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ルカがやってきて丁度一週間後の昼過ぎのこと。
リンドブルムがボーダムに降り、操縦室から執務室に戻ると、
ルカは私室窓に張り付き海を眺めていた。あまり多く見たことがないので、物珍しいのだろう。
「もう行かないと、定期便に間に合わんぞ」
「……はーい。今行きます」
私室の入り口から声を掛けると、
ルカは荷物を持ち歩いてきた。元からそう多くはなかった荷物はやはり少なく、それが
ルカの身軽さを象徴しているかのようだった。
ルカはこれからボーダムに出て、ボーダムからの飛空艇の定期便に乗る予定だった。予定の便はもうすぐ出てしまう、早く出なければ
ルカは間に合わなくなってしまう。
シドはまだ仕事が残っていて、見送りに出るほどの時間がない。
ルカもそれをわかっていて、執務室の出口に立って、デスクの前のシドを振り返った。
「それじゃ、また連絡しますね」
「ああ」
彼女はいつもの笑顔で“また”と言った。
ルカの日常は大体その笑みで彩られる。いかに苦難の日々であっても、彼女はシドにも笑顔を見せる。
だから……言おうか迷って、今この瞬間でも言うべきではないと思っている言葉を結局シドは吐いた。
「辞めるか?」
シドの突然のその言葉に、
ルカの背中は固まった。それからゆっくり振り返る。目は大きく見開かれているが、表情は強張って感情は窺えない。が、それだけでも、シドが何の話をしているのか解っているのだろうと分かった。
「辛いなら辞めればいい。騎兵隊でも、君が役に立てるのは証明済みだ。無理してPSICOMに残る必要はない。このままここに残ってもいい、それなら私が万事上手く取り計らおう」
現実問題、そんなことはほとんど無理だ。シドがそんなことを強行すれば
ルカは退職という形を取ることすらできないし、シドだってPSICOMに大きすぎる借りを作ることになる。そこまでする価値のあることか、と冷静な自分が言う反面、
ルカをこのまま放っておけないとも思った。彼女の人形のような顔がシドの脳裏に焼き付いている。
騎兵隊でなら
ルカがもっと活躍できるのもわかっていた。数日前のいざこざの後、少佐と中尉両名からシドは話を聞いたが、中尉はもといあの血の気の多い少佐でさえも
ルカの命令に従うと一も二も無く頭を下げ、温情に感謝すると言った。それは、騎兵隊きっての曲者である彼に認められたということだ。あの少佐が認めている人間が、シドを除いてこの世に一体何人程度いることだろう?
しかし
ルカはそこまで理解してかしらずか、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「……いいえ。帰ります。明日も仕事がありますし」
「君の言う、“不必要な”仕事がか」
言ってしまってから少し後悔した。意地の悪い言い方だ――けれども、
ルカは笑顔のまま変わらない。
「私は確かにあそこでは不必要な人間です。いるだけで波紋を呼ぶこともあるし、疎まれてもいるんでしょう。けど、私の部下は私の裁可がなければ動けません。私がいないと仕事ができない。……それだけでも、私がいる意味はある」
軍においては部下というものは配属された瞬間から上司と運命共同体だ。
ルカが憂き目に遭うのなら、直属の部下たちも同じ思いをする。
が、それでも仕事はやってくる。
ルカの目から見ても明らかに不必要な仕事なら、実際に取り掛かる部下にとってもあからさまなはずだった。けれど彼らは官憲だから、続ける以上どんな仕事も処理しなければならない。しかし
ルカがいないとそれさえできない。更にここで
ルカがいなくなったら、彼らは仕事のノウハウも持たないまま未経験の部署に飛ばされることになる――しかも、
ルカと共に昇進したためやたらと高い地位のままで。
つまり
ルカは恐れているのだ。自分が無能な上司として祭り上げられているからこそ、自分の部下が同じ目に遭うのを恐れている。
「それは残念だ」
「本当にそう思ってくれるの?」
ルカがじっと見上げた。真剣な顔は、必死にシドの裏を探ろうとしている。それが妙に可×らしくて、シドはつい笑いながら
ルカの腕を引いた。
「本当だとも」
「……じゃあ、喜んでおく」
腕の中にすっぽりと収まって、彼女は数秒動かなかった。またしばらく会えないことを惜しむような態度だった。
シドは噂やナバートとの会話でもう知っている。
ルカとその二人の友人の仲がいよいよもって本格的に壊れかけているということを。そして彼ら以外では、
ルカはシドにしか頼れないということを。
けれども
ルカは、結局この数日で一度も二人のことを言わなかった。相談も愚痴もしなかった。あの二人のことだけは、
ルカは絶対にシドに何も言わない。様子が明らかにおかしくなるのでシドから見れば大体のことはお見通しだけれど、それでも言わないから聞くこともできない。
それは時々腹立たしい。つまりあの二人は、
ルカの中で別格なのだ。時としてシドより優先される唯一。シドが強いれば
ルカは仕事を辞めるだろうが、それでは何の意味もない。順位をリライトする方法は、一つしかない。
「結婚しようか」
「……今すごい話の飛躍を見た気がするんでワンモア」
「結婚しよう」
「聞き間違いじゃなかった……だと……」
ルカはシドに身体をくっつけたまま器用に顔を仰け反らせた。どうやら本気にしていないようだった。いついかなるときもふざけきった恋人に口角を引き攣らせたシドは、しかし話を進めることにする。
