むかしむかしとある城に、悪い女王がいました。
女王は、世界を手に入れるために力を欲しがり、子供を捕らえては食べてしまいます。特に、悪いことをする子供は、女王にとって大好物でした。
そこで立ち上がったのが、ルシさまたちでした。

ずっと昔、一人のルシさまが、女王と戦いました。
ルシさまは最後の最後、女王に一歩かなわず、死のまぎわ、呪いをかけました。その呪いによって、女王は子供を捕らえて食べることはできなくなりました。

ですが、女王はまだ強い力を持っていました。放っておけばすぐに復活してしまうと、他のルシさまは思いました。
そこで、数年に一度生まれる、“角のはえた子”を女王の城に連れて行くことにしました。“角のはえた子”を食べることで女王は弱り、復活することができなくなると思ったのです。

何年経っても、女王は復活しませんでした。
ですが、女王が死ぬこともありません。今でも、“角のはえた子”は女王に捧げられています。人々の平和な暮らしのために。

けれどもし悪いことをしたら、女王は復活し、悪い子を食べてしまうでしょう。





「……だから。姉さんの言うことを守らないと、女王がやってきて食べてしまうよ。……おしまい」

私はそう言って、端の擦り切れた絵本を閉じる。何度も何度も読み聞かせをねだる子供に視線をやると、もうふたりとも眠っていた。私は、二人のこめかみからはえた、小さな角をそっと撫でる。

「おやすみ。レム、マキナ」

二人にもうぼろくなった、たった一枚しかない毛布を掛けて、私は寝室を出る。ここにはもう、私達しかいない。


私は二部屋しかない小屋の、寝室ではないほう、つまりは居間になっている部屋の、火の消えた暖炉の前に座り込んだ。暖炉の燃えさしはほのかに暖かい。
そして、村の人にわけてもらった毛糸で、新しくひざ掛けを縫う作業に戻る。ここを出る前に、二人に冬を越すものをもう一つくらい作ってあげないといけない。
料理の仕方も、新しく子供が来たらしてあげるべきことも、二人に教えておかないと。まだやることがたくさんあった。




朝が来て、私は農場に牛乳とパンを分けてもらいにいく。畑仕事をしない私たちを、若い人はたいてい疎む。あと、三年前に先に行ったクンミ姉さんが大暴れして以降、ちょっと風当たりが強いのもある。
ともあれ私たちにはそういった仕事は許可されていなくて、だからこうして、少しずつわけてもらって生きていくことになる。

家に戻る途中、村長の家に寄った。最近は毎日、こればかり。
村の女たちが作っている法服をあてられ、寸法を何度も図られる。私のために誂えるものだから、ぴったりでなくてはならないのだという。

「本当に、大きくなったな……」

私が村に来たばかりのとき、率先して面倒を見てくれた、カスミ姉さんが泣きそうな顔で笑う。彼女は手を伸ばし、私の耳の上にはえた角を撫でた。
下向きに丸まった角は、私の心を示しているみたいな気がした。

「こんな角さえなければっ……!」

「カスミ!!」

ミオツクの婆さんが、カスミ姉さんを怒鳴った。それは禁句だったからだ。私は笑って、カスミ姉さんを見上げる。

「私、大丈夫だよ。別に殺されるなんて決まってるわけでもない。もしかしたら、あの城でみんな元気にしてるかもしれないじゃない?クンミ姉さんとか、シュユ兄さんとかさ」

だから、希望に溢れすぎたことを言う。そんなのあり得ないって、わかっているけれど。

「そう……そう、だよね」

カスミ姉さんが、すっと一筋、頬に涙を流して笑った。そうやって泣いてもらえる分、私は十分幸せ者だと思った。




小屋に戻ると、もう二人は起きていた。用意しておいた食事は食べたらしい。牛乳を古ぼけた木のコップに注いで渡して、私もパンの残りを齧った。

「ねえさん、ねえさん、本読んで」

「ねえさん、これわたしの?新しい毛布?」

マキナが昨日読んだばかりの本を抱え、レムが作りかけのひざ掛けを抱えて駆け寄ってくる。
私は苦笑して、マキナから本を、レムからひざ掛けを取り上げた。そんなことをしている時間はない。

