻んでいく。右上にミリテス、イングラム。右下に私のいた村。そして左端の一帯を丸く囲んだ。
「確か、何かで読んだことがあるの。ルブルムっていうのは、六百年前ごろまでこのあたりにあった国だって。でもそうなると、ルブルムが滅ばない限り、とかなんとか言ってたのは……おかしいよね……」
「……」
私の言葉に、クラサメの顔色が悪くなったような気がした。
「……クラサメ?どうかした?」
「……っ」
何かを伝えたいと、その目が真摯に叫ぶ。けれど結局言葉にならなくて、彼は悔しそうに目を細めた。彼が私の持っていた枝を取り、地面に何かを刻み始める。それは文字のように見えたが、判読できなかった。
「……ねぇ、それは、もしかして……ルブルムの文字なの?」
また、肯定。
ざっと風が吹いて、私の髪を巻き上げて、その後に沈黙だけを残した。六百年前に滅んだ国。もし、私が夢に見ているのが、本当にこの城で、本当にクラサメならば、クラサメは一体何者なのだろう?
夢の中では城はとてもきれいだったし、たくさんの人がいた。城下らしき街も見た気がしたし、こんなに寂れた雰囲気はまるで感じ取れなかった。それが今、あの賑やかさは見る影もない。全てが朽ちゆくのに、どれだけの時間がかかるのか。
その時間を、彼はあの夢の中の姿とほとんど変わらず、生き続けてきたというのか?
「……ううん。夢の中のあなたは、そんなマスクしてなかったもの」
「……!」
クラサメの目が見開かれ、私を見つめた。そして、ゆっくりと彼は頷く。
彼の目は、何かひどい出来事があっただろうことを悟らせた。夢の中のクラサメはいつも仏頂面のように思ったけれど、こんなに険しい目はしていなかった。
「ねえ。あのベンチに、座ろう」
私は石のベンチを指差して言う。
「あの夢の中に、きっともっと手がかりがあるから」
この城を知るための。
女王を知るための。
そして、あなたを知るための、手がかりが。
あなたが私の手を取った理由も、きっとそこにある。
そうして私は初めて、あの夢を見るためにベンチに座った。誰かが頭を抱き込むような、妙な感覚があった。
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