これは禁じ手だと思いながら。
ルカを縛る鎖は
ルカが振りほどくべきなのだ。それを、シドのエゴで断ち切ろうとしている。
ルカはそれに気付いているはずだった。
「指輪はすぐに作らせられるし、報告すべき上司も私たちの場合直属では居ないからな。大した手間でもない」
「ちょっと待って飛躍が激しいおかしい意味わかんない」
「ナバートやロッシュはよく思わないだろうがまあ、争う理由がなくなればすぐ元に戻るさ。得てして距離で解決する問題だ」
「……せんぱい」
ナバート、と言った瞬間、腕の中の
ルカがびくりと身体を強張らせて、ああやはり気に病んでいたのだろうなと思う。
ルカにとってあの二人は何より掛け替えの無いものだ。
ルカは、出会った頃からそうだった。あの二人を何より大事にしていて、シドに対しても警戒を剥き出しにしたことがある。
ルカは大切なものを大切に扱うことを躊躇わない。誰もが当たり前だと思うものに、ずっと配慮をし続ける。自分の置かれた環境を読み取る能力に誰より長けていた。
ナバートよりロッシュより、
ルカに目を掛ける理由は何だと問われたことは一度や二度ではない。それはシドの一番近くにいるリグディでさえ理解していない。
ルカは現状の把握に、そして他人の思考を読み取る嗅覚に長けているのだ。だからシドは他の誰より
ルカの報告を信用する。彼女の、全ての要素を読み取って一つの筋道を見つけ出す能力は随一だからだ。
それは普段の、いかにも脳天気な顔色で綺麗に隠されているものの、時折顔を出して彼女の有能さをシドに見せてきた。総合的にナバートたちより有能だとは言わない。けれども、ナバートたちの方が有能だとも思わない。
ルカはシドの部下として有用だった。同じことは他の誰にも望めない……リグディと同じく、得難い人間なのだ。
だから、失いたくない。シドはいくつも、理由を並べ立てようとする。
「部下の教育も今から根回しをすれば後の負担を軽減させることはできるだろう。望むなら騎兵隊で何人か引き取ったっていい。待遇は約束できないが、君を慕う部下なら君の近くに居ることを望むだろう」
「慕う部下、かあ……じゃあレイダは、ヤーグにでも引き取ってもらおうかな。私の傍にはいたがらないよね、あいつは」
その声が少しだけ愉しげな色を含んでいたので、シドは安心した。少なくとも前向きに捉えてくれているようだ。
ルカがシドの胸に額を押し付けたので、シドはつむじにキスを落とす。
公的な理由あっての辞職なら、ましてシドに関係のある理由なら、シドから口添えをするのも難しいことではない。ただの結婚ならば、“今やっている仕事を終わらせたら退職”という形を取るのも簡単だ。それなら
ルカが部下の配属先を決めることもできる。
ルカの元で実にならない仕事をしていたとしても、元のポテンシャルはそれなりに高い連中だ。時間さえあれば、問題は解決する。
「それが可能なら……私の下にいるより、ずっと良い仕事ができるね、みんな」
「そういう意味じゃないが……君が望むんなら、それでいいよ」
ルカは身体を離して、シドを見上げた。彼女の目が少し潤んでいるのに気付いてふいに目元を撫でる。
今すぐにシドの元に来ることを
ルカは望まない。逃げるのが嫌いだとかそういう話でなく、単純に今彼女の頭にはその選択肢がない。そのある種の愚かさが、彼女を形作る稀有な才能だとシドは知っている。だから無理強いはできない。“とにかく仕事を辞めろ”と言うのは、シドの本意ではなかった。
「また連絡します。……すぐに」
「ああ」
ルカは手を離す。シドは名残惜しさを確かに感じながらも、一瞬もそれを追わなかった。
ルカは笑って踵を返す。そう多くない荷物を抱えて、シドの執務室を出て行った。
それを見送って、シドは自身の机に寄りかかった。木製の大きな机の上には、ペンが何本も散らばっている。それを手袋のはめられたままの指先でかき集めた。
「……本当だとも」
残念だ、そう呟いた声に返された疑念。本当にそう思ってくれるの?……ああ、本当だとも。
シドは全て知っているのだ。右手の手袋をそっと外す。夢だと信じたい。ただの悪夢だと信じたかったシルシが、そこにはある。
「本当だとも……」
本当は猶予なんてない。
ルカだけでも救いたい。あそこは危険だ。PSICOMはもう、危険なのだ。
でも、今や自分にできることには限度がある。極稀にだが、言葉を口にする度にシルシに痛みが走ることがあった。つい数分前にも痛みがあった……「辞めるか?」、そう聞いたシドの言葉に呼応するように。
ファルシが、シドの口を噤ませる。
「恐れてはいない……だが……」
慎重を期すべきなのだろう。そうでないと、最悪の結果だってありうる。
そう……例えば
ルカを、殺さないといけないような……。
有り得ない。そんなことは有り得ない。
ルカが敵に回ることはない……そう思いながらもシドは、一旦湧いた疑念を消すことができなかった。自身のシルシを見ていると、如何な悪夢も現実になってしまう気がしていたのだった。
「閣下、ルシを発見しました」
「……よくやった。連れて来なさい」
青装束の、血の気の多いルシを味方として抱え込んだ数日後。
シドはボーダムにて下界ファルシ発見という連絡のついでのように、
ルカが行方しれずになったとの報を受けた。
シルシがまた痛んで、そして運命は廻り出す。
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