「レム、あなたにはお料理を。マキナには編み物を教えるから、今日ちゃんと覚えてね。明日にはきっと、もうそんな時間はないから」

そう言うと、二人は悲しそうに顔を顰め、見合わせた。
二人には本当のことをほとんど伝えていない。明日から暫くの間、私は遠くに行く。それだけしか。

実際には、私はもうこの二人の元に戻って来られないだろうし、それにいずれ二人も同じように私の後を追うことになる。私たち三人の耳の上にはえた角が、私たちをそう運命づける。

「さあ、マキナはこれを持って。レムは私と台所に行くのよ」

「うん……」

「わかった」

レムの方が一つ年下だけれど、しっかりしているのは彼女のほうだ。それでいい。きっとマキナの方が先に行くことになる。レムが先では、どうなるかそら恐ろしい。
そんなことに安堵している自分が、なんだかおかしかった。





翌日、その日が来た。
ルシの神殿から、甲冑を着込んだ二人組がやってきて、平伏する村人を意にも介さず、ただ私に手を差し伸べた。私は真っ白の法服を纏い、その手を取って立ち上がる。
馬に乗せられ、村を去っていく私を追いかけたのは、レムとマキナだけだった。クンミ姉さんがいなくなったとき、私も同じようにしたなと思い出して、姉さんがそうした通り必死に笑顔で手を振った。

クンミ姉さんも、その前にいなくなったシュユ兄さんも、もうずっと戻らない。きっともう、どこにもいないのだと思う。
姉さんと兄さんが笑いながら去っていったわけが、ようやくわかった。






それから三日三晩、馬に乗せられっぱなしだった。丁寧に扱われていたのは村を出るまでで、出てしまえば罪人のようにされた。後ろ手に縛られ、馬に乗せられ、一日一度だけパンが与えられた。城が見える頃には、私は栄養失調のせいかめまいを覚えていた。
けれども夕暮れに滲むその城を見た途端に、私の意識は覚醒し、城から目が離せなくなる。不思議と、呼ばれているような、そんな感覚があった。もしかしたら、先に逝った兄さんと姉さんの声だったかもしれない。

城へは地下から入ることになった。馬を止め、二人の兵士が私を連れて行く。洞窟のようなところに隠されるように、透き通った青色をした、魔法みたいに不思議な剣があった。まるで青い氷をそのまま剣にしたみたいな。
一人がその剣を取り、いくつも並ぶ像に向かってかざすと、轟音と共に像がどき扉が開く。中に入る頃には、もう夜にさしかかっていた。

こんな仕掛けを見たのは初めてで私は面食らう。先に進むと、上へ昇っていく動く床まであった。こんなテクノロジ、首都であるイングラムくらいにしかないと思っていた。村から出て右へ曲がり、そのままほぼまっすぐ来たのだから、この城は首都からものすごく遠いところにあるはずなのに。

そのまま私は、広い部屋へ連れて行かれた。果てが見えないほど天井が高い。壁際にはずらりと、人一人ぐらい軽く入れてしまいそうな大きさのまるまるとした何かが置いてある。石で作られたそれは、前時代的な城には似合わない。
私は、縛られた腕を引かれ、その何かの前に連れてこられる。と、途端に、腕を縛っていた蔓を兵士が切った。そして片方が手を伸ばし、目の前の何かの蓋をこじ開けると、もう片方が私を突然抱え上げその中へと足から落とした。
中は思ったより広くて、怪我はしなかったものの、視界は悪い。わけも分からず上を見上げる私に、今度は何かが降ってくる。それは、大きくも小さくもない麻袋だった。

「セツナさまのご慈悲だ」

兵士は一言そう言って、気がついたら蓋が閉められていた。
真っ暗。外からは「ナギ、早くしろ」「あんだよリィド、用事でもあんのか」などと聞こえてくる。聞こえないとでも思っているのだろうか。
私は暗闇の中で、腕の上に落ちた麻袋を必死に開けようとする。だが直後、突然、本当に突然、強い眠気が襲ってきた。
きっとこの容れ物には仕掛けがあるのだ。私を眠らせるような仕掛けが……。
そう思ったが最後、私は深い眠りに落ちていた。





いつ目を覚ましたのだか、よくわからない。気がついたら目覚めていて、暖かな日差しに包まれていた。
朝だ、と思った。マキナとレムに朝食を用意して、パンと牛乳をもらいにいかないと……。

「……ああ、うん」

違う。目を開けて、気がついた。ここは違う。
私は目をこすり、顔を上げ、伸びができない程度に容れ物が狭いということに気がついた。

「あーもう……」

女王への捧げ物にされること。これは耐えられる。
けれども、伸びができない。これは耐えられない。現状の苦痛だ。
私は力まかせに、蓋を押す。びくともしない。腹が立つ。暴れてみる。
体重を載せて、何度も何度も繰り返す。最後には、びき、という何かが割れる音がした。

「ひっ!?」

容れ物には入ったまま、浮遊感がした。嫌な感覚だ。悲鳴の直後、私は容れ物ごと硬い床に叩きつけられた。
痛みが全身に走るも、ほぼ同時、先程までより強い光が降り注いでいることにも気づく。

「……あ……」

蓋が開いている。外が見える。痛みが収まるのを待って這い出してみると、天井にはちゃんと果てがあった。
出られた。驚きながら自分が一晩いた場所に目をやると、容れ物を支えていただろう木製の留め金が腐って壊れているのが見えた。
運が良かった。私は浅く息を吐いて、そういえばと容れ物を覗く。麻袋は中ほどに落ちていて、それを手繰り寄せ開くと、中には山羊の胃で作った水筒とパンが二つ入っていた。

「セツナさま……」

あの兵士はそう言った。よく知らないが、たしか何百年も生きているルシの長だと聞いたことがある。なんびとたりともその姿を見ることはできないのだとか。
ルシにあこがれているマキナのお気に入りのお伽話。あの話によれば、角のはえた子を女王に捧げるのはルシが決めたことだという。

「もしかして、生け贄を決めてるのはセツナさまなのかな……」

パンをかじり、私は思う。一つ食べて、水筒の牛乳を少し飲み、麻袋の口を強く縛った。それを腰に括りつけ、立ち上がる。

「角のはえた子は生け贄になるしかない。城に来ることは運命づけられてる。でも、城から逃げるなとは言われてないわ」

出られるなんて思っていない。けれど、やる前から諦めたくなかった。
もし私が出られるなら、マキナもレムも助けられるかもしれない。シュユ兄さんやクンミ姉さんだって助かってるかもしれない。
容れ物をひとつひとつ開ける勇気はなかったし、壊れている容れ物は私が出てきたものだけだってこともわかっていた。けれど、そうやって私は自分を奮い立たせる。

「よし」

私は広い部屋を出るために歩きまわり始める。ほどなくして、レバーと扉を発見する。レバーを下向きに倒すと、扉が開いた。私は小さく歓声を上げ、扉の先に向かう。そこは縦にばかり大きい小さな部屋で、高い窓に囲まれていた。とたんに落胆したが、一つだけ窓が僅かに開いていることに気づいて心臓が高鳴る。
私は壁の細工をよじ登り、窓を押し開いてその先に出る。もしかしたら外かも、と思っていたが、それは違った。
今度は尋常でないほど高い塔の内側に、私はいた。

「な、なにこれ……」

私は視線を彷徨わせ、視線をあちこちにやる。どうやら出口はなさそうだったが、塔の真ん中あたりに一階分ぐらいの高さの壁がある。その真中には奇妙な像が並んでおり、像がなければ向こうに行けそうだと思った。その像には見覚えがあり、昨夜、兵士が剣を使って開けたあれだ。
もしかしたら像の先に出口があるかもしれない。そう思ったら、塔の内側に螺旋状に這っている階段にも意味があると思える。

私は梯子を登り、階段に足を向けた。狭くて古い階段を登るのは怖く、恐る恐る進んでいくしかない。少し歩けば、すぐに先ほどいたのとは反対側の壁にたどり着く。見下ろせばそこはあの像の反対側で、たしかに出口がありそうだった。
けれど、誤算もあった。飛び降りるには、階段の上は高すぎる。足を折るだろう高さだ。
それに、実際出口は階段が影になっていてよく見えない。なんとかして降りたとして、出口がもし機能しなかったら階段の上にも戻れない。

私は諦め、頭上に目を向けた。もしかしたらあの剣とか、もしくは似た何かがあるかもしれない。それが見つからなかったら、もう一度考えなおそう。



階段は長かった。体力はそれなりにあるほうだと思っていたが、それでもかなり疲労しつつ上へ向かっていく。
そのうち、暗い天井から、何かが下がっていることに気がついた。だんだんと近づくにつれ、それが檻であることがわかってくる。

「檻……?」

どうしてこんなところに。
そう思いながら、心臓がざわざわしているのも感じる。
まさか人の気配でも感じ取っているのか。こんな、人里離れた城の中に?

そう思うのに、私の足は逸る。そしてようやく、檻の中が見えてくる。

黒い影が、一瞬蠢いた。

「あっ?」

心臓が、深いところで高鳴った。
私は飛びのくように壁に張り付きながらも、檻から目が離せない。

ゆらゆらと、影は起き上がるように見えた。そして黒い影だけではない、白いものも見える。人の顔?にしては、形がおかしいような。

「あ……ああ……」

その中にいた影は、しっかりと顔を上げた。その瞬間、全てがしっかりわかった。
そこにいたのは若い男性で、顔の下半分を黒っぽい金属製のマスクで覆われている。髪も黒に近い色で、纏っている服も黒。影に見えたのはそれが原因だった。

彼は私の存在に気付くや否や、突然檻に掴みかかるようにして私に向かって手を伸ばした。鬼気迫る目をしていた。
それを見ながら、私は、不思議なほど怖くなかった。

「……待ってて。そこから出してあげるから……!」

どうしてそう思ったのか、まったくわからない。わからないけれど、彼を出してあげなければ。そう思った。

そのまま上に向かって走った。檻が鎖に吊られているのが見えたからだ。あんなところに人を入れられるわけがないのだから、上下させる仕掛けぐらいあるはずだ。これまでには見かけなかった。なら上にあるはずだ。
その予想は当たっていて、走り続けて最後には、レバーを発見した。固くて滑らないそれを無理に動かすと、ぎぎぎと錆びた音を立て鎖が動き始める。

私は喜び、走って階段を降り始める。
何でこんなにうれしいんだかわからない。
けれど、彼を出してあげたいと心底思ったのだ。



床にたどり着く頃には息が上がりきっていた。それでも私は懸命に彼の檻を目指す。檻は床には届いておらず、彼は扉の留め金に内側から手を伸ばしガチャガチャと必死に開けようとしていた。
檻のある位置が高すぎて、私では助けにならない。どうしよう、そう思った時だった。彼がじっと私に視線をやる。指先で部屋の隅を指差して、私にそこへ行くよう示すと、すぐさま扉の留め金を狙って彼は全力の蹴りを繰り出した。
何度かそんな音が響き、檻は強く揺れた。そのうち、限界を迎えたのは扉ではなく鎖の方だった。

「あっ、危ない!」

私が悲鳴を上げる間に、檻は床へと叩きつけられた。慌てて駆け寄る目の前で、彼は扉を開き中から出てくる。落ちた拍子に、蝶番がずれたらしい。

「大丈夫……?」

至近距離で目があって、あまりに整った双眸に驚いた。綺麗な男だと思った。年はいくつ上だろう。かなり若くも見える。
その男は、グローブに包まれた手を伸ばし、突然に私を引き寄せた。体温が私を包む。
抱きしめられている。そう知るのに、時間はかからなかった。
心臓が音を立てて何度も高鳴った。けれどそれ以上に、私は彼の背に手を伸ばしたかった。

「あんなところに、ずっと一人でいたの?」

「……」

彼は返事をしない。

「来るのが遅かったよね?ごめんね……」

何でそんなことを言ったのか。本心なのかどうかさえ、私にはわからなかった。
わからなかったけど、その言葉は正解だったらしい。私を抱き寄せる力は強くなった。

と、直後のことだった。反対側の部屋の隅で、どろどろと、影のようなものが蠢いたのが見えた。
先ほどの彼の姿より、ずっと濃い。

「あっ、あれ……ッ!!」

「……!」

彼の反応は素早かった。即座に立ち上がると視線を巡らせ、落ちていた灯りのない松明に手を伸ばす。それを拾い上げるや否や、私を背にかばい影に武器を向ける。

『……あ、アー、あああ。んだよ、……てめぇ、やっと起きたのかよ』

「……」

『そういやもう喋れねぇんだったな、マザーが言ってた。それに……てめぇも来たのか。この、うらぎりもの』

黒い影は人の姿を形作る。やけに長身の人間の姿になった、彼の手の中には同じく真っ黒な長い武器らしきものがあった。棒だとは思えない。おそらく槍だ。
それより。

「いまの、……私に言ったの?うらぎりもの、って」

『てめー以外に誰がいんだよ、アァ!?』

「うるさいな……!私あんたなんか知らない、何がうらぎりものよ!」

そう言った瞬間、私を庇っていた彼でさえ振り返って目を丸くした。信じられないとでも言いたげな目だった。
そんな目で見られても、知らないものは知らない。私の世界はあの小さな村だけで完結していた。私を庇う彼のことも、槍を持つ彼のことも知りはしない。

