戦争が終わってほんの半年が過ぎた頃。ルブルム首都も仮設とはいえ住宅やテントが立ち並び、魔導院はようやく避難民の受け入れを終了することを決定した。引き続き互助と支援は必要であろうが、少なくとも魔導院のホールに寝袋を敷く必要はなかった。久方ぶりに片付いた魔導院を見て、臨時自治政府を立ち上げた元クラスゼロは当面の施策をいくつか提案した。その中には、今後の授業計画もあった。

 魔導院は、戦争のさなかでは政治的側面ばかりが強調されていたが、れっきとした教育機関でもある。魔法がなくなった今、何を教育すればいいかという悩みは尽きなくなったけれど、訓練生も候補生もいる。放り出すことはできなかった。彼らを教育して、荒れ果てた世界に送り出すことは、長い目で見れば最も確実な復興への道である。
 問題は、教員資格を持つ武官の多くがすでに失われ、数多く残った訓練生や候補生の授業を担当する者がいないことだった。


 女は廊下を歩いている。さばけた足取り、揺れる長い金の髪が目を引く。緑色の目を縁取る長い睫毛は頬に薄く影を伸ばすほどで、もしかしたら候補生で通るほどに若い。透き通るような白い滑らかな肌がそれを証明していた。
 目のさめるような美人であったが、サイズの余った真っ黒な服がそれらを台無しにしていた。華奢な身体は、まとわりつく布地のせいで、ただ貧相であるだけに見える。
 もったいないんじゃないか。周囲に幾度となく言われたことではあるが、女はそれを改善する気がいまだにない。この状況下では、美にさほどの価値がないからだ。いついかなるときも美しくあることが正解ともまた限らない。ベッドで陶酔させたい男はいるが、それに必要なのは布面積の少ないレースの下着だけ。服は関係ない。

 女は魔導院の端の、更に端にある教室へ向かっている。魔導院といえばエリート揃いで軍隊にも劣らぬ統率力を発揮する組織であると思われているしそれは事実だが、どんな場所にも例外は存在する。候補生でいえば12組。訓練生でいえば、このE-8クラスが当てはまるだろう。
 魔導院は試験結果に基づき厳密にクラス分けがなされる、それは有名な話だが、訓練生も例外ではない。A組からE組まで存在し、A-1クラスが最も候補生に近いクラスとなる。各組8組まで存在するので、E-8クラスとは、つまり魔導院で最も落ちこぼれの集まるクラスであった。
 地方でエリートと言われて魔導院に集められてみれば、自分より上の実力者ばかり。卒業すら危ぶまれ、このままでは見下してきた軍の一兵卒になるしかなくなる……そんな状況に腐り、せめて“真面目に頑張ってないからできないんだ”という武装を固めた哀れな子どもたち。それが彼らである。
 魔導院は、実は戦争の前から、彼らに手を焼いていた。武官には彼らを懲罰房にブチ込む権限があるが、三十人近い生徒が一斉にブーイングをすれば、たいていの人間は心が折れる。全員営倉に叩き込むわけにもいかないし、だいたいは自分を責めてしまう。
 このクラスの異常性を証明する事実がある。情勢不安に飲み込まれ、問題視はされなかったものの、実は一昨年の一年間だけで教官が二度変わっているのだ。己の指導力不足と思い込んだ武官が二人、魔導院を去ってしまった。戦争になったあとは、優秀な訓練生を戦争に送り込むことに終始し、この落ちこぼれクラスは捨て置かれていたが、今になってその歪みが響いてきた。
 なんせ、資格を持った武官がかなり死んでいる。訓練生の授業には優秀な候補生を送り込むしかなかった。生意気で話を聞かない集団を御せる器ではない、優秀なだけの子供を。だが、子供に子供は育てられない。多くの候補生がすぐにギブアップして、もう五人が担当教員になることを拒否しているという。

 とはいえ女には何も関係ない。なにせ、以上の説明すべて、右から左へまるごと聞き流しているから。

 すでに始業の放送は流れていたのに、教室はあれこれと騒がしかった。後方のドアを開け中に入れば、数十の目がざっと女を見たが、すぐにそれまで話していた相手に向き直るとおしゃべりを再開した。今度はどんな教師が来たか、全員バッチリ意識はしている。どうも候補生じゃないようだぞ。なんだあの黒い服。若いけど、武官か?そんな興味を抱きながらも、表向き全くどうでもいいという態度を保っている。愚かな子どもたちだった。
 女はそれに頓着しない。女に彼らの事情など関係ない。女がここに来たのは、他でもない、恋人の要請によるものであるから、恋人に頼まれた“魔法がない状況下での治療について”の講義をすればそれでいいのだ。たとえ彼らが一つも理解しなくても、女のせいではない。彼はそれで私を責めたりしないもの。女は男をよく理解している。

「教科書の四十八ページを開いて」

 教壇前に立って女が告げる。彼女は特に声を張ったりしないので、最前列までしか声は届いていなかった。オ、どうやらこれまでのどの教師より。大したことなさそうだぞ。怒り狂って怒鳴ることもできなさそうだ。だって、とても貧相だ。ぶかぶかの服の中に見える細い身体は、訓練生の十五歳が掴んだって容易に折れちまいそうであった。こりゃ警戒することもなさそうだと、誰もがすぐに緊張を緩める。有りていにいえば、女を馬鹿にしきっていた。なまじ美人なのもよくなかった。どことなく儚げな雰囲気の美女、小さな声。ともすれば震えているようにさえ聞こえたかもしれない。
 そしていつもの攻撃が始まる。

「せんせ〜聞こえませ〜ん」
「なにその服ださ」
「ね〜服買えないの」
「腹減ったリフレ行こうぜ」
「授業中に行くと兄ちゃん怒んじゃん」
「じゃあサロン」

 劣等生は戦争に出ない。だから知らない。女がルシであったこと、諜報四課の人間であること、クラスゼロの副隊長であること。
 女は劣等生など気にしない。ただ顔を上げ、なるほどな、と思っただけ。だから私をここにあてがったのか、と。それから、ひどいやつだなとも。このクラスのことを説明したのも、正式な要請を出したのも、同僚だった。女をここに送るというのは、この愚かな子どもたちへの、最後通牒にも等しいではないか。
 クラサメまで頼むというから仕方なく来たのであるが、どうやら授業を期待されているわけではないらしい。恋人にまでアンタッチャブルな存在として扱われていることに思うところはあるが……まあ、いいか。別にどうだって。

 女はじっと教室を眺めた。そして、どれにしようかを決めた。一番声がやかましいやつにした。だって耳に障るから。

 教科書に挟んでいたボールペンを取り出す。細いペン先が気に入っていたが、四課の支給品なので地下まで行けば手に入る。ナツメはペン先を繰り出し、歩いて、うるさい生徒の前に立つ。そして、彼が、「なんだよ」とにらみつけるのも聞かず。

「っぎ」

 ペン先を、机に置かれた手に突き立てた。

「ぎあっぎゅっ、あ、い、イテエッ、いてえいてえクソッ、何ッ」

 何のことはない。ただの固定だ。誰だって拷問の前は標的を一度固定する。やりやすさが段違いだから。周囲の生徒たちはあまりのことに黙りこくっている。単純に、理解が追いついていない。どこの教師が、生徒に一言の警告も発することなく、手をペンで貫くというのか?
 毛の立たせた茶色い髪の生えた、丸い頭を鷲掴むと、ナツメは彼の頭を重たい樫の机に叩きつけた。ゴン、というわかりやすい音が深く響いた。頭蓋骨の内側が、ただ脳漿がつまっているだけの空っぽであることを思い知るような音。

