夢主の名前を入力し、変換をクリックかタップしてください。デフォルトだと“ナツメ”になっています。




どんなに重たい夜闇の後にも、必ず朝日は差し込む。ナツメは木に深く凭れかかったまま眠っていた。
目覚めはゆっくりとしていて、どの瞬間に目覚めたのか、いつから朝日を眺めていたのか判然としない。裏を返せば、眠りが浅かったのだろう。

「……ん……?」

幾ばくかの時間ののち、クラサメもナツメの傍らで目を覚ました。ナツメがかさかさに乾いた口を動かしておはようを言うと、クラサメもわずかに混乱した様子で短く返事をした。そうして、周囲を素早く見遣ると、

「ここはどこだ。どうして私達はここにいる?」

そう問うた。
頭の働かないナツメは言い訳が思いつかず、一瞬黙りこくってしまった。その合間に、クラサメはおそらく多くを見た。
首と肩の間、腕や足に生々しく残る血の痕。それからおそらく、へばりついた精液のにおいも。

クラサメは呆然としてから、慌てて「誰にやられた」と聞いた。
ナツメはそれでもまだ上手い答えが出てこなくて、意味もなく「大丈夫だから」と答えた。何一つ、大丈夫ではないのに。
そしてクラサメはほんの瞬きほどの思考で、察して、理解して、思い出してしまった。

「……私か?私が、お前を……襲ったのか?」
「しっ、仕方がなかったの!クラサメは、変異したのよ」

クラサメはナツメの言葉に顔を顰めた。

「変異?変異って……狼になる、あれか?私は狼じゃないのに、なぜ……」
「それは……私もこの前、カトルに聞いたばかりなんだけど。人狼の歴史はもともと、狼の王っていう、魔物か神かもよくわからない存在と人間が交わったことから始まっているの。その血を引いている人狼は誰でも、変異の可能性がある。でも変異にはきっかけが必要で、……群れではシャーマンが魔術に触れさせて、変異する能力を目覚めさせる。でも、あなたはイヌだから、それに触れたことがなかっただけなんだよ。……だけど、私が魔法を使ってしまった」
「……出会ったときか」
「しかもあなたには才能があった。癒やしの術まで使えるようになっちゃった。いつ目覚めてもおかしくなかったんだと思う」
「待て、それはわかったが、……それがどうして、お前にこんな……こんなことを……」

クラサメが項垂れ、マスクの奥で聞いたこともないような憔悴しきった声を出した。彼にそんなつもりがなかったことは、ナツメもよくわかっている。
もしそんな意思が少しでもあったなら、今までの生活で機会はいくらでもあったはずなのだから。意思に反して及んだ凶行の責任を感じるあたり、クラサメらしいと思った。

「初めての変異は大変なの。身体が過剰反応を起こすのか、理性が完全に無くなって、何もわからなくなるの。言葉も話せなくなるし、自分が誰かもまともに思い出せなくなる。私も最初のときのことはよく覚えてるわ、気がついたら傷だらけで地面にひっくり返っていた。変異はそういうものなの。だから、あなたが悪いんじゃない」
「それでも、ナツメ……!」
「こんなことに巻き込んで、本当にごめん。変異なんてしたくなかったでしょう、悪いことをしたわ……」
「そういうことじゃない!!いい加減にしろ!!」

表情もなく謝罪するナツメに、クラサメの怒号が上がる。吐く息にさえ怒気を孕み、眦を釣り上げて彼はナツメの腕を掴んだ。

「お前が巻き込んだんじゃない、まるで全部がお前のせいみたいな言い方はもうやめろ……!私は私の意思で、お前に関わってるんだ!」

クラサメの怒鳴り声が響いてナツメはびくりと肩を跳ねさせた。彼の言葉がうまく頭に届かないまま、ナツメは気がついたら泣いていた。
泣きたくなるような感情の動きはない。ナツメの心は夕凪のように静かだった。それなのに、涙が溢れて止まらない。
クラサメは泣き出したナツメに驚き、惑った。

すまないと謝られたら今度こそ泣きたくなった。既に涙は止まらないのに。謝ってほしいなんて一瞬も思わなかった。
じゃあ彼に何を望んでいるのだろうかと思ったら、いよいよ涙はなかなか止まらず、ナツメはわなわな泣き続けた。その間クラサメはずっと傍にいてくれた。
どうせなら抱きしめてくれたらいいのになあと思いつつ、そんなことができる男ならたぶんこんなに好きにはならなかった。なら仕方ないと思えるほどナツメは物分りがよくはなかったので、それを望み続けたけれど。


