「う……」

頭がくらくらする。私は全身を襲う倦怠感をゆっくり振りほどくように体を起こす。自分の手に、クラサメのグローブに包まれた手が載せられているのに気づいて、現実に戻ってきた。
とても不思議な夢を見ていた気がする。この城も出てきた。それに、この人も。

「あー……クラサメ?」

「……」

目をこすりながら視線を上げると、クラサメはぼうっとした様子で地面に視線を投げていた。まるで目を開けたまま寝ているみたいだった。私がその肩をそっと揺すると、それが均衡の糸を切ったかのように、何度か目を瞬かせながら、彼は静かに私を見る。その目に安堵が滲んで、私は困惑した。
彼は、私を知っているみたいな態度を取る。不思議だ。

特に今、彼の出てくる夢を見たばかりだから。夢のなかでは彼は重苦しいマスクもしてなくて、彼の声だって聞いた。聞いたのに、なぜか思い出せない。どんな声だった?

「ごめんなさい、思ったより疲れてたみたい……寝てしまうなんて」

私の言葉に、彼は僅かに首を横に振った。気にするなと言われているみたいだ。
それにしても、と私は空を見上げる。色がまるで変わっていない。長い間眠っていたような倦怠感はあるのに、太陽の位置が変わっていないから、たぶん一時間も眠っていない。寝ていたというには、そう長い時間ではないな。

クラサメが立ち上がり、私もそれに続く。まだ手を引かれている。何を思うでもないが、なんだか幼子に戻ったようで少しむず痒い気もした。クンミ姉さんは決してこういうことはしなかったから、シュユ兄さんがいなくなってからはずっとこういう経験はない。兄さんがいなくなって、姉さんと二人だけになって、それからマキナとレムがやってきた。私はいつの間にか、手を引く側になっていた。
引かれるのと引くのとではこうも違うのか。初めて知った。

橋に差し掛かる。城内にかかっていることを思えば長い橋だ。クラサメが先を行くが、数歩歩いたところで不意に足を止めた。そして振り返ると、しばし逡巡するかのように私を見つめた。
「どうかした?」と聞いた直後、彼は私の手を強く握り直した。

「えっ……」

そして、彼は何を言うこともなく、突然勢い良く走りだした。

「ちょっ、なに……っ!?」

引きずられるのではないかと思うほどの速さに、私はついていくのがやっとだった。なぜこんな、そう問う声にも当然返事はない。
橋の真ん中をそうして走り過ぎた瞬間だった。背筋がぞわっと冷えて同時、足元が抜けるのを感じた。

「っうあ!?」

「ッ……!!」

橋が崩れたのだ。重力に従って落ちる体はしかし、海面に叩きつけられることはなかった。

クラサメが私の手を強く掴んでいたから。彼がいなければ、私では反応できるはずもなく即死だっただろう。

「あ、ああ……」

「……!」

クラサメは何も言わない。ただ真剣な目で私を見つめながら、私をゆっくり引き上げていく。大丈夫だ、焦るな、助けてやる。そう言われている気がした。
数秒掛けて私は救い上げられ、クラサメの荒い息を耳元で聞いた。私の息も同じくらいに荒い。

「く、くら、くらさ、」

「……」

クラサメはそんな私を抱き上げる。抱えられて、またざわっと背筋を恐怖が舐めた。抱かれている状態で落ちたら今度こそ助かる道理はない。思えばクラサメが私の腕を引いて走ったのは、そういった保険の意味もあったのだろう。クラサメのあの速度なら落ちずに対岸へ行けても不思議はないし、腕を掴んでいれば私を落とさずに済む。けれど、私を抱えていては。
そうは思ったものの、うまく言葉にできないうちに彼はまたも走り始め、橋を渡ったところでようやく降ろしてくれる。

「はぁっ、はぁ、はぁ……っ」

震える私の額から汗が滑り落ちていった。喉の奥がひりついて、熱いのに鳥肌が立っている。
私が次第に落ち着いてくるのを待って、やはりクラサメが私を助け起こした。

手を引かれ、またゆっくりと歩き始める。その背中を見つめながら、思う。
あんな危険を負ってまで、彼は私を助けてくれた。
どうして?


どうしてこの人は、私をこんなに守ってくれるんだろう?


「……クラサメ、」

問うた声に振り返る彼の目は、率直に私を見つめている。その目を見ていたら、何も言えなくなってしまった。
聞いても、彼は答えられない。だって喋れないのだから。だったらきっと、彼を困らせるだけだ。
そんなことは望まない。だから、彼についていく。どこを目指しているのかもわからないが、彼は私を助けてくれる気がしていた。きっとこの人は、私を裏切らない。

「(……そういえば……)」

うらぎりもの。あの影は私をそう呼んだ。
マザーに、“また”なんかしやがったら。……ということは、私はそのマザーという人に害をなした誰かに似ている、のだろう。そしてその人物は、クラサメの知り合いでもある。

この人はもしかしたらそれを縁と思い、助けてくれるのかもしれない。
もしそうならこの人は、とても優しい人なんだろう。……たぶん。


クラサメはこの場所のことをよく知っているらしい。橋の先の城に繋がる扉を開くのに、ドアノブを掴んで上に一度持ち上げていた。この扉が開きにくいことを知っていなければ、最初からそんな行動は取らないだろう。

彼に手を引かれたまま、中に入る。と、外にいるより強く感じる日差しが降り注いで私は目を細めた。古ぼけているけれど、明かり取りの窓が天井付近にたくさんあるその小さな塔は、とても綺麗だった。
そう思ってから、私は自分の心に違和感を覚える。

突然連れてこられて、変な容れ物に入れられて、食べるものはもうあとパン一つくらいしかなく、妙な化物は襲い掛かってくるし、橋は崩れて死にかけた。
この状況で、私はとても冷静だ。奇妙なほどに。
それどころかこの城に親しみさえ感じ、どこへ向かっているかもわからない男性に命を託し、化物に対しての恐怖感も薄い。あのときは必死だったけれど、思えば受け答えすらしている。

どくん、と心臓が高鳴った。
何だ、これは。この安堵は何だ。知らない場所にほとんど行ったことのない私は、何年かに一度イングラムに連れて行ってもらうだけで体調を崩していた。それが、今は。

「……なんでだろ」

緊張が一周回ってどっか行っちゃったんだろうか?
そこまで図太くなれないつもりだったが、意外だ。

そう、首をかしげた時だった。

『……あっれ。あんた、そんなに背ぇちっちゃかったっけ』

声がして、ほぼ同時にクラサメがそちらに向き直った。足元に落ちていた、廃材らしい棒を拾い上げて。
彼はまたも私を背にかばう。

すぐ近くの木箱の上に、黒い影はいた。おそらくは女性。彼女はそこに座り込んで、私たちを見つめている。

『まぁどっちでもいっか。あいつに似てるってだけでもう、ほっとくわけにもいかないしねー』

「あ……」

彼女は、人の肘ほどの大きさの何かを持って、そこにいた。目は見えないのに、目があった気がした。
彼女の手の中にあるものは、どうやらハンドガンらしい。装填するような音に私は後退る。ミリテスの人間なら、銃というものがどれだけ危険か知っているのは当然だ。遠く離れた相手を否応無しに殺す、そういう武器。いくら警戒しても足りるということはない。しかも、私は猟銃くらいしか触れたこともないのだ。対処などできようはずもない。

けれど、クラサメはためらいなく、廃材を真っ直ぐ彼女に向け、私を後ろに庇う。もし彼が銃を知らなかったら、それで彼女と戦おうとしているのだとしたら……。私は慌てて彼の腕を引く。が、クラサメは振り返りすらしなかった。

「……」

『クラサメが喋れないの、マジなんだね。ナインも言ってたけど。……それでも、そいつを守るのね』

「……」

クラサメは動かない。真っ直ぐ棒の先端を彼女に向けたまま、微動だにせず立ち向かっている。

『アタシらさ、ずっと寝てたんだよね。たまーに起きて、入ってきた盗賊とかぶっ殺してたけど、それだけで。クラサメがまだこの城にいたことも知らなかったし。それが……あんたがこの城に来て、突然、全部が目覚めてく気がする。あの時の決着をつけなきゃいけない気がする……』

装填された真っ黒な銃を、真っ黒な影に包まれた手が回す。くるくる回って最後、構えられて銃口がこちらを向く。ひっと喉が鳴るとほぼ同時、クラサメが私の肩を掴んで突き飛ばす。

