「馬鹿な男よねえ、あんたって」

旧友の美しい唇が弧を描いて、そう嗤う。暗闇に目が伏せられ、一切の感情は読み取れない。
最初は、そう最初の頃は、この目が苦手だった。なんて心底どうでもいいことが脳裏に浮かぶ。今はどうか?それはもっと、どうだっていいことだ。

「そして永遠に、逃げられないんだわ……」

このままなら、ずっとよ。
皮肉気にそう言いながら口元に寄せるグラスのワインは、まるで血のように赤かった。





その日の空は灰色だった。
何が起きているのだろうか。ヤーグはぐっと歯をかみ締めた。ルシの件、パージの件。数百年の安寧を破って、コクーンに危機が訪れんとしていた。現実に黙示戦争以来ならば、これは転機となるのだろうか。コクーンの。そして、自分たちの……。

そう、自分がこうも狼狽する原因はコクーンの危機ではない。軍人失格だが、そこにも思考は至らない。平素ならばそれこそうろたえ動揺したはずだが、今はそれどころではなかった。ジルの仄暗い目が、脳裏に焼きついている。なぜあいつを害したがる。廃そうとする。本当の望みがそこにあるとはとても思えない。それに10年近く保たれた均衡を崩すのはなぜだ。なぜ今なんだ。10年前に受容しなければよかったまでのことなのに、なぜ。
ジルの『提案』を思い返しながら、ヤーグはぐっと目を閉じた。……なぜだ。

思考が連続して切り替わる感覚に少しイラつきながら曲がり角を曲がろうとした時だった。後ろから、一人の男が走ってくるのに気がついた。

「ああ、ロッシュ中佐!」

「君は……」

彼には見覚えがあった。あいつの補佐官の一人だ。真面目な性格らしく、よくあいつに振り回されているのを目にしていた。彼は困ったように、奇妙なことを聞いた。

「あの、大佐のご自宅とかってご存知ですよね?」

なぜそんなことを聞く。
わけがわからなかったが、とりあえず「ああ」と答える。あいつの家はエデン中核部、ここPSICOM総本部から程近いところにある。あの男が買った部屋に、今は一人で住んでいたはずだった。
そしてその疑問は、次の瞬間の彼の言葉で氷解し……全く違う感情で塗りつぶされる。

「実は、先ほど大佐が……」

最後まで聞いたと同時に、ヤーグは走り出していた。なぜそうするのかはわからないけれど、足は止められそうになかった。

医務室のドアを勢いよく開ける。電気のついていない部屋に医師は居なかったが、カーテンの引かれたベッドは一つだけだったために、あいつの居場所はすぐにわかった。急いでカーテンを開けると、そこには見慣れたあいつの顔がある。
目蓋がしっかりと閉じられた彼女をまじまじと見る。特に異常があるわけではないように見えて、ヤーグは力が抜けた。はあ、と息を吐き出しながら近くにあった椅子に腰掛ける。
と、後ろからぱたぱたと軍靴が軽く跳ねる音が聞こえ―おそらく実戦演習のない士官学校出身なのだろう素人くさい走り方だ―、先ほどの補佐官がようやっと自分に追いつき医務室に入り込んだ。そして荒い息をなんとか鎮めながら、ヤーグに問いかける。

「あ、あの、それで、どうしたらいいですかね。特に脳波などに異常はなく寝不足や疲労が原因だそうなので、病院に行く必要はないのですが。ご自宅に誰か送り届けるべきか、将校用の仮眠室に運べばいいか、ちょっと判断できかねまして……大佐のことならロッシュ中佐かナバート中佐にお願いするのが一番良いかと」

それなら自宅に連れて行くのが一番安全だろう。仮眠室でもいいが、あそこは一定以上の立場なら誰でも出入りができる。
まさかこいつに限って何か起こったりはしないだろうが、すぐに目覚めるとは限らないし、立場上恨みを買ったことだって一度や二度じゃないはずだ。おそらく同じ意図である補佐官は、遠まわしに自分たちのどちらかにこいつを任せてしまおうという腹積もりなのだろう。それに内心で苦笑した。

「ああ、そうだな。それなら私かナバート……が……」

『聞きなさいよヤーグ。難しいことじゃないわ、もう一度先遣隊は異跡へ入ることになる。その前に私たちであの子を転送装置に入れ、先遣隊に持たせればいいの』

ぴたり。名前を出すと同時に、脳裏に彼女の顔が思い出され、ヤーグは固まってしまう。それを不都合か何かと勘違いしたらしい補佐官は一瞬眉根を下げたあと、「あ、そういえば」と声を上げた。

「たしか警備軍の、騎兵隊の准将が明日空からお戻りになるんでした。今ご連絡差し上げて、准将にお願いしたほうが良いですね。
すいません、連絡してきます」

ビッと一応の敬礼を取ってから、補佐官はまた走って外に出て行く。それすらも認識できずにぼうっと見送るヤーグの頭はぐるぐると、ぐるぐると。

私は何をやってるんだ?

『ほんと、くだらない男。この10年は何になった?ただひたすらに、苦節の月日だったじゃない』

『わかってるの?どうせあの子はあの男のもので、横から手は出せない。ましてアンタは、出す根性もない』

『……逃げられないのよ、私たち。この子がここにいる限り、×さずにはいられない。たぶん、死ぬまで……ずっと。生きている限り』

赤い唇が震えながら、必死に笑う。言葉にするのも苦しかったろう。ヤーグにはきっと、それもできなかったに違いなかったんだ。そして。

『せんぱい』

こいつがそう口にするたび、いまだに焦がれる己は。胸を焼かれる自分は。
ああ分かっている、全部ジルの言う通りだ。あいつは正しい。×しくなかった日なんてこの十年間一度も無かった。目の前であの男に奪われた、その瞬間であってさえ。

「私は……」

不毛どころの話じゃない。血の気が下がる中、必死に顔を手で覆った。誰も救われないし、誰にも利を与えない感情なんだ。そんなこと分かっている。それでも辞められない。この10年ずっと、その決意さえできなかった。そうなんだ、こいつがここにいる限り、無邪気に笑う限り、私は永遠に。

「逃げることも……終えることも……」

できるはずがない。できたならジルも私もこんなところに嵌っていない。二人して愚かにも程がある。
……それならば。この真綿で首を絞められるような、それでいて死ぬ直前に緩められるような息苦しさから逃れ、自己×の呼吸を続けたいのなら。
多分、私はもう限界だった。そしてそれは、ジルもだったのだろう。

そこまで思考が至ったとき、ふいに廊下から、あの似つかわしくない靴音がした。

「すいません中佐、准将は明日戻られないことに決めたそうで……中佐?」

「あ、ああ。それなら、そうだな……」

じっと見下ろした先の、綺麗な横顔。暗い部屋には、その白さが異様に映える。
……覚悟を決めるべきなのだ。手に入れてさえいないそれを、捨てる覚悟を。

「仮眠室に運べ。……鍵は、私が掛けよう」

今度は私が、お前を閉じ込める。逃げられないように。
そしてやっと終わりにするのだ。ひたすらにひたすらに苦しかった、この十年を。それでも×しい、この十年を……捨てなければ。

でもジル、お前は一つだけ間違っているよ。
戸惑う補佐官に指示を出しながら、私は内心で苦笑した。

傷つけることでやっとわずかに満たされる。こんなものを、×と呼んでいいはずがない。

それでもこれで息ができるのだと、このときの俺は思い込んでいたのだ。




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