暫く泣き続け、収まってようやく、とりあえずここにずっといてもいいことなど一つもないので、クラサメとナツメは大小様々な問題を棚上げし街へ戻ることにした。ぼろぼろのナツメの風体では、鼻の鋭い人狼が相手でなくてもナツメが襲われたことなど一目瞭然なので、クラサメのコートを借りた。
数ヶ月前と同じ、彼のにおいが染み付いたコートは、ナツメを妙に落ち着かなくさせた。

まだ朝方なので、遠くから職人が仕事をする音が聞こえてくるばかりの街の中を歩いて、二人は家に帰った。時折クラサメが「歩き辛くはないか」「痛むところはないか」と聞いてくるのが、こういうことにあまりにも初心なナツメとは歴然の差の経験値を感じさせて、言われるたびに大丈夫ではなくなった。けれどそのことをうまく伝える術もわからず、ナツメはまるで機械かなにかのように「大丈夫」を繰り返すばかりだった。その「大丈夫」を聞くたびにクラサメの表情も翳るようで、信じていないことは明らかだった。

ひどいドツボにはまっている。家につくころ、ナツメは思った。

人間はあまり水浴びはせず、基本的にはいつも髪を洗って身体を拭く程度だというので、街に来てから水浴びする機会は多くなく、ナツメは水浴びがしたくなったら近くの川へ出向いていたのだが、今日ばかりはクラサメが大きめの桶を奥の部屋から引きずってきて、埃をていねいに払って井戸から水を汲んでくれた。水を浴びて汚れを流すよう言って、彼は家を出ていってしまうが、ドアの向こうに気配があるので、ナツメが全てを済ませるのを待っているのだろうとわかった。なんなら手伝ってほしいくらいには全身が痛むが、今のクラサメにそんなことを言ったらものすごく嫌でもそれを懸命に押し留めて本当に手伝ってくれそうなのでやめた。

痛む腕を動かして服を脱ぎ、ナツメは改めて己の身体を見下ろす。よく見えなかったが、触って検分する限り、鎖骨より肩に近いあたりに穴が空き、そこを固まった血が塞いでいる。腕や足にも点々と同じような痕があるが、噛まれたのは首だけなのでひどいのは主に首だ。
ナツメは跪いてまず髪を洗った。屈むのは想定外に辛かったが、潰れた草の匂いがついた髪が洗われずそのままというのはかなり嫌悪感が強かった。
それからもちろん、下肢を念入りに洗った。腿の傷は水に沁みて激痛だったけれど、それでもここを洗わないと話にならない。少なからず傷は多く、抵抗を感じながらも中にそっと指を差し入れてみると感じたことのない鮮烈な痛みが脳裏を占めた。どろりと粘ついた精液は既に大部分が地面に流れ出た後だったのでそう多くはなかったが、まだ少し中に残っているようだった。

痛みが収まるまでじっとしていた。それから、服をもう一度羽織って、ドアを開けた。クラサメはずっとそこに立っていたようで、ナツメを見ると決まり悪そうな顔をした。髪を拭くナツメをよそに彼が汚れた水を家の裏に捨てに行く。ナツメはベッドに座り込んで、黙って髪を拭い続けた。

クラサメが戻ると、ナツメは顔を上げた。なんと声を掛ければいいか、互いにわかっていなかった。
大丈夫かと問えば機会的に大丈夫だと返してしまう。さんざ繰り返したやり取りだ。クラサメは落ち着かない様子でマスクを外し、戸棚に置いてナツメに向き直る。

クラサメは結局、ナツメの前に立って、「すまなかった」と言った。

「……だから、クラサメが悪いんじゃないんだよ。変異の瞬間は子供でも大変なんだ、暴れて……。成人してから初めて変異したら、その、性衝動って言えばいいの?そういうことになるっていうのは想定してなかったけど……」
「……すまん」
「クラサメは何も、」
「悪くないなんてことはないんだ」

クラサメが短く、どこか叫ぶような声で言った。それから、聞いてくれるか、と問うた。
そう言われて嫌と言うほど、クラサメの言う着地点がわからない。ナツメはただ、頷いた。

「お前を待つ間、思い出していた。昨夜のことを」
「森で会ったときのことだね」
「ああ。……昨日は、昼に一度仕事を抜けて家に戻ったんだ。だが、もう帰っているはずのお前はいなくて、それでお前を探していた」
「……大丈夫だったのに」
「わからんだろう。怪我人だったしな。それで、聞いて回って、シュペングラーの婦人が街の出口の方へ歩いていったというから、そこから……あとは鼻で追った」
「だいぶ、鼻が鋭くなってるんだね。それっていつから?出会った頃はそんなことできなかったでしょう?」
「ああ。……二週間前、群れに連れて行かれたお前を探しに行ったときからだ。おそらくな」
「たぶんそれが、変異の兆候だったんだね……」
「お前と同時に、あの白い男の気配もしていた。それで、……腸が煮えくり返るような、そんな感じがして」
「え……」
「ようやく見つけたお前からも、あの白狼のにおいがぷんぷんしていた。……だから、きっとそれで我を忘れたんだと……思う」