『てめぇ……それ、本気で言ってんのかよ』

「なにがよ……当たり前でしょうよ……」

『……ちっ。考えるのにも飽きた。殺す』

彼は突然、槍を振りぬいて襲い掛かってくる。私を庇う黒服の彼は、まだ驚いていたから少し反応は遅れた。けれど、彼の速度は槍の青年をあっさり凌駕した。
すさまじい速度で彼は青年の懐に潜り込むと、松明の先端で勢い良く目の前の彼の腹部を深く突いた。よく見えなかったが、影は残滓を残しながらも壁際へと吹き飛んでいく。
彼は壁に叩きつけられ、ずるりと落ち、地面に崩れた。

黒服の彼は、残心を残して綺麗に型を決める。ほとんど剣技なんて見たことのない私でも、そうわかった。それくらい綺麗だった。

『ぐっ、ぅ、ううう……』

「……」

『てめぇ……てめぇら、よくも……』

青年は呻き、地面を這った。その影がゆっくり消えていくのがわかる。
それに気づいたらしい青年は深く息を吐きながら、床を悔しそうに拳で一度だけ叩いた。

『マザーにまたなんかしやがったら……殺す、からな……!!』

最後にそう、呪詛のように言いおいて、彼は降り積もった灰のように僅かな風に吹かれ立ち消えた。私は言葉もなく、膝をついたまま呆然としていた。

静寂はあまり長くなかった。黒衣の彼は私の前に膝をつき、手を伸ばして私を立ち上がらせる。私が白い法服の裾をはたくと、彼はじっと私の目を覗き込んでいた。

「あの人、あなたのこと、喋れないって言ってた。そうなの?」

「……」

彼は無言のまま、浅く頷く。私はしばし悩んだ後、「じゃあ、」

「一つずつ音を言っていくから、合ってたら頷いて。あなたの名前は、あから始まる?」

あからさまに落胆したように、彼は視線を落とした。何に落胆しているのかさえ、私にはわからなかった。

「……」

暫時の空白の後、彼は首を横に振った。少なくとも言葉は通じている。

このやり方で全ての母音と子音を試し、彼の名前がくらさめであることを知った。くらさめ。クラサメ。

「じゃあ、クラサメさん。……クラサメ?とりあえず、外をめざそっか?」

「……」

彼は深く頷くと、不意に私の手を取った。あまりにも自然だったから、なんだか驚く。
私はこんな人は知らない。けれど、彼は知っていると思っている?
よくわからない。わからないし、きっと考えてもわからない。

私はとりあえず、彼についていくことだけ考えようと決めた。
彼が、四つ並ぶ像の前に立ち、手をかざすと光が迸る。その光は、兵士が洞窟から取ってきたあの不思議な剣によく似ていた。
その光を受けて、像はやはり轟音を立てて動き出し、二人くらいはゆうに通れそうな隙間を作ってくれた。

「すごい……」

「……」

彼は喋らなかったが、行くぞ、と言っているのがなんとなくわかった。私は頷いて、手を引かれて歩き始める。
分厚いグローブの向こうから、彼の体温が伝わり続けるので、妙な胸の高鳴りは続く。クラサメの体温を知っているような気がしていた。そんなはずないのに。


像の先には扉があって、扉を開くとそこは確かに外だった。強い風がスカートと髪を揺らしている。久方ぶりの外の空気を、私は胸いっぱいに吸い込んだ。
やはり、私たちは塔の中にいたらしい。振り返れば明らかだ。そして、塔の下には大海が広がっている。そして、前方の城の更に先には、深い森。どちらから来たのか、もういまいちわからない。
私たちは、一歩踏み出す。

まだ息がすこし荒い。そんな私を思いやるように、クラサメがまた腕を引いて私を傍らの石のベンチに座らせた。私が手を離さなかったので、クラサメもつられて隣に座り込んだ。
そして、ぐらりと頭が傾ぐのを感じる。

額がクラサメの肩に押し付けられるまで、倒れた自覚もなかった。




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