「あっ……!?」

「……ッ!」

地面に一度転げたので、何が起きたのか一瞬わからなかった。銃声が響いて、つい銃弾の向かった先を探したけれど、銃痕はどこにも見つからなかった。顔を上げてみれば、クラサメは彼女の寸前に肉薄し、棒を振り下ろしている。彼女は彼女で、『ちょっ、待っ、あああもう!!』なんて妙に気安い言葉を吐きながら、銃で攻撃をさばくように応戦していた。
あんな至近距離で戦うなんて、と私は思ったけれど、思えば相手が銃を持っているからこそ、きっとそれが一番良い戦い方なのだろう。

「く、クラサメ……」

戸惑うが、私はだんだん、恐怖が薄れているのを感じていた。なんだろう。これは、なんなのだろう?

何か、おかしくないだろうか?


見ているからこその違和感だ。先ほど、槍を持っていた彼を倒した時も、もしかしたら感じていたかもしれない。今にして思えば。
クラサメの攻撃は、なんだか軽いように見えるのだ。

気のせいだろうかとも思ったけれど、やはり違う。彼はたぶん、本気で叩いていない。彼女が銃身を使って応戦できる程度でしか戦っていないように見える。
なんだろう。まるで、稽古でもつけているかのような……?

『ぬあああっもぉぉぉ!』

彼女は勢い良く後退ると銃口を向ける。それ以外に、確かに彼女に勝つ道はないだろうと思う。
けれど、クラサメはたぶん、それを待っていた。

『あっ……!?』

「!!」

一歩、深い深い踏み込み。そして同時、放たれる斬撃。
彼女の手の中から銃が落ちた。

そうなれば彼女に戦う術はない。そんなことは私でもわかった。
彼女は舌打ちすると、突如走り出す。ためらいない足取りで、私たちが来た方とは逆のドアに勢い良く蹴りを叩き込んだ。

『っつあ、いったぁ……と、とにかく、出直すわ!』

私たちがあっけにとられている間に、溶けてすっと消え去ってしまった。一体どこへ消えたのか、一体どんな魔法なのかと思うけれど、そんなことを考えている余裕もない。

「クラサメ、怪我はない?」

息すら全く乱れていないクラサメに駆け寄って問う。クラサメは軽く首を横に振り、問題ないと示してみせた。
が、一方で苛立たしげに目を細め、先ほど影の彼女が蹴ったドアを鋭く睨んでいる。そしてゆっくりそちらへ歩みを向け、ドアに手をかけた。
彼はがちゃがちゃと揺らしたが、ドアは開かなかった。

「さっき、そのために蹴ったのかな……」

「……」

彼は僅かに肩を落とすと、私の手を引いて、内側に沿うような足場の小さい階段に足を載せた。そして私を連れ、上に向かっていく。
足場があまりにも悪いからだろうか、クラサメは先ほどまで以上にしっかりと手を握っている。戦いの直後のせいでか少しばかり熱い体温が伝わってきた。

階段が急なため、登ってみればそれなりの高所だった。クラサメが閉じ込められていた塔に登っていたときは必死だったけれど、そういえばこんな高所に登ったのは初めてだ。

階段の最後は、窓だった。人一人がぎりぎりで通れそうな大きさの窓があった。クラサメは持っていた棒で鍵を叩き、無理矢理に動かすと、窓を開く。そして、手を放して、するりと窓をすり抜け飛び降りてしまう。

「くっ、クラサメ!?」

慌てて窓から身を乗り出すと、クラサメは危なげなく着地した後で、そればかりか振り返って私を見上げていた。彼は静かに、手を広げる。私を受け止めようとしているかのようだ。

「……いや無理だよ!?何自然に手を伸ばしてるの!?無理だよ!!?」

飛び降りるなんて、できるはずがない。こんな高さ、飛ぶなんて。クラサメのところめがけて飛んだとしても、彼が受け止めてくれるかわからないし、失敗した場合足を折るだけじゃ済まないだろうと思う。
だから私はのけぞって、窓から離れた。否、しようとした。
なのに。