ナツメは何を言えばいいかわからず、呆然としていた。
だってそれで怒るなんて、どうして。心配するならわかるけれど、怒る理由がわからなかった。

そんなナツメを見て、クラサメは暫時逡巡するような仕草をしてみせた。ナツメが見つめれば見返してくる。その距離の近さに気づいて、一旦離れようとしたときだった。

「お前、あの男が好きか」
「……はい?」
「あの白狼だ。……お前、あのとき、言っただろう」

子供を生むなら、あなたのがいい。
とか。
カトルがいたままだったら、私は群れを離れなかったわ。
だとか。

自分が苦し紛れに言ったことなんて、だいたい覚えてはいない。けれど言われてみれば、そんなことを言ったような気もした。

「あんなのっ、……あいつの子供は産みたくないし……まあ、群れを離れなかったっていうのは、そうかもしれないけど」
「お前、あの男が好きなんじゃないのか」
「え、……ええ……?」
「そうだろうと思っていたんだが」
「ちが、……違うよぉ……そりゃ、兄弟じゃない、同じくらいの歳の人狼は群れにあいつしかいなかったからね?昔はちょっと、そういうこともあったかもしれないけど」

ナツメに意思のあることを覚えていてくれるのは彼だけだったから、ある意味当然の帰結と言えるだろう。
けれど、カトルがいると、群れに貢献できないナツメなど無視されて当たり前に思えてきてしまうのも事実だった。好きでいることと嫌いでいることだったら、ナツメにとって易いのは後者だった。だから、次第にナツメは彼を嫌った。今は別段憎い心でもないけれど、そういう経緯があったのは事実だ。

「きょうだいに囲まれていたから、カトルはただ、私にとって正しい答えだったの。でも今は、もう群れを出ているもの」
「……そうか」
「でも、それでどうして怒るの?」

クラサメはもう一度押し黙ったが、突然手を伸ばし、ナツメの腕を掴んだ。

「いつっ……」
「痛むのか!?……そういえば、お前怪我は」
「ちょっとだけ……」
「見せてみろ」

自分がナツメを襲ったということで頭がいっぱいだったらしく、ナツメの怪我のことは目に入っていなかったらしいクラサメが、慌てて血のついたあたりを検分しようと顔を近づけた。ナツメは驚いてのけぞったが、おかげで首の傷が開いたらしく、激痛に喉の奥で悲鳴が翻った。

結局、前開きのワンピースの襟のボタンを彼が外し、クラサメに傷を確かめられることになった。襟元を開いた瞬間、彼が息を飲んだので、それなりにひどい怪我なのだろうことは見なくても察した。

「……ナツメ。痛みに耐える覚悟は?」
「ちょっ、待ってまさかまたやるつもりなの!?」
「お前が長く苦痛を味わうのは嫌だ」
「……そんな、でも……私だってクラサメが痛いのは、その……」

嫌だ。そう言ったら、クラサメは問うのを止めて、ナツメを抱き寄せた。
その手は優しい。怪我人のナツメを慮っていることは考えるまでもなかった。
すぐに、魔術は始まった。

「っう、ううぐ……ぐ、ぐ……!!」
「すまない、ナツメ……ッ」

耳元でクラサメが謝るのを聞きながら、ナツメは彼にすがりついた。
傷は比較的すぐに癒えたが、絶え絶えの息が戻るのを待つ間、ナツメは彼の肩に額を押し付けていた。身体がとても熱かった。

背に回った手が落ちる。ベッドの上、ナツメは自分の呼吸が次第に落ち着くのを感じる。
離れるべきだと思いながら、うまくきっかけが掴めない。離れたくないのだ、私は。彼の罪悪感に甘えている。

「……ナツメ
「……はい」
「こういうことを聞けば、嫌な思いをするだろうとは思うが。……イヌが相手でも、妊娠する確率は高いんじゃないのか。だから、もし、“そう”なら……」

もし、妊娠したなら。

「そうなったとして、クラサメには関係ないよ」

クラサメが続きの言葉に何を選んだとして、ナツメはそれを恐れている。どんな答えも欲しくなかった。
強張るナツメの表情に、クラサメはもっと顔を顰めた。

「関係ないはずがないだろう!もしそうなら、お前だけの問題じゃない」
「最初の変異で起きたことは、本人の責にはしないのが、狼のならいなのよ」
「私は狼じゃない!」

クラサメはナツメの手を握り込んだ。突然だったし、想定外にその手も熱いので驚いてしまった。

「私は私の望むようにしかしない。お前ももっとそうするべきだ。狼のしきたりや掟はもう忘れろ」
「嘘だあ……あなたが好き勝手にしてるとこなんて見たことないよ」
「嘘じゃない。だから私の身に起こる全部は、私の責任なんだよ。お前にああいうことをしたのだって」