「何すんだよクソッ離せぇッ!!」

 少年が叫ぶ。まだ威勢がある。ならば、まだ痛みが足りないということ。

 ゴンッ。

 もう一度、少年は机に叩きつけられた。周囲の生徒たちは混乱した頭で呆然とそれを見つめていた。その細腕のいったいどこにそんな力があるのだ?女は無表情だった。事ここに至って、教室に入ってきたときとまったく変わらぬ顔をしていた。いっそ愉悦に歪んでいたなら、とんでもないサディストが来たんだと思っただろう。けれど女はそれを、まるで作業のように行っているのであるから、止めに入ることもできなやしない。無表情の裏にどんな怒りもなさそうに見えるからである。理由のわからない暴力は恐ろしい。いつ、何をきっかけに、別の方向へ向くかわからないからだ。それに、凶行はすぐに終わった。

 三度目のゴンッで少年が完全に沈黙すると、女は手を離したのだ。突き刺さったボールペンもそのままに、女はすたすた教壇の前へ戻り、教卓へ載せていた教科書を再び手に取る。「傷の種類はそのまま暗記すること。ただし、治療法が全く変わっているから、覚えなさい」、授業を再開する。

 誰も何も言わなかった。言えなかった。問題児で攻撃的、裏を返せば無能で意思表明ができないということ。彼らにナツメへ異を唱える能力はない。言語化もできない。この女が、どのようにおかしくて、どのように不当なことをしたのか、まったく説明ができない。そもそもここまでする理由もわからないのだ。何か行動を起こせば、彼女はまた、度を越した暴力を振るうのではないか。数名なら抑え込めるかもしれない、強いわけではなさそうだ、だが誰がやる?誰がやるんだ?どうやって話し合う?話し合いもなしに、全員が同じ考えだと信じて彼女に飛びかかれるか?
 できるわけがない。彼らは仲良しクラスではない。ただ、同じ程度に落ちこぼれ、にっちもさっちもいかなくなって傷を舐めあっているだけである。

 そんなだから、教室の真ん中より少し外れたところで机に突っ伏し、おそらくは気を失っている同級生をちらちら見ながら、授業の終わりを待つしかなかった。彼らにとって終業のチャイムは彼らにとってこの上ない福音だったことだろう。だが、慌てて飛び出すことはしなかった。女が教科書を手に出ていくのを辛抱強くジッと待つはずだった。そこに新たな訪問者がなければ。

「……うぉい一人死んでんじゃねえかお前!殺すなって言ったろ!」

 深刻そうでいて、どこか軽薄に聞こえるような、若い男の声がした。くすんだ金の髪、ヘアバンド。朱いマントを見て訓練生たちは顔色を変える。劣等生たちはほとんど会ったことも話したこともなく、なんなら漠然とした嫌悪感さえ抱いていた、あのクラスゼロだ。
 恵まれすぎた才能にずっと嫉妬していたけど、でも彼らならきっとこの化け物みたいな女をどうにかしてくれる!その期待を籠めて男を見たが、男は生徒たちに目もくれなかった。死にかけている生徒の脈を取ってしゃがみ込み、深々息を吐いて女を見る。

「生きてるから治療しろぃ」
「やよめんどくさいもの」
「そういうところだぞお前。あー、それで、訓練生諸君?」

 男、ナギは、鈍色の目を瞬かせ、冷たい視線をほうぼうへ向けた。その目は女の無感動さとは違って、怜悧な怒りを秘めている。

「奮わねえのは大変結構。馬鹿も間抜けも使いみちはある。だが面倒を引き起こす奴は損益にしかならねえ。平時なら許してやったがこの状況だ。また派遣する候補生怒鳴りつけるようなことしたら、またこいつが来るからな。こいつはお前らの命なんて塵とも思ってねえぞ」
「それはお前も一緒だろうが。人を人でなしみたいに」
「そう言ったんだよ?お前は人じゃないんだよ」
「じゃあなんなんだよこの野郎」
「俺と同じ生き物だよ」
「間違ってないから否定もしづらい」

 彼らはどうでもいい口喧嘩をしながら教室を出ていってしまったので、訓練生は一言の意見も許されなかった。こんな暴虐あっていいのかと思えども思えども、もう言う相手もいやしない。
 仕方がないので数人がかりで気絶した生徒を医務室へと運んだが、そこで白衣をまとった女と再会し、彼らは今度こそ悲鳴を上げたのだった。
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