「あ、……あれ……?」

体が、いうことを聞かない。感覚は確かにあるのに、自分が命じた通りに動いていない!
心が覚える恐怖を置き去りに、体はためらいなく重力の外へと飛び出した。声にならない悲鳴が脳の奥を支配している。
めまぐるしく、風の中を通りすぎて、私は落ちていった。数瞬の後クラサメの腕にしっかと抱きとめられて初めて、自分が何をしたか知る。

「わ、わた、私今、飛び降り……ッ」

自分が信じられなくて、まともに言葉が出てこずにいると、クラサメは浅く頷いた。
私はしばし口をぱくぱくと動かしながら言葉を探していたが、よくわからなすぎて諦めた。順応したとも言う。
あの黒い影といいこの城は何かおかしいが、だからといって先に進まないなんて選択もできない。考えるより先に動く、それしかないのかもしれない。まだ死んでないのだから大丈夫、そうやって不安をごまかしてでも。

「……もういい。いいよ、行こう。大丈夫だから」

それでもこの男だけは、信用してしまえる。まるで昔からの知り合いみたいだ。

構造を見るに、クラサメが閉じ込められていた塔はやはり罪人用らしい。でなければ、海に張り出す形の地形で塔が建っているのはおかしい。そして、今私たちが出てきた塔はおそらく灯台か。
華美とは言えない造りの、決して大きくないドアを開けて私たちは城内に入る。そこは二階分吹き抜けになったそれなりの広さの部屋で、朽ちかけた木箱が散見される。この部屋の用途がまるでわからないが、かかずらってられない。クラサメに再度手を引かれて、私たちは走る。
そういえば、これも奇妙な違和感だ。どうしてか、クラサメは焦っている。私は小走りのまま、クラサメに聞いてみる。

「ねえ、何で焦ってるの?何かまずいことでもあるの?」

「……」

クラサメは僅かに振り返って、頷いた。

「私たち、外に向かってるんだよね?」

また頷く。

「じゃあこの城は危険なの?」

もう一度。

「それは、あの影が関係あること?」

クラサメは、足を止めた。
繰り返しの問いかけで、また息が上がりはじめている。けれどきっと、それを慮って止まってくれたわけではないと思う。影のこと。あの影とクラサメには、きっと切っても切れない縁があるはずだ。

「あの影が危険なの?私たちを殺そうとしてるの?」

「……ッ」

クラサメは視線を落として、首を横に振った。苦しそうな顔だった。あの影が何なのか、考えてもわからない。わからないから、是か否でしか答えられないクラサメに問うこともできそうにない。

クラサメが痛いくらいに強く、私の手を取った。そしてじっと見下ろしてくる。ああ、この目だ。まるで戦友を見つめるかのような目で彼が私を見るから、今まで話したこともろくにない若い男性に突然手を取られても緊張しないのだ。
早く行こう。その目が急かしている。私が頷くと、すぐにクラサメは走りだした。私ももう問わない。わからないことが整理できただけで十分だと、そう思うことにしよう。
あの影が危険でもそうでなくとも、私にできることは彼についていくことだけなのだ。

部屋の真ん中を横切り、私たちは外に出る。と、下り階段に出て、その先にはトロッコが見えた。

「あれ?トロッコがある。ここ、作業場か何かだったのかな」

「……」

クラサメがまたも首肯した。それがわかっていて、これだけ城の構造に通じているのだから、きっとクラサメはこの城で生活していた人間だ。少しずつわかってくる。
だからこそ芽生える謎もあったけれど、やはり肯定か否定で答えられる質問にはならなそうだった。
この城が廃城になったのは、首都の学者ですら解明できないような数百年も昔のことだと教えたって、数百年前から角の生えた子は生け贄になり続けているはずだと伝えたって、クラサメは困るだけだろう。

そして、また石のベンチが傍らにあった。
私の喉はひゅっと鳴った。体が、また動かない。
否、動いてはいる。ただ、私の意思の命令を聞かない。足はベンチへ向かって進んでいくし、勝手にベンチに腰が下ろされる。

どうして。
さっきから、何で私は何かに支配されているの……。

「う……」

クラサメも引き戻してくれない。私が座ると、訝しむような表情で私の隣に腰掛ける。くらりと、眼の奥が揺れた。
そしてやはり、意識は暗闇へ落ちていく。体に力が入らない。倒れこむのをクラサメが支えたことだけがわかった。



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