クラサメの指が少し動いて、ナツメの指の合間をなぞった。その動きは、昨夜の粗暴さからはかけ離れた、でも男女の触れ合いを予感させるものだった。昨夜もっとすごいことを経験させられたばかりなのに、初心なナツメにはそれさえ戸惑いのもとになって、顔を熱くさせた。

「覚えている。変異の直前、私は恐れていた。あれは性衝動なんかじゃない。あのとき思ったのは、お前が白狼に奪われることへの恐怖だけだった。私は望んでお前に触れたし、望んでお前を犯したんだ」
「……あ、あの」
「そんなこと理由にもならないのはよくわかっている。……犯されることを恐れて逃げてきた女を犯したということも。お前が嫌うなら、私はお前にはついていかない。お前の好きなようにしてほしい」

クラサメはそう言って、黙ってしまった。ナツメはようやく、彼が気にしているのは嫌がるナツメを犯したことであるということを理解した。
ナツメが妊娠しているかどうかなんて結果の話だ。そうなったとして、きっとクラサメはナツメを見捨てない。だから、クラサメはそれ以前のことを言っているのだ。

「……突然で嫌だったし怖かったし泣いてもやめてくれないし、痛かったけど」
「……すまない」

彼は項垂れ、ナツメの顔を見ない。

「けど……クラサメだったから」

見れば、もう恐れていないことも、何一つ嫌っていないこともわかるんだろうに。

「頑張れば逃げられたとは思わないけど、でも途中でわからなくなった。逃げたいのかどうか。それでもやっぱり、ほんとは、変異なんてしてないほうがよかったけど」
「……ナツメ
「知らないなんて言わないで」

知らないふりなんてしないで、いまさら。山奥で育った無知な娘に世界をまるごと与えておいて。
巻き込みたくなくてひどい嘘を言っても、助けにきてくれて。守ってくれて。
ナツメの苦しみに添うてくれた。下肢の合間から痛みが襲っても、してくれたことばかりが浮かぶのに。

「助けに来てくれたこと、ありがとう」
「……突然、何だ」
「言ってなかったから。あのとき言ったこと、全部、ごめんね」
「別に……もういい。もういいんだ」

クラサメの手が、ナツメの手から腕へ滑り、背中に回った。遠くに聞こえる波の音、人の声、それ以上に自分の心臓が音を立てている。
ふとナツメは、前任のシャーマンから聞いたことを思い出した。

「あ、あのね……そういえば、子を作るときは、狼同士の姿になってからって決まりがあるんだった。私も関わったことがないから、よくわからないんだけど……」
「決まり?群れにか」
「そう。理由は知らないけど、そうじゃないと妊娠できないのかもしれない。だから、多分大丈夫なんじゃないかな」
「……そうか。お前が脅かされないのなら、それでいい」

そう言ってから、クラサメは、海を渡った先での話をした。
渡ってから話そうと思っていたけれど、イヌばかりの小さな町があって、そこにはイヌの医者も産婆もいる。
狼の多産による母体のトラブルはイヌだって例外じゃないはずなのだから、ナツメを助けられる方法は必ずある。

それが真実であれ、慰めであれ、希望的観測であれ、クラサメの声で語られると途端ナツメを安堵させた。

明日には船が出る。クラサメが貯金をチケットに換えておいてくれた。人生を変える何かが、目の前に一枚の紙として存在しているのはどうも不思議な気持ちになった。高揚と不安が、一緒になってやってくる。
そのチケットを暫く眺めていたナツメだったが、空腹を思い出して戸棚にしまった。

「あっ、ご飯捨ててきちゃった」
「ん?」
「昨日、クラサメと食べようと思ってご飯買ったの。山に置いてきちゃった」
「買ってくるから、休んでいろ」

まだまだ罪悪感があるらしいクラサメは自分から申し出て、コートをひっつかみ出ていった。その後姿を見送って、ナツメはベッドに倒れ込む。
森での浅い眠りでは全然、身体の節々にくぐもって残る疲れは癒やされていない。ただじっと休みたかっただけだったが、横になってしまえば揺蕩うようなしどけない眠気が頭を支配してしまう。
鈍った脳で考えられるのは昨夜の、痛みの奥にあった快感のこと。腹の奥を押されて、彼を締め付け、ナツメはまんまと女だった。

「ふ……」

ナツメは、うつらうつらとクラサメの触った指を噛む。
もう一度を望んだらふしだらだと嫌うだろうかと、寝ぼけた頭で考えた。



Back
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -